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【掌編小説】美少年と唾

 その少年は美しかった。
 白く薄い肌が弱々しく見えるくせに活発でよく笑う男の子だ。
 僕の家の近くに引っ越してきたその家族は、全員少年と同様に美しく、上品で大きな家に住んでいた。貿易商を営んでいる主人は外国の人で使用人から旦那様と呼ばれていた。そう、使用人がいたのだ。
 しかし、気さくで近所と言うこともあってか、家に招待されることもあった。私服でお邪魔するのは気が引けたから、訪ねるときはいつも学校の制服で行った。そこが、良かったらしい。真面目な学生だと評価を受けて、次第に僕の家族の誰よりも、僕は少年の家族と仲良くなった。
 少年は僕にとても懐いてくれた。制服が大人っぽくて格好よかったらしい。
 僕のことを何でも知っている博士のように思って、何でも訊いてきた。
「電柱のつつには、なにが入ってるの?」
「湯飲みにはなんで取っ手が付いてないの?」
「花はなんで枯れるの?」
 どんな簡単な質問にも上手く答えることができなかったから、その都度一緒に調べてあげることになった。
 工事をしている人に訊いたり、雑貨屋さんに訊いたり、花屋さんに訊いたりした。いろんな所に一緒に行って、僕たち二人は町では少し有名になっていた。
 麦わら帽子を被った美少年はとても目立っていたからだ。
 二人で訊ねに行かなかったら、追い返されていただろう。
 近所の山に行くこともあった。その帰りには二人とも酷く汚れて、少年の大きな家で使用人の人に手厚くお世話をされた。小さな怪我をつけて帰ってきた日には奥さんに唾でもつけときなさいと笑われた。
 大げさに笑うので、きっと普段は使わない言葉を使って愉快なのだろうと思った。
 少年は笑って、一生懸命膝に唾を塗っていた。
 近所の山に行く理由は、動物を見たかったからだ。少年は動物が好きだった。しかし、町中では犬猫くらいしか見られない。それでもそれなりに少年は満足していたのだけれど、僕は少年に頼りにして欲しかったため、山へ一緒に探しに行こうと提案したのだ。
 山に入り、道から外れて歩き回った戦果は、珍しい色の鳥、イタチ、タヌキ、シカだ。見つけたのはいずれも少年で、少年が片手で彼らを撫でているところに僕を呼ぶと、動物たちは皆逃げてしまうのだった。
 少年は残念そうに動物を見送って、僕は申し訳なく項垂れていた。
 その日、僕は張り切っていた。
 前日に酒に浸した菓子パンを山に隠しておいたのだ。その付近にはきっと動物がおとなしく眠っているに違いない。
 少年に先行してどんどん進んでいく。岩陰に隠れた場所に隠しておいたのだ。きっとそこにはのんびり寝ぼけたサルやシカがいるに違いない。はやる胸の内を隠すこともせず、僕は立ち塞がるようにして動物の前に出た。
 そこにいたのは、巨大なイノシシだった。
 やった、と心の中で思った瞬間、イノシシは僕に向かって突進した。牙が腹にめり込み、痛みを忘れさせるほどの衝撃が恐怖と一緒にやってきて僕は宙に浮いていた。がちんっと音が鳴りながら、目の前で何かが光った気がした。次の一コマの瞬間には腹が冷たくて、頭が熱かった。
 僕は目が覚めた。さっきの出来事に驚きながら起きたため、目だけを大きく見開いた。目の前には見知った仲良しの少年が背を向けていた。動物たちに囲まれていた。シカや鳥やタヌキ。巨大なイノシシもいた。
 僕は、どこで記憶が途切れて、どこで記憶を取り違えてしまったのかをぼんやり考えていた。探せど探せど他に記憶はなく、先ほどの鮮明なシーンが夢のようにぼやけていく。
 しかし、僕は巨大なイノシシの牙に赤黒い血の痕を見つけた。ぼやけかけたシーンに恐怖が輪郭をなぞっていく。
 僕は飛び起き、それに驚いた彼らは散り散りに逃げていく。突然起き上がったためか、目の前がじわりと暗くなって見えなくなってしまう。
 あの巨大なイノシシも再度あの牙の血痕を確認することが叶わないまま消えてしまった。
「大丈夫?」
 少年の声だ。
「ああ、ごめんよ。僕のせいでまた皆、逃げてしまったね」
「大丈夫だよ。またみんなケガをしたらくるよ」
「ケガをしたら、来る?」
 じわっと、僕の視界が、戻ってきた。
 僕の服は血まみれだった。
「ユージもだいじょうぶだよ」
 しかし、傷は塞がっている。べっとりとした重みが僕を地面に引っ張る。貧血のようなくらくら以外の混乱が僕を襲い、藁をも掴むような気持ちで少年を見た。
「ぼく、いっぱいつばをつけたんだ」
 少年の口元は、真っ赤だった。

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