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真面目な人ほど損をするこのクソみたいな世の中で。

真面目な人間は損をする。
僕は人生で身をもってそれを痛感してきた。

真面目故に仕事を押し付けられ、それでも責任感だけで頑張っていたら、最後の最後に成果だけをずる賢い奴に掠め取られた。
真面目故に騙され利用されて、何度も恋愛の踏み台にされてきた。
真面目故に悪口でしかない低俗なイジリを額面通りに受け取っていちいち傷つき、人知れずストレスを溜めてきた。

今思い出しても非常に腹立たしいものばかりだ。
どうして真面目な人間が損をしなくてはならないのか。
悔しくて悔しくて徹底的に考え抜いた僕は、ある時僕なりの結論を導き出した。

"人間はそもそも2種類に分けられている。"
真面目な人間と、不真面目な人間の2種類に。


それを分ける大きな違いは罪悪感の有無だ。

不真面目な人間には、罪悪感がない。
もしくは無視できるくらい希薄だ。
だから、いくら他人を貶めて傷つけても、そもそも自分が悪いなんて1ミリも思っていないのだ。
はなから自分の辞書に"罪悪感"なんて言葉がないのだから、相手に対しても罪悪感なんて感情を慮ることなどできないのだ。

言い方が強すぎると感じるかもしれないが、僕は人生で何度も生粋の不真面目人間に驚かされてきた。
彼らは仕事押し付けても浮気して交際相手を傷つけても誰かをいじめても、悪びれもせず平然としている。
そういう人間を見るたびに
「あ、コイツ自分が悪いとか本当に微塵も思ってないんだ…」
と、呆れを通り越して感心てしまう。

逆に真面目な人間は常に罪悪感と隣り合わせで生きている。
それが顕著にコミュニケーション方法に表れるのだ。
例えば、僕は皆に乗っかって少し他人をいじっただけでも「気分を害していないだろうか」「言いすぎたのではなかろうか」という気持ちになってしまう。
その罪悪感の心地悪さを知った真面目な人間は、得てして人を貶める言動をやめる。
それ自体は恥ずべき行為ではなくむしろ褒められるべき行動であるはずなのに、腐れ不真面目野郎達にとってそう言う人間は「やってもやり返してこない格好の餌食」になる。
手頃なマウンティングの対象にされ、インスタントに上下関係を演出される。
あぁ、心底腹が立つ。
腹が立つけど、やり返すと罪悪感が生じることを本能的に分かっているのでやり返せない。

結果、真面目人間だけが傷ついて損をする。

こういう風に世の中はできてる。




僕は不真面目な人間がずっと羨ましかった。
自分の利益だけを最優先するのが。
その方がきっと生き方として正しくて健全でストレスが溜まらない。楽しいに決まってる。

だから、なろうとした。
不真面目に。
大学入学の、環境が変わるのと同時なら今までの振る舞いをリセットできると考えた。
イジる側に回って損をしない立ち位置を見つけようとした。

でもなれなかった。
仕事を押し付けて見て見ぬ振りなんかできない。
誰かを恋愛の踏み台になんてできない。
人を貶めるイジリ方なんて反吐が出る。

僕はまた、真面目人間に舞い戻った。
するとやっぱり、どこか安心した。
僕の居場所はこっち側なんだと。

この経験から、真面目人間が不真面目になろうとするなんてことは、とても苦しい事だと分かった。
そもそも、価値観の違いで不真面目人間にも馴染めないし、真面目人間からも後ろ指を差されている気がして後戻りできないから。
自分の普段の振る舞いとの不一致で尋常じゃなくストレスが溜まる。
もう2度と不真面目になりたいなんて思わないと誓った。

冒頭の理論に戻ろう。
真面目不真面目を分ける"罪悪感"という感情は、絶対に切り離せない。
先天的なのか後天的なのかは知らないが、おそらく小さい頃の環境などにより、もう物心がついた時には罪悪感の比重の多寡が深層心理に組み込まれてるのだと思う。
今から不真面目になろうったってなれるわけないのは当たり前なんだ。

そして必死に考えた。
"僕がなりたいのは不真面目な人間か?"と。

断じて違う。
僕がなりたいのは真面目で損をしない人間だ。

本当にごく稀だが、そういう人種は一定数存在している。

そういう人達に共通してるのは、根本的に自分を肯定できていて圧倒的に自信があるということだ。
その余裕から出る気遣いというのは、周りに怯えて媚び諂う気遣いとは本質的に別物だ。
不真面目人間だってそういう人間には一目置く。

つまり僕は根本的に自分を肯定できていないということになる。
そこにつけ込まれているのだ。
自分を否定して、不真面目人間という攻撃的な相手に恐怖を抱いて勝手にコンプレックスを抱いてるだけなのだ。

そうは頭で理解していても、反射でキツイ言葉には傷つくし利用されるのはいい気はしない。

この問題にはおそらく一生向き合っていくだろうけど、最近ではちょっとずつ向き合い方も変化していると感じてる。

昔の僕は、どんな時の自分も肯定できなかった。
人付き合いしてる自分も、1人でいる時の自分も。

でも最近は、1人でいる時の自分だけは肯定できるようになった。
1人でいる時に趣味に没頭している自分のことだけは胸を張って好きだと言えるようになった。

これが憧れの"真面目で損をしない人間"への第一歩なのかは分からないが、不真面目人間に付けられた傷が癒えるまでの期間が短くなった。

お笑い見て、本読んで、映画見て、歌を歌って、好きなものに触れたら少しくらいの傷ならすぐ消せるようになった。

こうして自分の中で耐性をつけていくことで、ちょっとやそっとじゃびくともしない自分というのが見つかっていくのだろうか。
そこから湧き出てくる自信が防護壁となって、いつか人付き合いをしてる自分も好きになれるのだろうか。

いつか、真面目で損をしない人間になれるのだろうか。


それは、わからない。
けど、僕は今日も真面目に罪悪感と共に生きる。
それだけは一生変わらないでいたいと思う。

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