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虫眼鏡で観る世界〜『中谷宇吉郎の森羅万象帖』〜

初めての化学実験は、結晶をつくることでした。小学生のときみょうばんや氷砂糖、ハイポといった結晶をはじめ、フェルトと液体接着剤で人工雪を作ったりもしました。原子や元素という言葉を知ったのもその頃です。

 この本は、「雪は天からの贈り物」で知られる中谷宇吉郎の生涯を雪や火花放電の研究で撮られた写真からたどるものです。宇吉郎は、「天災は忘れた頃にやってくる」で有名な寺田寅彦の弟子でもあり、研究のほか随筆や映画などを遺しています。寺田寅彦の随筆で金平糖について書いたものがあります。金平糖の形は、製造の過程で自然に成長してできるものであり、その機構の不思議さや面白さを書いていたと記憶します。宇吉郎は、寅彦のもとで火花放電の形に関する研究を行い、北海道へ移るとともに雪の結晶の研究を始めます。

 結晶をつくることは、並大抵のことではありません。なぜなら、不純物や温度、濃度といった条件の影響を受けやすいためです。まして、雪のような温度や湿度へ依存する結晶の場合なおさらです。氷をつくるのならば、水を凍らせれば良いのですが、雪の結晶を形の区別ができるほど成長させるためには、氷点下、水蒸気から結晶を成長させる必要があります。そのような努力は、雪の結晶への興味がなくてはできないと思います。

 宇吉郎は、雪の結晶の形を分類し、人工結晶の研究によって、それぞれの形ができる上空の気象条件を湿度と気温の「中谷ダイアグラム」として表しました。また、天然の雪の結晶の写真を遺し、自然の失敗作をそのまま記録しています。宇吉郎の研究は、原子や元素を知らなくても容易に知ることができます。それは、水と地球と宇吉郎の織りなす神話なのです。

 初めての化学体験は、結晶を作るということの喜びに基づいたものでした。作ったものは、もはや自分の手を離れ、自然のものと思われたからです。しかし、宇吉郎の研究は、作る喜びより自然を知ることの喜びに基づいているようでした。この本には、観察用の虫眼鏡が付いています。その虫眼鏡を覗いて、雪や火花放電の写真を観察すると不思議とさまざまなことへ興味が湧いてきます。言われても気づかなかった結晶の違いやその構造が、観察を通して知ることができました。ここでは、虫眼鏡を使うことそのものが宇吉郎の生涯を知る上で重要な主題となっているようです。

 「限りなく降る雪何を齎すや」という西東三鬼の俳句があります。根源俳句と呼ばれる三鬼らの俳句が求めたものは、俳句という虫眼鏡によって自然や人を知ることであったのではないでしょうか。顕微鏡や望遠鏡、カメラのレンズを覗いたとき、そこにある景色は、私だけのものです。それを現像することは、手離す感覚に近い。作るや書くといった行為に焦点を当てたとき、手離すことばかりに気持ちが向いてしまうことは、作り手や書き手として気をつけておくべきことだと思います。

 古来短歌などで詠まれてきた雪月花の雪は、無常で美しいものの代表といえます。宇吉郎の雪の写真は、その儚さの短い時間の中で撮られたものでありますが、その苦労を感じさせません。それらの写真は、在るものの美しさといえます。伝統的な無常観や美的感覚は、背景となりその美しさを支えています。ここに宇吉郎の芸術の真髄を見ています。世界で初めて氷の結晶を作成した宇吉郎は、「氷は金属である」と言ったそうです。これは、紙を重ねたような結晶の特性を述べた言葉であり、また宇吉郎の美的感覚を表していると思います。

 本には、写真のみでなく随筆や絵画も載っているのですが、その中で好きな名言「成功は失敗のもと」があります。これは「失敗は成功のもと」のもじりだと思いますが、現代の成功を偏重する科学への警鐘とともに、雪の失敗作を喜んだ宇吉郎の科学哲学そのものと受けとれます。学問や人生、仕事において失敗して投げ出したくなることばかりですが、失敗を遠ざけず、身近なものとして大切にしようと思っています。

読書案内
・福岡伸一 他, 中谷宇吉郎の森羅万象帖(LIXIL出版, 2013).
・寺田寅彦 著, 池内了 編, 科学と科学者のはなし : 寺田寅彦エッセイ集(岩波書店, 2000). 金平糖や電車の混雑、涼味についてなど俳人や物理学者としての寅彦が垣間見えるテーマ別エッセイ集。
・中谷宇吉郎, 科学の方法(岩波書店, 1958). 宇吉郎が科学という学問について書いた本。
・山本健吉, 定本現代俳句(角川学芸出版, 1998). 山本健吉による俳句評論を集めたもの。
・菊池勝弘, 梶川正弘, 雪の結晶図鑑(北海道新聞社, 2011). カラーで雪の結晶の偏光写真が見れる。

記事案内

純粋な好奇心を原点に『中谷宇吉郎の森羅万象帖』|つきこ|note : 同書について本格的な読書体験記です。

『雪を作る話』|ロウテク生物学|note : ペットボトルで雪の結晶を自作する方法などご紹介されています。

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