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社会的包摂性と知識の壁

 昨日私の住むK町のCI(コーポレートアイデンティティ)策定検討委員会というのがあって、私は個人的興味からこれを毎回傍聴しているのだが、それに出かける前に夫とちょっとした口論になった。

 その日の朝、私は木下斉氏のVoicyを聴いて世界的なトレンドになりつつあるパリ市の「15-Minute City(15分都市)」というまちづくりの施策を知ったのだけれど、高齢化が進む中こういった施策はなにも大都市に限らず過疎の町でも有効であると私は考えていて(生活圏内の移動を自家用車に依存しなくなることで高齢ドライバー等の事故が減る/住民同士が町で自然に出くわす機会が増え、日常的なコミュニケーションが生まれる/そもそも歩くことは心身の健康維持に役立つなど)、今現在ちょうど駅前開発が進行中である私たちのK町でもそういう徒歩ベースのまちづくりを進めていけばいいのにね、そう考えると今後K町で最も力を入れていくべき政策は私は「自家用車に代わる生活交通の充実」だと思うんだよね、と夫に話したのだけれど、なぜか夫は否定的だった。私はその温度差に憮然とするとともに、「なぜそんなにいちいち否定的なリアクションをとるの?」と夫に対してムキになってしまったのだった。

※木下斉氏のVoicy


 夫曰く「意識が高過ぎて何を言っているのかわからない」とのことだった。自分ではそんなつもりはなかった。というか私は勝手に夫も自分と同じくらいこの町の未来について考えて生きているに違いない、特に自家用車以外の交通手段の例としては過去に一緒に海外旅行へ行った際にトゥクトゥクやトライシクルやジプニーなどの二次交通を利用したり、GrabやPassAppといったライドシェアサービスを使ってみたりしてその便利さや合理性を体感しているのだから私の言いたいことは感覚的にわかってもらえるはずだ、という思い込みがあったようだ。

 私たちは人と話し合う上で、ある物事についてお互いの合意を得るためには非常に多くの前提知識や共通認識を必要とする。けれど私と夫との間には、いつの間にかそういう部分においてギャップが生じてしまっていたようなのだ。実はそういうことが最近他でも起こっていた。Xでよく私のポストにいいねをくれる人が、実は私のポストには読めない漢字があり、何を言っているのかよくわかっていないことがあるというのだ。
 最近受講しているライティング講座でもそうだった。私が課題として提出した文章は、初めて見る人にとっては「?」の連続だったようだ。ひとつひとつの物事に対する説明が不足し過ぎた結果、誰にも何も伝わらない文章と化してしまっていたのである。

 そんなことがあったから、その日傍聴しに行ったK町のCI策定検討委員会でも同じようなことが気になった。今年度、この委員会における大筋のプランニングと進行係に任命されたのは、町内で空家再生事業などを行う民間企業代表のK田氏だ。彼は県のベンチャーアワードで最優秀賞を獲得するほどの先進的取り組みを町内で行なっており、まちづくりに関心のある町民や役場の人々からの信頼も厚い。そんな有望な人材が町内に存在するということが、この町に残された最後の希望の光と言っても過言ではないのだが、彼の優秀さは頭ひとつ飛び抜けているため、周りの町民に比べて考え方もやや未来志向すぎる傾向がある。
 例えば彼の作ってきた委員会資料に、まちの理念を分解した要素として「社会的包摂性」や「well-being」、「シビックプライド」といった言葉が登場した。これらの言葉は私のような、まちづくりに関心があると同時に普段からビジネス系の動画や音声コンテンツを好んで視聴している人間にとっては意味が容易くイメージできるが、他の人はどうだろうか。農業や商業といった多分野から選出された検討委員の中には、これらの用語を聞き慣れない人も少なくないだろうし、仮に意味がわからなかったとしても正直に「わからないので、教えてください」とはあの場ではなかなか言い出しにくい。
 人は自分の無知を曝け出すには勇気がいる。そういう場合があることも十分考慮したうえで物事を進めるには、やはり前提となる知識の共有をまずは丁寧に行う必要がある。そこの準備が整っていない初期の段階で、いきなり本丸となるプランの提案と決定を同時に行おうとするのは些か性急であると私は感じた。本来であれば事前に資料が共有され、その内容に対して委員ひとりひとりが疑問点をまとめたりわからないことは各自調べたりして、十分自分事として消化できてから委員会当日を迎えた方がより実のある議論ができると思うのだ。

 「社会的包摂性」とは、異なる価値観を積極的に受け入れようとする能動的な態度というよりは、どちらかというと「何者も排除せず、包み込む」といった受容の態度を意味すると私は思っている。だからこそ、言葉や知識の壁によって人と人とが隔たれることのないよう、ひとつひとつの確認を丁寧に行いながら物事を進めていくことが望ましいと自戒を込めて思う。
 日常生活において孤軍奮闘のようなことをしていると、知らず知らずのうちに自らをフィルターバブルの中に閉じ込めてしまい、客観的に俯瞰した時の自分の立ち位置であるとか他の人と比べた知識レベルの差がわからなくなってしまうことがある。そういったことを防ぐには、日頃から周りの様々な立場の人とコミュニケーションを重ねる必要があるのだが、それは別に日頃から本質的な議論をすべきという意味ではなく、あくまで日常的な会話レベルでいい。人と人はお互いに会話することでしか、相手の興味関心の方向や知識の習熟度を図ることはできない。つまり日頃の雑談の中から、この人はこういう考え方や価値観なんだな、だけどあの人はまた別なことを言っていたな、といった観察を経ることで、初めて自分との興味関心の違いや知識の差が浮き彫りになるのだ。そしてその差を埋めたり平準化したりするのにもまた、対話を重ねる必要がある。だからこそ私は、人々がもっと町中で顔を合わせて会話する機会が増えてほしいと思う。元々異なる価値観を持つ人同士がお互いの認識をすり合わせ、心をひとつにするには、そういった日常的なコミュニケーションが欠かせないと思うのだ。
 その意味でもやはり最初に取り上げた15-minute cityというパリ市の施策は理に適っている。徒歩ベースのまちづくりは人と人とのコミュニケーションを生み、新しい時代に必要とされる社会的包摂性を相互に育むための一助となる。だからこそ、遠い外国の話ではなく、この過疎の町でも取り入れられればいいのにと私は思う。そしてこの「社会的包摂性」というキーワードが今年度のCI策定検討委員会で取り上げられていることを、個人的には嬉しく思う。

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