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【掌編小説】春の栞

 小説のことを私は何の迷いもなく好きだと言える。
 自信や情熱などではなく、逃避や降参の思いだ。自分にはなにもない。個性や情熱やテーマがなにもない。『なにもない』すらなかった。
 遠い憧れであるものは実体を掴めない。だから私は小説を好きだと言える。
 そんな月並みの好きをもう一つ。
 クラスメイトの男の子。
 接点は、同じクラスであることだけ。どこに憧れたのかも言葉にできない。一挙一動を何故か気にしてしまう。あやふやなままにときめいて過ごした三年間。
 結局、三年間そのままだった
 遠い存在のまま、彼を知らぬままだったから、好きでいられたのかもしれない。彼が好きな歌も本も天気も知らない。そのくせ私はまだ、彼を盗み見ていた。
 桜が咲いているのに、卒業するというのに、私には何もなかった――。
 ふと、彼と目があった。目が合っているにも関わらず、私はまだ気づいていない。白昼夢を見ていたのかもしれない。
――どうしたんだよ?
 私はその時、何と答えたのか覚えていない。
 少し背の高い彼が、私の顔についた桜の花弁を指で摘んで、顔が赤くなるのを感じながら、今までにない彼の近さに驚いたまま、動けずにいた。
 ただ、それだけの思い出。
 私の人生に落ちた一枚の栞の話です。

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