日記#80【教育で人の性格は左右されるのだろうか】

 昨日書いた通り、曾祖母が亡くなり今日はお通夜だった。親戚が集まり思い出話に花を咲かせていた。祖父の葬式が一年を満たない間にあったため全員久しぶりにあった気がしない。曽祖父が亡くなったら縁を切ろうと祖父の葬式で話す程仲の悪い家族が所々いる。同じように育ったはずなのにこうも違うのだろうかと思うほどに違う。

 一人目は祖父の姉だ。祖父の通夜に喪服でなくジーパンでいいだろうと言い出し怒られ、喪主と一緒に来てくださった人にあいさつをするはずだった私の叔父を連れまわしたり、曾祖母の家は連れまわされた叔父も住んでおり自炊しているにもかかわらず、掃除という名目でもののある位置を変え、あいている醤油を棚の奥にしまうほどの自己満足型の人がいるのだ。祖父の兄弟は祖父と4姉妹で構成されていて、祖父が亡くなる前もうわさには聞いていたが祖父の葬式の時により明るみに出て、親戚の目の前で3対1で喧嘩をしていた。多分祖父も姉とは仲良くなかったので4対1だろう。

 この姉よりもやばいのは母の兄弟である。母には2人の弟がおりこの長男がやばいのだ。実の父にあたる私の祖父の葬式の時も通夜より仕事を優先し、夜中の2時ぐらいにやってきた。次男は一緒に葬儀屋を決めたりしてくれたのに。また来ても喪主一家として手伝うのではなく、来てもらった親戚であるような対応をしており母の顔は悲しみを忘れていた。また、祖父の遺産でもめることになり、祖父や次男から借金をしていたのにそれに書類は泣く、10年以上たっているから法的にも時効だと思いふんだくろうとしている。正直とても悲しみに浸りたいのにより心が疲れさせられる。
次男は私たちにお年玉で一人1万くれたり、行きたいところを伝えると連れてってくれて全部おごったりしてくれたり、買い出しを任されると確実に余る程大金をもたせてくれたりと、私の尊敬する子供の理想であるかっこいい大人の背中を見してくれるのに、どうして同じ兄弟なのにこうも違うのだろうか。

 性善説と性悪説という話があるが、私はどっちもあると思っている。それは割合で言えば9対1で性善説が多いように感じる。これはきっと血筋は関係なくランダムに決まるのだと思う。善の心が強いと行動のブレーキが早くなる。悪いことをしたときなぜか不快感を覚えるのは性善説の人なのだろう。性悪説の人は何も感じないため、さらに踏み込んでしまうのだろう。それに気づき悪いことをしたとき不快感を覚えさせることはできるのだろうか。私はこの教育は限りなく無理だと思う。そうなると性悪説の人間のストッパーは別の理由で悪をしなくさせるしかない。しかし、これにもいつか限界が来ると思う。どうしたら悪を悪だと認識してくれるのだろうと考えても無駄であり切り捨てるのが一番であると思う。しかし、縁を切りみすてることに罪悪感を抱いてしまい悩むのも性善説である人間のあかしなのかもしれない。

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