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平沼騏一郎 検事総長からA級戦犯になった男

今回は司法官僚から検事総長、総理大臣となり戦後A級戦犯として裁かれた平沼騏一郎について解説する。


1.概要

1867年、岡山県津山市で生まれる。
東京帝国大学(現:東京大学)法学科を卒業した後
司法省に入省、1912年に検事総長となった。
その後、10年に渡って検事総長の座におりシーメンス事件などを解決に導いた。
(余談だが、犯罪者の指紋登録を考えたのは平沼である。)
第二次山本権兵衛内閣では司法大臣となり虎ノ門事件がきっかけとなり右翼に傾いた。
近衛文麿が総辞職した後、平沼は内閣総理大臣に就任した。
戦後、極東国際軍事裁判でA級戦犯として裁かれた。
終身刑の判決を受け1952年に仮釈放が許されたものの、同年病死した。

2.御前会議

大東亜戦争を終結するには平沼騏一郎は必要不可欠だった。
この時平沼騏一郎は枢密院議長、戦争の進退を左右する会議には参加できない役職であった。しかし平沼は即時終戦を主張、鈴木貫太郎の策略で平沼が参加する御前会議で終戦を決める多数決をとった。御前会議参加者は鈴木貫太郎首相、東郷茂徳外務大臣(とうごう しげのり)、阿南惟幾(あなみ これちか)陸軍大臣、米内光政(よない みつまさ)海軍大臣、梅津美治郎(うめず よしじろう)参謀総長、豊田副武(とよだ そえむ)軍令部総長そして平沼騏一郎枢密院議長であった。
鈴木、東郷、米内は終戦派、阿南、梅津、豊田は徹底抗戦派、
これに平沼が加わり4対3と優勢となった。鈴木は天皇陛下に御聖断を仰ぎ、天皇陛下が終戦を決めることとなった。
ここに平沼はいなければ終戦になっていなかったのかも知れない。

3.A級戦犯になった訳

平沼騏一郎がA級戦犯になった訳、これについて話していく。
(※あくまで私個人の考えです)
平沼は東京裁判で訴因1、27、29、31、32、35、36で起訴された。
訴因1:一貫共同謀議 太平洋支配のための18年間の東アジア
訴因27:対中国戦実行
訴因29:対米戦実行
訴因31:対英戦実行
訴因32:対オランダ戦実行
訴因36:ノモンハン事件実行
である。
しかし平沼は穏健的な外交観の持ち主で
・国際連盟脱退には反対
・中国との開戦にも反対
・英米との開戦にも反対
である。ではなぜA級戦犯となったのか
それは二つある。
一つ目は平沼は首相在任時何も措置を取らなかったことである。
しかしこの頃の日本は軍部の力が強大で、何も手を打つことが出来なかった。
二つ目は右翼・保守的で国家主義者であるところである。
平沼は天皇を崇拝し、社会主義などの外来思想を排す考えの持ち主だった。
国家主義的思想は日本を戦争に導いた悪とされ、結果として平沼はA級戦犯になったのではないだろうか。




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