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「成長できる環境」を選ぶことを辞めた

20代の頃、仕事・職場を選ぶ基準は「成長できるかどうか」だった。

具体的にどう成長したいかまでは考えきれていなかったけれど、適度に負荷がかかる環境で、順調に昇進して、リーダー的ポジションを任せてもらえるような人になるんだ!と思っていた。

決してデキる新人ではなかったと思うが、やる気だけは人一倍あったので、会社の先輩からは可愛がっていただいた。前のめりな姿勢を評価してもらい、いろんな仕事を任せていただけることが嬉しく、忙しくも充実した日々のことは今でも覚えている。

しかしそんな日々は長く続かなかった。

入社2年目の頃、実力以上の仕事をいただいたものの、当時の自分では全く歯が立たず、挫折した。あの時は振り返って一番良くなかったなと思うのは、「自分はダメだ」とできない自分にばかりフォーカスしていたことだ。

自分一人で解決できないことは、誰かに相談したり、できる人にチームに入ってもらったり、一歩ずつでも歩を進めようと行動すべきだったと今はわかる。

しかし当時は、自分の失敗は”自分で”解決せねばと、一人で悶々と考え続けていた。そのうち心が疲れ果て、周りを勝手に敵視するようになり、突然涙が止まらなくなる状態に陥ってしまった。(それでも会社には行っていた)

朝起きてから、嫌な記憶や上司に怒られるイメージ(起こりえない、勝手な想像)が頭の中をぐるぐるし始め、涙が流れ出す。出社してPCを見ている時、営業先に向かう時、ふとした瞬間にとめどなく涙が溢れてくる。

私の人生において、それまで大半を占めていたのは「仕事」で、それ以外に人生で大切にしたい軸はなかった。「自分は価値ある人間だ」と感じさせてくれたのも仕事で、それがうまくいかなくなった時、

「わたしは何もできない人間だ」

気がつけばそんなことを考えるようになっていた。

それからのわたしは「何もできない自分」を払拭したくて、休日返上でスキルアップや知識のインプットに時間を注いだ。

資格の取得や転職活動、ビジネス系のコミュニティーに入るなど、常に自分の足りなさを埋めようとする日々。でも、何かができるようになっても「足りてる」感覚は味わえない。

頑張っても頑張っても無価値観がぬぐえず、コミュニティの集まりを終えて帰宅し、ベッドに腰をおろしたとき、ふと思った。

そもそもの前提(自分の設定)が「足りていない」から、埋めても埋めても設定が変わらない限り「足りてない」が続くだけなのではないか。ゼロに数字をかけているようなものじゃん。

それ以降、足りない自分を埋めるために何かをすることを辞めた

それからのわたしは、「何もしない」自分を許し続けた。

何もせず、ひたすらダラダラと気ままに過ごしてみる。コンビニで買ったご飯とお菓子と飲み物をベッドの上に置き、動画を見ながら一日中過ごす時間のなんて幸せなこと。価値があることとか、有意義な時間とか、そんなことはどうでもいい。ただただ今を楽しんだ。

そうしていると、パンパンだった頭と心が緩み、徐々にスペースができてきた。ずっとベットの上にいると腰が痛くなってきて、夕方になると、どこかに出かけたい気持ちが湧いてくる。

「そうそう、私コレ好きだったわ」
「今のこの感じ、私らしい!」

そんな風にと本来の自分を思い出してきて、心が本来あるべき位置に戻ってきた感覚があった。

「成長すること」は、今だって私にとって重要な選択基準の一つだ。だけど、前と違うのは、前提として「自分はすでに足りている」と思えていること。

すでに足りているからこそ、1歩がプラスになったり掛け算になったり、想像以上の未来へ展開されていくのだと思う。いつも自分に満足できているわけではないが、これからも自分の心を確かめながら進んでいこう。



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