中学3年間のいじめは本当に人生の3.33%なのか?
(同情するなら金をくれ形式もとい投銭形式です)
元おバカタレントの発言がインターネットで物議を醸している。
彼女曰く、「人生90年と考えれば中学3年間のいじめなんて一瞬だから気にするな」ということらしい。
twitterでは彼女のあまりに短絡的な発言に怒りを顕にする人たちが散見されているが、いじめに関してはこの国で最も過激な立場を取っている自信のある僕も、当然のことながらそのような人たちと同じようにこの発言に憤りを覚えている。
この発言でおそらく最も突っ込まれるのが相対的な時間間隔の話だろう。中学生にとっての3年が人生に占めるウェイトはオバサンのそれとは段違いに重い。人生への展望や世界の広がりも健全な大人のそれとは全く異なり、人生すべてが詰んだように思えるものだ。
それに一説では、人間は19歳をピークに体感時間が加速し、その後寿命までの体感時間がそれ以前までの体感時間に匹敵するとも言われている。
彼女の意見は異質なものを問題の外、安全で幸福な領域から俯瞰して神の視点で物を言っていて問題外にも程がある。自分から割合の話をしているのに割合の考え方がなってないし、少し考えればいじめが原因でその後の77年を奪われる子だっているのだということもわかるはずだ。彼女の軽薄さ思慮の浅さ問題認識の甘さ言ってしまうと彼女の絶望的なアホさには、開いた口が塞がらない。
そして当事者であれば思うことに、その3年がその後の人生にどれだけの悪影響を与えるのかを考えていないということがある。
いじめはその性質にもよるものの、人生を蝕む不治の病になり得るという認識が足りていない。何らかの能力があれば、何らかの社会に誇れる成功があれば、劣等感がフッ切れる何かの出来事があれば、話が別かもしれない。ものすごくポジティブでメンタルが強い異常者であれば別かもしれない。遺伝的に精神が健康な顔のいい女なら別かもしれない。
だが、そうでない人間には人生すべてを暗闇の底に沈める可能性が大いにあるものだ。僕はこの問題に、つまりは顔と異性関係とDQNやチャラ男との戦いにもう500万円以上はゆうに超える金額をかけている。精神科、投薬、コミュニケーションの本・動画・ワークショップ、ワークショップで紹介された習い事、性風俗、美容外科など。今ではいじめに遭った年齢の倍以上生きたけれど、その克服はというとようやく道半分だという感覚でいる。余生はそう長くはないだろうが、もしかすると1000万円使ってしまうかもしれない。
自分は恥ずかしい人間だという感覚が染み付いて離れないし、人間社会の幸福は自分には原則としてもたらされないものだと思っている。また、他人の悪意に敏感ですぐに喧嘩を起こす。やられっぱなしになったら人間としての尊厳が蹂躙されることを、この国の誰よりも、少なくとも同列一位でわかっているからである。
いじめがいかにその後の人生を暗く冷たく息が詰まり重苦しいものにするかは、おそらく救われない当事者にしかわからないであろう。球技の授業をなくせとか、アイドルは恋愛するなとか、文句があるなら美人をよこせとか、意味がわからないだろうが、我々にとってそれらは筋が通ったものなのだ。いじめは正常な人間とは全く別の視点と思考体系と別次元の人間を産むのである。その深淵へ子供を問答無用に突き落とすものなのである。
映画には詳しくはないのだが、小さい頃見たバットマンに、工場で何らかの液体に落ちて死んだ男が怪人になって蘇る話があったように思う。ここで言っているのはそういうことで、子供をあの液体に落とすようなものだ。それが繰り返し行われる3年間は、本当にただの3年ぽっちと言えるのだろうか?
僕の話をさせてもらおう。
この前最寄りの駅で、パチ屋のバイトだか社員だかが笑顔でティッシュを配っていた。ティッシュ配りでありながら挨拶もちゃんとしていた。新品らしいシワひとつないスーツだった。そうしてみるとバイトというより社員の可能性が高いだろう。ともかくパチ屋のティッシュ配りにしてはきちんとした身なりだった。そう見えた。
でも爽やかな笑顔でティッシュを配るそいつは、忘れもしない俺を中学3年間目の敵にしていたあいつだった。俺が最も殺したい2人のうちの片割れだった。自分が犯罪を犯すなら必ずこいつらのどちらかを抹殺するんだと、自尊心の墓前で誓ったあいつだった。リーマン・ショック後の劣悪環境下で彼女がいないために就職留年をすることになったあの日、来年就職できなかったら探し出してどちらか先に見つけたほうを俺の名を叫びながらメッタ刺しにして殺してやろうと心に決めたあいつだった。
それを見て俺は、何をどうしていいかわからなくなったんだ。
僕の家は駅からそんなに遠くない。帰って包丁をカバンに潜ませ、早歩きで戻ればまだ配っているだろう。なんなら駅前のパチ屋を探せば必ずまだ見つかるだろう。それは僕の人生にケリをつける千載一遇のチャンスだった。でも、どうしたらいいかわからなかった。
パチ屋のバイトだか社員だか、とにかく30近くにもなってティッシュ配りしているやつを、殺すのか?
