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イブキちゃんの聖書入門 #15「一神教の神は皆同じ?」

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「わたし(イエス・キリスト)と父とは一つです。」
(ヨハネの福音書 10章30節)

一般的に、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教は「一神教の宗教」とされており、「同じ神」を信じている(礼拝している)と言われています。

確かにその3つは「アブラハムの宗教」(自身の信仰の源流がアブラハムにあることを認める)、または「啓示宗教」(神が人に与え示された言葉を信仰の土台としている)と呼ばれる枠組みの中にあり、それぞれには共通の神概念があります。

それは、

1:神は唯一である。
2:神は天地万物の創造主である。
3:神は永遠であり、遍在される。
4:神は人間に語り掛け、人間の歴史に介入される。
5:神はその人の行いに応じて、祝福と裁きをもって報いられる主権を持っておられる。

などです。

つまり平たく言えば、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教ともに「信じている神様のキャラクターは似ている」のです。

しかし、「似ていて」も「同じ」ではありません。

その決定的な違いは何か。

今回はそのことについてお話したいと思います。

★先ずはユダヤ教とキリスト教についてですが、この両者は共に旧約聖書を信仰の土台としています。

しかしユダヤ教は「ナザレのイエス」(ナザレという寒村から出て来たイエスという預言者)をメシア(キリスト)と認めていないので、よって新約聖書もその存在そのものを認めていません。

ユダヤ教にとっては聖書に旧約も新約もなく、クリスチャンが言うところの旧約聖書が彼らの聖書の全てなのです(ユダヤ教では他にミシュナ、ゲマラ、タルムードと呼ばれる経典が聖典として扱われています)。

旧約聖書の預言で提示されたメシアとしての条件の全てを満たす人物は、歴史上、後にも先にもナザレのイエスのみです。

その「メシアに関する預言(メシア預言)」についても追々ご紹介したいと思いますが、
しかし何故、ユダヤ教はイエスの時代から現在に至るまで、そのナザレのイエスをメシアと認めることが出来ないのでしょうか?

⭐︎イエスはその公生涯の中で、イスラエルの民に向かって何度もご自身がメシアであることを奇跡をもって証明し、また言葉をもって証言されていました。

冒頭で示した聖書箇所は、その内の一つです。

「わたし(イエス・キリスト)と父とは一つです。」

パリサイ派を始めとする当時のユダヤ教指導者たちは、イエスが彼らが持っていた「メシア像」と合致しないので、イエスに対して大いに苛立っていました。

彼らの持っていた「メシア像」とは、「メシアならばユダヤ教の口伝律法を必ず守る」というものです。

しかし、口伝律法は「先祖たちの言い伝え」とも呼ばれ、聖書にはない、人間が作った教えであり、イエスはむしろそれに反するような行動を取っていました。

そのようなイエスの「メシアらしからぬ」振舞いがユダヤ教指導者たちの逆鱗に触れ、やがてそれがイエスの逮捕、十字架刑へと繋がったのです。

⭐︎イエスはそのように悪意をもって問い詰めてくるユダヤ教指導者たちに対して、上記のような発言をもって答えられました。

「わたしと父とは一つ」とは、「自分は父親と同一人物」という意味ではありません。

これはユダヤ教的には「神性宣言」です。

つまりイエスは、「自分は父なる神(旧約聖書に啓示された神)と等しく神である」と宣言されたのです。

これはユダヤ教指導者たちにとっては冒涜以外の何物でもありません。

聖書の字義通りの解釈、というよりも、口伝律法の伝統によって信仰体系を形成した「パリサイ派的ユダヤ教」にとって、神はお一人であって、三位一体の神という神概念は持ち得ません。

まして「子なる神」が人として受肉し、口伝律法を破りまくり、それがイスラエルのメシアであるとは想像すらも出来ないことです。

実際にこの発言の後、ユダヤ教指導者たちは冒涜罪としてイエスを石打ちの刑に処そうとしました。

自分を神そのものとしているイエスのこのような神性宣言は、ユダヤ教としてはとても受け入れられないものなのです。

⭐︎今現在にまで続くユダヤ教はこのイエス時代の「パリサイ派的ユダヤ教」の延長線上にあります。

よって、ナザレのイエスが神であることを、またイスラエルのメシアであることを認めない信仰体系であるユダヤ教は、「キリスト教と同じ神を信じている」と言うことは出来ません。

