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窓辺から飛び立った少年――『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』に見る、庵野秀明の社会観。


※警報:EMERGENCY※

 本記事には公開中の映画等のネタバレが含まれます。

 予めご了承ください。


 お久しぶりです、渡柏きなこです。いやー『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』観ました。一度目は正直よくわからなくて……なんでこうなるんだろう、と思う箇所もいくつかあったのですが、二度目に観た時はスッとそれらが飲み込めて、こんなに面白いお話だったのかと思いました。心の底から見て良かった。

 テレビシリーズ、旧劇場版、新劇場版――エヴァは難解な物語です。かっこいいロボットが活躍するお話、と観ても十分面白いのですが、それだけの理解だときっと、テレビ最終話や旧劇場版でもやもやしたのではないでしょうか? 何を隠そう、私もそのひとりでした笑

 エヴァとは何が起きている話だったのか? それについては本記事では解説しません。私が書くのは『私はエヴァをどのように見たか』という話で……まあ、私の感想です。設定面、出来事面についてはこちらの記事が詳しく解説してくださっていますので、ぜひご覧ください。

【エヴァ考察第1章】エヴァという物語とは?アニメ版と新劇場版から紐といてみた|もひんこ #note #シン・エヴァンゲリオン劇場版

 さて、では3月8日に公開された、映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』。さっそく感想を書いていきます。テレビシリーズの放送開始から、26年。一人の人間が生まれて、大人になって、もう仕事をしているかも知れない。そんな年月を一緒に過ごした作品は他にはありません。感慨深すぎて言うことが正直まとまりませんが、まとまらないなりにどうにかお話していきます。


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残酷な庵野のテーゼ

 まず話しておくべきなのは、監督・庵野秀明が何を思ってこの「新世紀エヴァンゲリオン」というアニメを企画したか、ということです。G-PressあるいはGX Anime Expressの記事に掲載されたインタビューにて、「エヴァのテーマは?」と訊かれた庵野監督はこう答えています。

『テーマなんてものは、現在、自分が考えていることでせうね。アニメファン(自分自身)の持つコンプレックスを考えて、何が「幸せ」なんだろうか?どうしたら「幸せ」になれるのだろうか? と、まぁこの辺りでせうか。(以下略)』

 テーマとは物語に込められた主義・主張のようなもののことで、つまりそれは「テーゼ」のことなんですが、つまり庵野監督は『幸せとはなんだろう?』というのをずっと考えながらエヴァを作っていたということになります。まるでカヲルくんのように。

 では、庵野監督の考える『幸せ』とは何なのか? 結論から言うと、えー……言いづらいんですが【大人になること】、さらに具体的に言えば、【仕事をすること】です。

 ん! お待ちください! いま顔をしかめた読者の皆様! 大丈夫です。この『仕事』という言葉、我々が使うのと庵野監督が使うのとでは、意味合いが少し異なります。


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食べる=生きるということ

『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』には画期的なシーンがたくさんありました。碇ゲンドウの過去、シンジとの和解、誰もいなくなった海でのアスカとの邂逅、そしてラストシーン。意味的にだけでなく映像的にもとんでもない絵が多く、信じられないクオリティの映画だったわけですが、しかし全シーン中最も重要だったのはおそらく、第三村でシンジが立ち直るシーンです。

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』でカヲルの死を目の当たりにし、再び世界を滅ぼしかけたシンジは、アスカに手を引かれ、死亡したと思われていた鈴原トウジによって保護されます。大人になったトウジたちが暮らす第三村で、シンジは歓迎されますが、出された食べ物を口にしません。中途半端に使徒化しているため、食料がなくてもある程度は生きていけるようですが、食べなくても平気というわけではないようです。塞ぎ込んでいるシンジに、アスカは無理やりレーションを食わせます。「食べられるうちに飯のまずさを味わっておけ」というのはかなり手厳しい言葉ですが、これはアスカなりの励ましですね。

 シンジが「食べる」ことに消極的なのは、罪の意識を感じているからでしょう。「食べる」ということは即ち、誰かが頑張って用意したものを、生きるために消費すること。シンジはそれをしたくないのです。自分には食べる権利がない、生きる権利がないと考えている。シンジがあの小屋を立ち去ったのはきっと、アスカやトウジや村のみんなが、自分を無理にでも生かそうとすると思ったからです。しかし、シンジが立ち去っても綾波は彼にレーションを届け続けた。