そんな奴を殺して楽しいのか?
なら、人生がずっと順風満帆できた、スポーツができて女にモテるからって威張って高慢にふんぞり返っている、高学歴や高収入の人間を殺してやるほうが、ずっと僕の普段の主張に合っているではないか。人生一度か二度しかない殺人のチャンスを、パチ屋のティッシュ配りに使っていいのか?
僕は迷った。迷いに迷って線路の下で頭を抱えて数分うずくまっていた。鼓動が早くなって、暑さ由来のものとは異なる変な汗が出て、歯がガタガタ鳴った。足もしびれてきた。帰ってから決めようと思った。結局何もしなかった。そのまま21時過ぎまで遅い昼寝をした。不貞寝だったと思う。
顔のことを言われた。顔中ニキビだらけだった。洗っても洗っても、ニキビ用グッズをいくつか試しても収まらなかった。エラに筋肉がつきやすくて顔が四角かった。直毛で刈り上げるしかなかった。当然運動ができず、更にメガネだった。
僕は自分の顔が大嫌いだ。高い金を払ってボツリヌス菌を注入しているのもある種の立派な復讐である。エラの筋肉、ざまあみろ。
いじめられる前から運動ができずにモテなかったから、でも成績は良かったから、『忍たま乱太郎』で流れる0点チャンピオンという曲が大嫌いだった。知らない人は歌詞を検索してもらうとわかると思うが、僕のような人間の存在を頭ごなしに全否定する歌だ。性や暴力の表現を規制するよりあの曲を葬り去ったほうが青少年の健全な育成に与するに違いない。
ともかく齢13にして既に異性関係に対して強いコンプレックスを抱いている状態で、顔のことを言われた。顔が気に入らないと暴力を振るわれた。あいつらは意地悪く嬉しそうに笑っていたし、僕が笑っているのを見るとキメェから笑うなと言ってきた。だから僕は半年に一度、12万円で毒を打ち続ける。自分の大嫌いなパーツを、弱らせて破壊するために、嬉々として。
世の中の浮ついた連中やそいつらの好むものが軒並み嫌いだ。モテる奴は嫌いだし、高慢さを隠しもしない、自分は何をしても否定されないと思い上がっている、自意識の強い同性が大嫌いだ。自分の優越性をすぐ周囲に押し付ける奴が嫌いだ。そういう連中は大抵失礼だし、僕のような手頃な相手に無礼を働くことで集団での地位をあげようとしたりするから嫌いだ。
勉強をして慶應志木に行ってみたけど、医学部の次に推薦が取りにくかった法律学科に行ってみたけど、俺の人生は何も変わらなくて、あいつらに落とされた悪意から這い上がれなくて、ただただ辛く不愉快だったから、そういう奴にはもう容赦はしない。
そういうわけで傲慢で不遜に無礼を働いてくる相手とはすぐ喧嘩するようになったけど、そうやって大学基準でチャラ男を憎んできたせいで、パチ屋のティッシュ配りになっていた中学一の問題児は頃し損なった。もう本格的に、復讐しか幸福になる道はないと思っていたのに。
勿論復讐リストにはそいつや恐らく同程度の生活を送っているだろうもう一人よりも下の順位で大勢の名前が書かれている。その中で直近のものや、人生がサクセスしているものを重点的にターゲットに復讐していく道もある。そっちのほうが楽しいしアド得だろう。でもやっぱり犯罪を犯すなら相手は中学時代のいじめ主犯格ツートップのうちのどちらかがいいんだ。ただパチ屋のティッシュ配りじゃつまらない。俺はどうしたらいいんだろう。どうやれば人生にケリがつくのか。
現在過去未来、人間の営みから生まれるありとあらゆる苦痛や不幸のたぐいを集めに集めてぐぐっと凝縮したものを一気に注がれて、一瞬のうちに崩れ去ってほしい。その悲しみ苦しみがあまりに純度の高いものだから、この世の肉体が耐えきれなくなって、色を失い黒い塊になって粉々に崩れてしまうのだ。それは一瞬のうちに起こるけれど、当の本人たちは苦痛をすべて一つ一つ丁寧に受け止めるわけだから、そこには永遠があって、時間の流れからも置いていかれて永遠にそのままになる。
そういう死に方をしてもらえれば――いや、この仮定では死が完結しないために死んだなんていう完了の形は正しくはないのだけれど――まだ僕は光に向かって前を向き何を気にすることもなく笑うことができるだろう。ここではないどこか遠くで、今もこの先も至上の苦痛を受け続ける中学のあいつらが居るというその事実が、僕を心から笑わせてくれるに違いない。満面の笑みで光に照らされることができるはずだ。悲しいことに、現実はそうではないのだが。
