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掌編小説

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記事一覧

【掌編小説】春の栞

 小説のことを私は何の迷いもなく好きだと言える。  自信や情熱などではなく、逃避や降参の思いだ。自分にはなにもない。個性や情熱やテーマがなにもない。『なにもない』すらなかった。  遠い憧れであるものは実体を掴めない。だから私は小説を好きだと言える。  そんな月並みの好きをもう一つ。  クラスメイトの男の子。  接点は、同じクラスであることだけ。どこに憧れたのかも言葉にできない。一挙一動を何故か気にしてしまう。あやふやなままにときめいて過ごした三年間。  結局、三年間そのままだ

【掌編小説】春の風

 私はとても弱い人の面倒を見ていました。  夏の日差しも、冬の空気も、彼の柔肌はそれを透過して負荷を蓄積してしまうのです。堰き止めておける負荷の量は多くはなく、そしてその堤防が決壊することは命の危機と同じことでした。  彼はとても弱く生まれたのでした。  気持ちの昂ぶりもいけません。彼は喜びも哀しみも笹舟を川に流すように見送ります。その切なさにはとうに慣れたようでした。  そんな彼も、もう終わりました。  最後の時、彼は教えてくれました。  春の季節が好きだったと。  ゆっく

【掌編小説】春の思い出

「まいったなあ」 「なに、どうしたの?ベランダ眺めて」 「いや、仕事行きたくないなあって」 「五月病には早くない?」 「違うって。ほら、外」 「外? いい天気じゃない」 「だからだよ。風も強いしさ」 「ああ、花粉?」 「そうそれ」 「確かに飛んでそうだよねえ。花粉症酷いの?」 「去年も同じこと言われたよ」 「じゃあ、来年はなーんにも言わないことにする」 「うそうそ、ごめんて。ねえ、薬ないの?」 「去年眠くなるからいらないって言ってたじゃん」 「あー、まあ。……ってか、覚えてん

【掌編小説】木漏れる雨に花滲む

 一昔前と呼ぶよりも昔の定説を思い出した。その定説を信じている訳でも偏見があるわけでもないのだが、珍しい見事な金髪と主張の強い胸部から無意識に想起されてしまった。理不尽な後ろめたさには十分だったし、彼女が学生服を濡らしている点からその罪の意識は輪を掛けて強く感じる。  雨水の滴る薄暗い緑廊の下に訪れた彼女に私は『仕事モード』で応対することに決めた。 「あ、どうぞ、使ってください」  伏し目がちにタオルを手渡す。受け取ってもらうために一言添えた。 「会社の支給品ですからどうせ使

【掌編小説】ハンドクリーム

 スーツを通したこの身体は、まだ血が滞っている。  外気に触れずとも、私の手足は低い彩度で無防備だ。  手のひらを見つめて、指を折り、音のない軋みを聞く。  爪を見る。乾いている。  青缶から取り出したクリームを指の背に乗せた。  親指で人差し指と中指を撫でるようにして拳を包み込む。  押しつぶされたクリームが延ばされていく。  溶け馴染む油分に包まれ、熱とは異なる温かみを感じた。  その感覚は一瞬の幻影で、それを確かめたい幽かな衝動が、私の手をゆっくりと滑らせる。  手を握

【掌編小説】草場の影の夢枕

 不快感を煮詰めたようなじっとりとした暑さがこの村には漂っている。季節が過ぎれば四季の移ろいとともにその不快感も流されるには違いない。しかし、私がここに来るのはこの時期だけだ。  梅雨。私はまだ約束を破れないままでいる。  かこん、と何度目かの鹿威しが落ちて響いた。静謐な空間に水を打ったような響き。だが、余韻は風化している。雨は一頻りの波を越えてさらさらと砂が流れる程度の微かな音で背景にある。虫は黙っている。離れた竹林のざわめきも馴染みきって新しくない。この庭と同じである。

【掌編小説】夢の話

 かつん……かつん……  私は階段を降りていた。  かつん……かつん……  赤茶けた螺旋階段だ。  私の履いている靴は大して固くないのに、階段の音はいやらしく響いていた。水が滴っていたからだろう。上の階段の隙間からも、赤茶く汚れた水が落ち跳ねた。  かつん……かつん……  手すりに触れると錆が水の膜を突き破る。  ザラザラと、固く痛々しく、剥がれていく。  ただ、気持ちだけが静かだった。  ぐるぐると階段を降り続ける度に、溺れるような酔いが頭を占めていき、鉄錆の音も、水音も遠