 綾波が届けてくれたレーションも最初は食べようとしないシンジですが、やがて(おそらく空腹に負けて)シンジはそれを口にします。泣きながら、食べる。第三村で食料が貴重だというのは事前の描写でわかっています。そんな貴重な食料を、シンジは自分の苦痛に負けて、食べなければならなかった。それが悔しくて、情けなくて、シンジは泣いたのでしょう。

 やがてやってきた綾波に、「なんでみんなそんな優しいんだよ」とシンジは言います。私は驚きました。シンジはわかっているんです。いままで言葉を言葉通り、行為を行為通りに受け取っていた碇シンジが、その先を理解し始めた。言葉や行為の向こう側にある「優しさ」、相手が自分を生かそうとしていることがわかるようになった。この時点でシンジは、我々の知っている碇シンジから少し脱皮してきている。羽化しかかっている。村へ戻り、「泣いてスッキリした?」と言われたシンジが、返事をしたのにも私は驚きを隠せませんでした。


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生きる=罪を犯すということ

 庵野監督は自己投影型のクリエイターだと個人的には解釈しています。自分の魂をいくつにも分裂させてキャラクターに載せ、自分が抱える問題を肩代わりさせて、解いてもらおうとしている。シンジの抱える問題は監督・庵野秀明がソリッドに抱える問題。きっと彼の視座では『生きる』ということにはどうしようもなく『罪』が伴うのでしょう。誰かが苦労して育てた野菜や、元気に生きていた命なんかを、自分勝手に壊して、口の中でぐしゃぐしゃにして飲み込み、生きるためのエネルギーに変える。そのことそれ自体が罪を犯すことであるというのが、庵野秀明の根本的な世界観なのだと私は思います。庵野監督が肉や魚を食べないのも、もしかするとその辺りが理由、なのかも知れません。

 では、『生きる』ためにはどうすればいいのか――? 罪を抱えたまま歩き続け、どんどん重くなる十字架を背負って、いずれ潰れるしかないのか? 答えはシンプルです。罰を受けて、贖罪しながら生きればいい。それはつまり【仕事をする】ということ。誰かに用意してもらった飯の分、違う誰かの飯を用意する。それが唯一、生きるだけで罪を犯してしまう生き物である人間が、生命を続けていくためにできることなのだ。それが庵野秀明監督が、ずっと描いてきたテーマなのではないでしょうか?

 おそらく庵野秀明にとって【仕事】とは、自己実現の手段とか、お金を稼ぐためとか、上司に怒られるからとか、そういう次元の出来事ではないのです。自分が生きているだけでどうしようもなく消費してしまう社会のリソースを、どうにかして還元しなければならない。そうでなければ生きていくことができない。「僕はここに居てもいいんだ」と、思うことができない。そういう、必死に、負債を返していくようなイメージの何物か。それが庵野監督の思う【仕事】なんじゃないでしょうか。それは『プロフェッショナル 仕事の流儀』を見た人ならなんとなくわかるのではないかと思います。庵野監督はなぜアニメを作るのかと聞かれ、こう答えていました。自分にできることはこれくらいしかないから、って。


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『バカシンジ』から『ガキシンジ』へ

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』では急にアスカが、シンジのことを『ガキ』と呼び始めます。『バカ、じゃなくて、ガキね』という言葉。テレビシリーズのアスカを見ているとよくお前そんなこと言えたなって感じですが、この『ガキ』というのは意外と重要です。言うまでもなく、ゲンドウの『シンジ、大人になれ』というセリフと連関するからですね。

 さて、人は生きるだけで罪を犯す。生き続けるためには罪を償い続けなければならない。自分が生かしてもらった分、誰かを生かす。つまり『仕事』をしなければならない。そういう前提に立ってみると、作中で頻出する『ガキ』と『大人』がどういう意味の言葉なのかがわかってきます。つまり、仕事をしている人間が大人で、仕事をしていない人間が子ども、です。