人生がサクセスした人は別にいいかもしれない。そういう人はfacebookを本名でやることができるだろうし、なんなら大腕を降って同窓会にも行けるだろう。僕はどちらもできやしない。そういう人間は結構いるはずだし、あの女性タレントの発言はそういう人間の人生への侮辱だろう。
しょこたんも不登校だったらしいけど、結局顔がいい人間は逆転の機会に恵まれるのだ。そりゃあもう機会でいえば遥かに他の人間と違うのだ。なにかやれば下駄を持った人間が現れるのだ。彼女らの努力は否定しないし確かなものでもあるだろうが、一方でその他の人間との間に難易度の差異があることもまた事実だ。
もしかするとあの女性タレントもいじめられたことがあったのかもしれないけれど、その後のサクセスのしやすさという点では断然イージーモードであったはずだ。あの人がテレビで売れだした頃の僕はまだいじめを経験する前だったけれど、とても可愛かったから。本当に可愛くて愛らしくて、小学生の頃の僕はあの人大好きだったから。悪い大人にさえ気をつければ、下駄を履き放題だったはずだ。
その下駄を履ける10年位の間に老けた後でもやっていけるシステムを構築して、今や子供と財テクに勤しんでいるわけだから、仮にいじめがあったとしてもフッ切れているだろう。そういう人間に語らないでほしい。
というか、僕としては、90分の3という言い方がもうそもそも受け付けない。何だ、90分の3って。約分をしろ。
僕だったらそんなことは言わない。言っても「アッ」と真顔になって約分して言い直すだろう。真面目に勉強を頑張ってきた身としては90分の3だなんて言い方は気持ちが悪いからだ。
これは数学を専門にやっている人からするともしかしたら違うのかもしれないし、数学を本格的にやる場合は約分をしないほうが解きやすい通だけが使っているルールみたいなものが、もしかしたらあるのかもしれないけれど、学校の授業では約分をしないと減点される。
何度も何度もそういうケアレスミスを重ねて悔しい思いをしてきた身として、90分の3だなんて言い方は許容できない。公共の電波に乗せるには受任の限度を超えている。そのような浅はかな態度でしか学校の勉強に向き合ってこなかったような人間が、いじめ問題について軽口を叩かないでいただきたい。
僕の中にはブラックミストのフィルターのような仄暗い和室があって、大きなタンスのような黒い箱が置かれている。その表面には無数の御札が貼られ、しめ縄で雁字搦めにされているのだが、時々音を立てたりガタゴトと動いたりする。いじめ関連の大きなトピックがあると、箱の扉が少し開いてその隙間からとめどなく正気が溢れ出てくる。そういう風景のイメージがある。
僕はポジティブな人間が嫌いで、特に新自由主義めいた自己責任論にかぶれたポジティブな自責主義を世の中に適用したがる人間を見ると反射的に否定したくなる。
勝手に信仰したり採用したりする分には文句はないけど、そういうものがその人から外に出て拡散するのは何としてでも抑えてやらないとという気になり、ネガティブなものを振りまく。今回のようなことがあっても、こういうものを出力する。
僕は世の中の悪意を知っていて、世の中には許されざる悪がいて、その悪によって理不尽に踏みつけられる場合があることを身にしみてわかっているから、それらを自己責任に帰結しようとする思想価値観全般が許せないのだ。
僕の、同胞たちの、僕たちの流した悔し涙を、亡きものにしないでもらいたい。僕たちの忍耐を、勝手な自己肯定感情のために貶めないでもらいたい。僕たちの苦痛を、苦悩を、怨念を、存在しないことにしないでもらいたい。
それで何をやりたいのかと言えば、皆さんの記憶にあるあの教室と、秋葉原の交差点は繋がっているんだよということを、目を逸しても逸しきれないところまで、皆さんの目の前に突きつけてやりたいという思いがあるからなんだ。いじめの後遺症というのは、一つのパターンとして、そういうものだということ。
僕の顔や異性関係を嘲って喜んでいたあいつらが泣いて悔しがるようなオフパコ案件があればご連絡くださいね!
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コミュニケーションと普通の人間について知りたい。それはそうと温帯低気圧は海上に逸れました。よかったですね。