悲しいことに、人間の作った宗教的戒律、口伝律法が、イスラエルの希望として地上に来られた子なる神イエスを「神でもメシアでもないユダヤ教の敵」としてしまったのです。

★次にイスラム教について簡単に触れたいと思います。

イスラム教はこの3つの中では一番新しく、7世紀前半にマホメットを開祖としてアラビア半島で誕生しました。

マホメットは当時のアラビア半島に蔓延していた偶像礼拝を嫌い、ユダヤ教、キリスト教に友好的な態度を取っていました。一神教を好んでいたのです。

しかし自分を偉大な預言者の地位に置き、新たな宗教を作ろうとする彼は、次第にユダヤ教徒、キリスト教徒からも疎まれて行き、遂には敵対するようになりました。

⭐︎イスラム教の経典はコーランです。

コーランは、マホメットが神(アッラー)から約20年間にわたって受けた啓示をまとめたものがその原形だと言われています。

そしてマホメットの死後、弟子たちが師の教え、言行録を編纂し、今の形に落ち着いたとされています。

基本的にコーランは旧約聖書と新約聖書の福音書の一部をベースとしていますが、物語性がなく、歴史的背景の理解や予備知識がないと非常に読解が困難です。

またユダヤ教・キリスト教聖書の記述と比較すると、矛盾と思われるような点や、改変された箇所が多くあります。

何よりも、コーランにおいて、ナザレのイエスはモーセやアブラハムと同じく、「偉大な預言者の一人」として扱われています。

コーランにおけるイエスはあくまで人であり、神ではありません。イスラム教はユダヤ教同様に、三位一体の神概念は持たないのです。

となれば、やはりイスラム教も「キリスト教と同じ神を信じている」とは言えません。

★聖書は新旧約通して、聖書の神が三位一体の神であることを証言しています。

にもかかわらず、「父、子、聖霊の三位一体の神」をその通りに信じていないのであれば、例え旧約聖書に啓示された「創造主なる神」を受け入れている共通項があったとしても、結局のところ、「同じ神を信じている」とは言えないのです。

(※確かに旧約聖書では三位一体の啓示は不鮮明ではありましたが、イエスの地上生涯における活動、発言を素直に受け止めるのであれば、当時の旧約聖書の知識しかなかったユダヤ人でも十分に「ナザレのイエスがメシアであり神である」と信じることが出来たのです)。

⭐︎また、それと連動して、神概念の異なりが、そのままそれぞれの救いの教理の異なりへとなって来ています。

それはどういうことかと言えば、人として受肉された子なる神、ナザレのイエスが唯一、人類の救いを成し遂げて下さったからです。

100%神であり100%人である罪のないイエスのみが全人類の罪を十字架上でその死をもって清算したのであり、またイエスのみが死から復活したのであり、そのイエス・キリストの福音を信じる信仰のみが、信じる人を罪の裁き、永遠の滅びから救うからです。

つまり、イエス・キリストを神と認めていないのであれば、必然的に、聖書が提示している救いの方法ではない「別の救いの方法」を信じている、ということになるのです。

⭐︎ユダヤ教は、基本的に「ユダヤ人(アブラハムの子孫)であれば自動的に救われている」と教えています。

(例外は、「キリスト教に改宗したユダヤ人」です。キリスト教に改宗したユダヤ人は、死んだ後、その魂が天国の門に近付いても、門番をしているアブラハムに追い払われる、とされています)。

彼らが律法を熱心に守ろうとするのは、「救われるため」ではなく、「天国でより高い地位に就く」ためです。

⭐︎イスラム教は完全に「業(わざ:行い)による救い」をその救済論の基本としています。

五行の実践(信仰告白、1日に5回の礼拝、貧困者への施し、ラマダン月の断食、メッカへの巡礼)は、イスラム教徒にとって、救いを確かなものとするためには欠かすことができないものです。

またイスラム教は基本的に7世紀当時の中東で起こっていた戦争を背景に確立された教えなので、ジハード(イスラム教伝播のための戦い。必ずしも武力行使を指すわけではない)によって殉教することも「救いの方法」として採用されています。

つまり「ジハードによる殉教者」はパラダイス(天国)に行けると教えているのです。

聖書が新旧約一貫して、神が「三位一体の神」であることを主張しているのと同じように、救いに関しても聖書は新旧約一貫して「信仰と恵みによる救い」を説いています。

福音の内容(救いに至る信仰の内容)は時代によって変わったとしても(例えばアブラハムが信じた福音の内容と、教会時代に生きる私たちが信じている福音の内容は異なる)、「神が聖書を通して約束された事柄を信じる信仰と、その信仰を通して働く神の恵みによって、人は無条件で救われる」という「神の人類救済方法」には変化はありません。

その聖書的救済論をその通りに保持しているのが、世間的には「キリスト教」と呼ばれる「ナザレのイエスを子なる神キリストと信じる」信仰です。

キリスト以外には、誰によっても救いはありません。

天の下で、このキリストの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。

⭐︎天国はどこか遠いところにある訳ではありません。

完全な愛である聖書の神は、全ての人をご自身のもとへと招いておられます。

その人が、どのような国籍か、ユダヤ人か、日本人か、アメリカ人か、また立派な行いが実践できるかどうかは一切関係がないのです。

どうかあなたも今、全人類に無代価で差し出されているイエス・キリストの福音を受け取り、無条件の魂の救いを手に入れて下さい。

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