 人々が生きていくために、どんどん消費されていくリソースを誰かが修復しなければならない。食料を生産し、住居を建築し、病気や怪我をした人を治し、子どもを教育し、コミュニケーションを円滑にし、新たな資源を捜索しなければならない。それら全てが巡り巡って、社会というものは出来上がっている。【仕事をする】というのはその一端を担うということ。社会貢献のために、生産すべき価値を生み出すということ。初期のシンジやアスカはそれが理解できておらず、自分を認めてもらうためにエヴァに乗る。

 そう考えると、一番変化があったのはアスカなんですよね。テレビシリーズのアスカなんて特にわかりやすいんですが、何にもわかってないキャラだったんですよ彼女。誰かがエヴァに乗って、使徒を倒さなければ、人が大勢死ぬ。そんなときにスーツがカッコ良いとかカッコ悪いとか、プライドがどうとか、そんなことを言っている場合じゃないんです。人が死ぬんです! 大勢の人が! そんなことすらわからない、だからガキ。だからお子様。加持さんがアスカにつれない態度を取り続けるのも納得がいくというもので、見ていて恥ずかしいんですよね笑汗。そういう意味では、Q・シンのアスカは大人です。

 綾波を助けたはずだと訴えるシンジに、「人一人に大袈裟ね、もうそんなことに反応してる暇なんてないのよ、この世界には」とアスカが返すシーンがあるんですが、これが非常に象徴的で、彼女の視点は個人レベルではなく世界レベルになっている。個人の好悪感情を超越して、社会をやっていかせているという自覚がある。世界が成立するための役割を、担っているという覚悟がある。これは【仕事】をしている大人の目線です。考え方が14歳のままのシンジを見て、ガキだと思うのも無理はないでしょう。

 バカじゃなくガキね、というのもそう考えると面白いセリフです。シンジが【仕事観】を持っていないのは、「バカだからわからない」のではないんです。「子どもだからわからない」んです。立っている場所が違うから、考えてもわからない。そもそも何も見えていない。


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『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』とはなんだったのか?

 そう考えてみると、この一連の四作品『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』は、何もわからない子どもだった碇シンジという少年が、個人の意思を獲得し、生きるとは、仕事をするとはどういうことなのかを理解し、大人になっていく物語として読むことができます。

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『序』では周囲に乗れと言われた。乗らないのなら帰れというから。綾波が怪我をしてたから。命令だから。最初彼には個人の意思すらなく、周囲に流されてエヴァに乗る。自分が失敗すればみんな死ぬ。そう言われても彼の中に芽生えたのは、ヤシマ作戦の際のあのセリフだった。『なんでボクなんだ……?』

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『破』では大きな変化があった。周囲に流されエヴァに乗っていた少年は、大事な仲間の喪失を経験して、一度はその役割から逃げた。しかし彼はもう一度ケイジに戻る。今度は自分の意思で、綾波レイを助けると決めた。アスカの時にできなかったことを、やろうとした。だからミサトさんは言ったんですね。『行きなさいシンジくん。誰かのためじゃない。あなた自身の願いのために』でもね、シンジくん。『世界がどうなったっていい』って言ったけど、本当にそうかい?

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 そして『Q』。クエスチョン。シンジはつきつけられた。取り返しのつかない現実。自分の意思で行動を起こした結果、大勢の人が死んだという事実。助けようとした人もどこにもいない。助けてくれた人々は自分に冷たい視線を向け、口を揃えてエヴァに乗るなという。これは『罰』です。自分勝手に行動したことへの罰。「君がいれば世界なんて」というセカイ系物語へのアンチテーゼ。そしてシンジは間違えた。自分で何かを決めることには責任が伴う。しかしシンジは自分の失敗を『なかった』ことにしようとした。責任を果たそうとしなかった。『世界を元に戻す』なんていう甘い幻想。結果それは失敗し、シンジはさらなる喪失を味わう。『どうしよう、ねぇ、どうしよう?』

