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松井石根 日本のヒトラーと呼ばれた男の真実

今回は興亜のために生涯を捧げたが東京裁判で南京事件の責任を問われ死刑判決を受け、処刑された松井石根について解説していく。


1.概要

1878年、愛知県愛知郡で生まれる。
1897年に陸軍士官学校を卒業、陸軍大学校に入学した。
しかし日露戦争勃発により、中退し日本軍に従軍した。
戦争終結後、陸軍大学校に復校し1906年、卒業した。
その後、清国で勤務し、日清関係を良好にするために奔走した。孫文の思想に触れ、孫文の辛亥革命も支援した。
1935年に現役を退き、予備役となった。
1937年に支那事変が勃発すると召集され、南京攻略にあたった。
戦後、東京裁判では南京事件の責任を問われ、絞首刑の判決を受けた。
1948年、刑死。

2.南京事件

南京事件。日本軍が中華民国の首都南京を占領し、暴行や強姦を行い何万人もの人が虐殺された事件。この時の南京攻略の総司令官、松井石根は責任を問われ絞首刑判決を受けた。
しかし、南京事件は組織的な虐殺事件ではない。
一部の日本軍がおこした小さな事件である。むしろ中国軍が南京周辺の建物を焼き払ったり、督戦兵(自国の兵の敵前逃亡を防ぐために逃げようとした兵士を撃つ兵士のこと。ソ連や中国などに存在していた。)による中国兵の殺害が起こっていたりしていたほどである。なぜその話が伝わらず、日本の小さな暴行事件が広まってしまったのか。
それはアメリカの戦時中のプラパガンダ映画が影響している。
アメリカは戦時中(大東亜戦争中)に日本軍を悪とするためにプロパガンダ映画を作った。そのタイトルは忘れたが、南京事件を扱った映画である。その話が今も伝わっている。
そもそも松井はこの暴行事件を起こした兵士に対してもちゃんと処分をしている。なぜ違反行動防止怠慢の責任が問われたのかとても疑問である。

3.東京裁判

東京裁判と松井石根については一応こちらの方で解説している。

松井石根は東京裁判で訴因55「違反行動防止怠慢」のみで有罪となり
絞首刑判決を受けた。つまり南京事件の責任のみを問われて絞首刑となったのである。もし南京事件があったとしてなぜ現場の状況もあまり知ってなかった松井なのか。師団長の責任を問うのならまだわかる。軍を指揮しているのは師団長だからだ。なぜ松井に責任を問うのか。判決の後、松井が教誨師の花山信勝に言った言葉を一部抜粋する。

南京事件ではお恥ずかしい限りです。南京入城の後、慰霊祭のときに、支那人の死者もいっしょにと私が申したところ、参謀長以下、何も分からんから、日本軍の士気に関するでしょうといって、師団長はじめ、あんなことをしたのだ。私は日露戦争のとき、大尉として従軍したが、その当時の師団長と、今度の師団長などと比べてみると、問題にならんほど悪いですね。日露戦争のときは、支那人に対してはもちろんだが、ロシア人に対しても、俘虜の取り扱い、その他よくいっていた。今度はそうはいかなかった。政府当局ではそう考えたわけではなかったろうが、武士道とか人道とかいう点では、当時とはまったく変わっておった。慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。そのときは朝香宮もおられ、柳川中将も方面軍司令官だったが、せっかく皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落としてしまった。ところが、そのことのあとで、みなが笑った。はなはだしいのは、ある師団長のごときは、当たり前ですよ、とさえいった。したがって、私だけでも、こういう結果になるということは、当時の軍人たちに一人でも多く、深い反省をあたえるという意味で大変に嬉しい。せっかくこうなったのだから、このまま往生したい、と思っている。

どうだろうか。松井石根は部下の責任だ!自分は関係ないということもなく
自分の死が当時の軍人たちに反省を与えることができるなら大変嬉しいとも言って逝ったのである。
今回は日本のヒトラーと呼ばれた男 松井石根の真実について解説した。
別の意見があるって人は是非コメントで教えてほしい。



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