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sushi 17

免許をとって以来車の運転が好きで、特に真夜中の人がいない下道を時速30kmくらいでトボトボ走っていると心がとても落ち着く。古い車だからナビもついてなくて、2014年でもガラケーを使ってた免許取り立て当時の私は、地図アプリなんてのも勿論持ってない。だからいつも遠出するときは、国道の看板だけを頼りに県外へ向かったりしていた。
知らない道を走ってると、設計者の意図が汲み取れない見た目の建物や、複雑すぎる五叉路とか、このコインランドリーのデザインがいいとか、おもしろいことばっかりある。それでたまに車の窓を開けると町それぞれの夜の匂いがあって、空気が静まり返ってたり、高速道路が近くて車の駆け抜ける音が遠くに響いてたり、犬が吠えてたりして、知らない景色なのに懐かしい気持ちになる。
わたしは長らく和歌山に居るけど、毎日のように通る道でもひとつ角を曲がればまだまだ知らない看板や建物があると思うと、自分が住んでる町ですらすべての道を網羅できないであろうことが予想されてちょっと寂しくて切ない。


以前ライブで対バンした方が音源を買ってくれた際に、丁寧にその後感想も送ってきてくれた。その中に「ポップだけどどこか諦めてる感じがいいですね」的なことを書いてくれていて嬉しかった。
「諦める」という言葉の意味を理解したのは忌野清志郎をはじめて聞いた時で、アルバムは「楽しい夕に」だったと思う。曲もキャッチーでメロディも耳馴染みがいい、リスナーに寄り添ってくる音楽なのに、歌詞や世界観は誰にも期待していない、軸があるけど1人きりで立っている感じ。
「これって何なんだろう?」と幼いながらに考えて、あてはまる言葉を国語辞典で探したら「諦念」という言葉に行き着いた。辞書にはこうある。

てい‐ねん【諦念】 
道理をさとる心。真理を諦観する心。または、あきらめの気持ち。

この言葉に出会った時「後ろ向きなようでいて、なのに真っ直ぐに迷わない素敵な言葉!」と勝手に自己解釈して感動したのを覚えてる。そこから、諦めるという漢字を見かけると、今でも清志郎が頭を過ぎる。

知らない町の夜の風景や、知ってる町の一生通ることのない道。そういうものに感じる寂しさや切なさって、一般的にネガティブな感情で言うところの「寂しい」とか「切ない」とかとはちょっと違う。諦念と同じで、私の解釈では素敵な感情であって、できれば自分の1番大切なところに閉まっておきたい気がする。
むしろ、そういった「寂しい」や「切ない」は他に表しようがないので一旦言葉を社会から借りてるもので、それを自分なりに回りくどく解説してるのが、私が作ってる歌なんだと思った。

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