見出し画像

『最果タヒ展に行ってきた』

僕は最果タヒをあまり知らない。
「あまり」と言うのは、ほんの少し知っていると言うことで、具体的に言うと最近読み始めてまだ1冊目の途中という意味です。

そんな僕が、今梅田ヘップホールでやっている最果タヒ展に行ってきました。

詩は昔、分厚い中原中也の詩集を買ったはいいものの(ほぼ)全く読み進めることができなかった為に少し嫌厭気味だったのですが、劇塾で寺山修司に出会ってしまい、且つ短歌や詩を楽しむ人が周りにできまして興味が再燃していたんですね。

そこにこれまた劇塾の影響で「もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら」という本を読み、その中で最果タヒの文体でカップ焼きそばの作り方を書いたところがあって、妙に頭に残っていたことから「現代詩ならいけるのでは?」と思って買ってみました。

しかし正直難しい!!
何を言ってるのか一回読むだけじゃ分からなすぎる。
おかげで一つの詩を読むのに10分以上かかって中々読み進められない。

しかし、想像力を目一杯使って、何度も読みかえし咀嚼してみると、ふと、その言葉で描かれていることに気付く。言い換えると、その言葉の中に、自分のことを見つけ出す瞬間がある。

人と人とは決して分かり合えず、あくまで私は私で君は君。お互いがお互いの世界を持っていて、どれだけ分かり合えてもその世界同士は決して完全には重なり切らない。100%分かり合えることなんてできないし、見えている世界は同じなんてあり得ない。
しかしそれでよくて、分かり合えないからこそ僕らはお互いと関わり合いながら生きていける。そしてそこに美しさを見出している。
僕は最果タヒという人物を、詩集を0.5冊くらい読んでそのように解釈していました。
詩でそういうことを言っているのだと思っていました。
もっと言うとこれはあくまで僕の解釈で、最果タヒのことを「こういう人だ」と分かりきった態度で結論付けたい訳ではなくて、そしてそれでいいと思っていました。

そこに来てヘップで最果タヒ展があると聞いて、読み切れてないけど、まあ行くだけ行くかと。なんかの縁やし、と。

感想としては、より最果タヒの魅力に引き込まれてしまいました。
天井から無数にぶら下げられた最果タヒの詩の断片。
それが風や人にぶつかってくるくる回り、他に下げられていた断片と文章を織りなし、新しい詩の発見となる。
ただ展示された言葉を眺めるのではなく、自分が言葉に会いにいく・発見しにいくという能動的な体験の場所としてその空間があったのがとても良かった。
たくさんの言葉に出会えて、色んな風景を想いました。

『詩になる直前の、HEP  FIVEは。』

また、その展示の後書きとして、最果タヒの言葉(詩じゃなく、と言う意味です)が掲載されていて、最果タヒが言葉に対して何を思い、その上でなぜ詩を紡ぐのかが書かれていて非常に魅了された。
やはりその言葉にも僕は自分を見出し、勝手に共感する。
とても良かった。

美術館と違ってエリアが少ないので、割とサクッとみれるのもいいと思う。
僕は2時間くらいいたけど。
先ほど紹介した他にも言葉を自由に捉えた展示に出会うことができるので、最果タヒの本を読んでる人も読んでない人も、気になっているならぜひ体験しに行ってみてください。

『ループする詩』

いつまでも われわれは この距離を 守るべく生まれた、
夜のために在る 6等星なのです。
(最果タヒ展のサブタイトル)

言葉に対して「分からない」ことを恐れないでください。
100%分かり得ることはあり得なくて、そしてその分からなさがいいのですから。

願わくば、言葉に対してそう思える人がこの展示に行って増えますように。
そう祈って終わります。

詩が書かれた券『透明の詩』


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?