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『シン』、ついにシンジは理解します。生きるということ。社会に対して、なんらかの役割を持つということ。大人になるということ。立ち直り、ケンスケについていって仕事をしようとし始めたシンジが、魚が一匹も釣れないのは何故か? それはシンジの役割ではないからです。シンジがすべきなのはまず、責任を取ること。もともと持っていた役割を放棄し、新たな役割を持つわけには行きません。責任を取る、とは辞めることではないのです。起きてしまった失敗の、原因を自分の中から取り除き、二度と同じ失敗が起こらないようにした上で、社会復帰をすることです。同じ過ちを繰り返さないように成長して、戻ってくることです。シンジはそれをするために、父親とケリをつけにいく。

(※父親としっかりコミュニケーションが取れていたなら。お互いがお互いの気持ちを理解していたなら。『エヴァ』はまったく違う話になっていた。きっと心優しい少年が、父親や母親の力を借りて成長しながら、人類を滅ぼそうとする謎の組織と、戦う話になっていた。そっちの方が、ロボットものっぽいですよね笑。エヴァは歪な物語なんです。まあ、これは余談ですが)


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『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』のラストシーン

 責任とは、成長による問題解決と社会復帰である。そう考えればシンエヴァのラストがああなるのは至極当然のことですね。エヴァ世界でのあらゆる失敗の原因であった父親との問題を解決。成長したシンジがすべきなのは、社会復帰。だから最後のシンジくんはスーツを着ている。これから仕事に向かうのでしょう。

 そして、庵野監督は前述した通り自己投影型のクリエイターであり、『新世紀エヴァンゲリオン』という作品は、『幸せとは何か?』がテーマの作品です。再び引用しましょう。

『テーマなんてものは、現在、自分が考えていることでせうね。アニメファン(自分自身)の持つコンプレックスを考えて、何が「幸せ」なんだろうか?どうしたら「幸せ」になれるのだろうか? と、まぁこの辺りでせうか。(以下略)』

『シンエヴァ』は「いい加減アニメとか卒業しろ!」という庵野監督のメッセージだ、と解釈した方々もいらっしゃるようですが、私の解釈ではもう少しニュアンスが違くって、つまり【幸せになるために、社会で役割を果たしませんか】ということだと思うんです。「僕はここに居てもいいんだ!」と思えるように。

 感情を無くした歯車のようになれ、と言っているのではありません。それではゼーレが想定した人類補完計画と同じです。人が自我を無くし、社会というひとつの生命体になりさがる。そこには一切の罪も汚れもない。その代わり、何もない。真っ赤な海や大地が広がる無の世界。そうじゃないんです。自分が生きるために。自分らしく生きていいんだと思えるようになるために、恩返しをする。恩を返しながら生きる。それが【幸せ】なのではないかと、この作品は言っているんじゃないでしょうか。


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窓辺から飛び立った少年

 はい、ここからは蛇足です。硬い文章にお付き合いいただき、ありがとうございました。でも、意外と短かったかも知れません。というのも、実は『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』って『何が起きているか?』が複雑なだけで、『何が描かれているか』は実はめちゃくちゃシンプルなんですよ(少なくとも私の感想としては、ですが)。だからもう、話すことはないんです。あるとしてもそれは『エヴァ』を離れた別の話になってしまう。

 なのでここからは、読んで頂いても頂かなくても大丈夫です。むしろ緩いノリの話を読みたい方はここから先だけ読んで頂ければ大丈夫です。私にとってのエヴァは『人は罪を犯しながら生きている。多くの人が役割をこなすことで成り立つ【社会】から、たくさんの恩恵を受けて生きている。だからその恩を返すために、仕事をしよう。誰かの役に立とう。「僕はここにいてもいいんだ」と思えるように』というお話だった。それだけわかっておいてもらえれば、ここから先は大丈夫です。

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 いやーそれにしてもですね、私ツイッターのとある企画で『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』を10点満点中9点と評価したんですよ。というのは、その企画の主催の方が言っていた通りの理由なのですが、『無条件にカッコいいビジュアル』が無かったのです。というかなんでしょうね、私が見たかったのが【無理解な毒親を殴る子ども】だったんですよ。シンジが溜め込んだ抑圧を発散する装置として暴れる初号機が私は好きだったんです。だからマイナス1点、ということなんですけど、『エヴァ』って読解すればするほど、そういう話じゃないんですよね笑汗。暴れる初号機ってどちらかというと、『子どもが誰かに泣かされたから怒っている母親』って感じなんですよ多分。私が想定していた初号機はどこにもなかったんです、最初から。エヴァ・イマジナリー!っつってね笑。