【掌編小説】流れ着いた流木

「え、はい。なんですか?」  波の音がやけに五月蝿くて反応が遅れた。  振り返ってみると私の子どもよりもずっと若い男だ。時間と顔つきで判断するに大学生のように思われた。 「あ、いえ。挨拶です。こんにちは」  彼は気遣って、こんにちは、を大きく丁寧に発声した。ありがたくもあったが、そのような扱いを受ける歳なのだと思い出され、寂しくもある。 「ああ、すいません。こんにちは」  働いていた頃のようになるべく明朗に挨拶を返しておく。自身へのささやかな抵抗だ 「掃除、いつもされてるんで

【掌編小説】鯉の池の沈没船

 祖母は極端な人でした。 「残さず食べなさい。よく食べる子が良い子なのよ。よく食べない子は悪い子ですからね」  祖母がご飯を出す時は、必ずそう言って出してくれます。過剰に出されることもないのですが、毎回そう言われるので、もし食べきれなかったらどうなってしまうのかと私は怯えていたのです。  今となってはどうもしなかっただろうとわかります。せいぜい、計画性のないお菓子について小言を言われる程度でしょう。  しかし、やはり私は怖かったのです。  祖母に嫌われてしまうことと、祖母を悲

【掌編小説】切り株古墳の馴染む庭

 庭を掘り起こしていた。切り株を処理するためだ。  その木は家の外壁に近く、窓際に植わっていたので視線を遮るには丁度良い木だったのだが、如何せん近すぎた。伸びた木の根が地面押し込み、長い年月によってコンクリが割れたのだ。  僕にとってコンクリは石と同じようなものだから、それが根によって引き裂かれたなんてことは微塵も思いつかなかった。知識がなかったわけではないが、小さいひび割れが徐々に徐々に気付かないスピードで馴染むものだからそのひび割れがなかった頃を遡ろうにも思い出せない。破

【掌編小説】おにごっこ

 いや、そんな畏まった感じ出さんといてや。村の儀式とか言ったってそんな怖い風習とかやないから。魔除けみたいなもんよ。婆ちゃんも笑ってたやん? まあ、あの笑い方は癖やからさ。  子供の頃、鬼ごっこってやったやろ? まあ、色鬼でもケイドロでもなんでもいいわ。鬼がいる遊び。うちの村ではな、遊び終わると鬼はその子どもに一匹取り憑くって言われとるんよ。鬼役を皆で演るんやから一匹くらい宿ったってお話としてはおかしくないやろ?  もちろん子どもが演じて宿った鬼やから大した悪さはせん。でも、

【掌編小説】飼い主に似た瞳

 赤の他人の家に入ったことはあるかい?  私はあるよ。それも頻繁に。  別に犯罪じゃないよ、バイト。  学生の頃、親戚の電気工事士のところでバイトをしてたんだ。  エアコンを取り付ける手伝い。  夏は忙しくて猫の手も借りたいほどに大変なんだ。  物を運んだり、配管を上手く曲げたりするのに一人だと時間がかかるしね。  かなり割のいいバイトだったよ。その分、体力的にきついけど。  まあ、そんなバイトをしていたもんだから、いろんな安アパートにエアコンを取り付けに入ったんだ。  ああ

【掌編小説】カミサマの冷蔵庫

 眠りは小さな死であるといった比喩がある。ならばと、ふとした思いつきが脳裏を過った。  この思いつきは目覚めのようであった。  対して、彼女の目覚めは緩やかで、誕生にしては寂しくて、しかし、死去と呼ぶには不自然だ。 「暗い」  彼女は声を宛てた。 「起きたのですか?」  私の疑問に彼女は答えない。答えられる解を持っていないのだ。  眠りを知らない。目覚めを知らない。彼女は光を忘れてしまった。 「ここはどこ?」  ここは…… 「冷蔵庫です」  自分の言葉と

【掌編小説】美少年と唾

 その少年は美しかった。  白く薄い肌が弱々しく見えるくせに活発でよく笑う男の子だ。  僕の家の近くに引っ越してきたその家族は、全員少年と同様に美しく、上品で大きな家に住んでいた。貿易商を営んでいる主人は外国の人で使用人から旦那様と呼ばれていた。そう、使用人がいたのだ。  しかし、気さくで近所と言うこともあってか、家に招待されることもあった。私服でお邪魔するのは気が引けたから、訪ねるときはいつも学校の制服で行った。そこが、良かったらしい。真面目な学生だと評価を受けて、次第に僕