 でもそれがわかってしまったということは、私もシンジ同様大人になってしまったというか、はにかんだ言い方をするなら、歳をとったということなんでしょう。まあ創作者は創作するのが仕事なので、私が見たかった初号機は、そうとわからない形になるまで料理して、何らかの作品という形で世に作り上げられればなと思っています。ああ、書くものがまた増える……汗。

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 あと今回のエヴァ評って、『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』の評価というよりも庵野秀明に対する作家作品論って感じになってしまって、そこは本当申し訳ないと思います。庵野監督のことをもっと研究しないと本当は書いてはいけない内容だったのですが、そこはちょっと甘えさせていただきます汗。ただ、そういう意味では映画を見る前に、『ふしぎの海のナディア』『シンゴジラ』を見ておいたのはよかったなと思います。特に【仕事】っていう言葉に違和感を持てたのが大きかった。

 というのも、庵野監督の作品の中で、【仕事をしている大人】って基本的にカッコいいんです。使命感にめちゃめちゃ燃えてて、静かな迫力があって、頼りになりそう感がすごい。庵野監督にとって、仕事をしている大人って、きっとかっこいいものなんですよ。こういう【仕事観】て私、持ってなかったなーって思って。私が思ってる仕事と庵野監督が考える仕事って、もしかして違うものなんじゃないかなーと思ったのが、今回の感想になった主な理由です。

 オタク趣味に理解のない親の話、よくあるじゃないですか。漫画家を目指す子どもに、「漫画なんてくだらないもん描きやがって」とか言っちゃう親御さん。今回のシンエヴァで、何故その人たちが漫画=くだらないもんと考えているのかは少しわかったような気がします。きっと『直接人の役に立っていないように見えるから』ですよ。腹を減らした人をお腹いっぱいにできるわけじゃない。怪我した人を治せるわけでもない。必要なところへ物を運んだり、便利なものを作るわけでもない。総評として、役に立たない。ただ、その人たちは漫画やアニメを始めとした、『物語』が持つ機能をわかっていない。あるいは、『神話』が持つ機能をわかっていない。

『物語』や『神話』というのは本来、子どもの教育に使われるんです。こういうことをすると酷い目に遭うとか、理不尽に対抗するにはこう考えたらいいとか、あなたの陰でこんなに苦労してる人がいるかもしれないよ、とか。そういうのを示すために使われるのが本来の物語のあり方なんですよ。『スイミー』とか、『泣いた赤鬼』とか。そう考えるとシンエヴァに絵本がちらほら出てくるのは面白い部分ですけれども。だとすれば『エヴァ』は今回完結することで、真に教唆的なテーゼを獲得した。本当に『神話』になった。少年は、神話になったんです。すごくないですか!?笑

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 やー、そんな感じで、私の物書きとしてのスタンスどころか、下手したら普通に人生にまで大打撃を与えた『新世紀エヴァンゲリオン』ですが、やっと完結! おめでとう! ありがとう! 私は本当に大満足です。設定面では急に出てきたガイウスの槍やらネオンジェネシスやらなんで最後にシンジと一緒にいるのがマリなんだとか色々ありますけれども、その辺りは一旦、他の考察班の方や、あの映画を見たみなさんそれぞれの解釈に任せたいと思います。

 まあでもひとつ、色んなエヴァ評の中で特に面白かったものがあるのでご紹介します。岡田斗司夫さんの動画で「渚カヲルはゲンドウの善側面である」という解説をしてるものがあります。渚カヲルはピアノを弾く。碇ゲンドウもピアノを弾く。シンジがピアノを弾けたのはもしや……? という話ですね。面白いのでよかったらyoutubeでご検索を。

 兎にも角にも『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』、本当に面白かった。やがてもう一度見にいくでしょうが、この作品をテレビシリーズから追いかけていて本当に良かった。完結の喜びを同じように喜び合える仲間がたくさんいて良かったです。

 また別の映画の記事も書きますので、そちらもぜひご覧ください! それでは、仕事に行ってまいります。さようなら、全ての読者様! またお会いできる日を楽しみにしております!


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