ナマケモノになっちゃう

一週間ほど前、東京には雪が降った。降り始めはちょうど出社のタイミングだった。家を出ると白いものが遠慮がちに空を舞っている。駅に着くまでにその勢いは増していった。重たい牡丹雪ではなく、さらさらとした粉雪だった。お気に入りの緑色のコートが白色の化粧をした。

日中降り続けた雪は夜になってようやくやんだ。会社からの帰り道、大通りから自宅に向けて細い道に入る。50メートルほどの一本道には雪だるまが3体いた。小さいのと、中くらいのと、大きいの。街に高揚感が取り残されていた。

あの雪の日から、一週間以上が経った。雪の名残はどこにもない。雪は降って、積もって、溶けて、姿を消した。

数日前、久しぶりに大学の同級生と卓を囲んだ。そこにはかつての恋人もいた。会話をするのは数年ぶりだった。緊張をした。話せて、よかった。

わたしはその場でおいおいと泣いてしまった。泣いてはいけない、脳みその表面ではそう思っても、真ん中から内側のあたりでまあいいやと思った。涙はするすると目の表面にまで運ばれてきて、目の縁でひとしきり表面張力を弄んだ後、ぽとり、とそこから飛び出した。一人が一歩を踏み出せば、あとはファーストペンギンと同じ具合に、涙は次から次へと流れでた。わたしは酒を飲んでいた。飲むために泣いているのか、泣くために飲んでいるのか。よくわからなかった。

涙は感情が昂ったときに流れるものだ。その多くは悲しいとき、時々はうれしいときにも。それならわたしはその日、悲しかったのだろうか。

たぶん違うのだろうと思う。わたしは安心していた。泣いてもいい空間に身を置くのは久しぶりだった。心地が良かった。そうしたら、泣いてしまったのだった。

ウーパールーパーになりたい。

涙の原因を考えていたら、そう思った。けれど調べてみると、認識に誤りがあった。なんとなくウーパールーパーは雌雄同体のイメージがあった。だけど違った。識別は困難だけれど、オスにだけ、足の付け根に膨らみができるという身体的特徴があるらしい。それはいわゆる睾丸なのだそうだ。ショックだった。雌雄同体でなかったことも、その判別方法がなんだか生々しかったことも。ウーパールーパーになんか、なりたくない。

わたしの臍の下はなだらかだ。何もぶら下がっていない。そのことに特に違和感も覚えない。だからわたしは女だ。自分が女なんだなとよく思う。だからわたしは自分がとても女だと思う。女だ。

そうなのだけど、自分の中に女じゃないものを感じることもある。わたしの女は、わたしの心の奥底にいるのだ。あまり出てこない。それなのに、わたしのことをまるっと女として扱う人がいる。混乱をする。いったいあなたはわたしの何を見て女だと思うのだろう。見せた覚えはないから、たぶん見た目とかで女と判断しているのだと思う。そりゃそうだ。わたしは女の見た目をしているのだから。

なんとも、難しい。

ふと、ナマケモノはどんなふうに雌雄を確認するのだろう、と思った。わたしはナマケモノが好きだ。調べたら、彼らの雌雄の識別は非常に困難だった。10年ほど前、とある動物園ではオスだと思った個体がやっぱりメスだった、という事例もあったらしい。その個体は元からいるメスとの繁殖用に連れてこられたものだったのに、二匹は仲良さげに、でも決して交尾などはせず、動物園の飼育員たちは首を傾げていたそうだ。かわいいと思った。ナマケモノは見た目での雌雄の判別はほぼ不可能で、その個体は毛と唾液でDNA検査にかけられて、ようやくメスだと分かったらしい。本人だけが、自分はメスだと分かっていたのだろうか。元からいたメスは、相手がメスだと分かっていたのだろうか。いずれにせよ、その二匹が仲良しだったことが、なんだかうれしいのだ。

ここ数週間、女にならなくてはいけない局面が多かった。いや、別に女にならなくてもいいのだけれど、よくわからないサービス精神が邪魔をして、女にならねばと思ったのだ。だから誰が悪いわけでもない。ともかくそうして「女」になった。「女」には顔がない。「女」は一人で歩いていく。「女」はせっせと言葉を紡ぐ。それはわたしではない。女と「女」の間には大きな壁があった。

ナマケモノは裏切らない。どこまでも優しい。だから好きだ。

人がいる。人として繋がった先で、ときどき、女になる。男女の別が生まれるのはすなわち男がいる時だけだから、その相手は必然的に男になる。そう考えている時点で、わたしは本能の部分でとても女性的だ。

人としてのわたしはすごく強くて、女としてのわたしはとても弱い存在、だからわたしは限られた異性の前でしか弱くはならない。そのバランスで、わたしは足りるのだろう。そして日常における接客業務は「人」であるわたしが請け負っている。そこで「女」を必要とされてしまうと、わたしは大いに混乱してしまう。その辺りが器用ではないのだろう。

交尾でもしない限り雌雄の区別が必要にならないナマケモノが、羨ましいと思った。でもわたしはやっぱり女なのだから、仕方がない。性別も一つの個性なのだから。自分の個性を愛することは、幸せになる近道なのだろうと思う。そしてそれは別に簡単なことだ。人生はイージー。人も、女も、「女」も、全部にいいねボタンを押して生きればいい。

雌雄の調べ物をしていたら、ナマケモノを飼うのは大変だと書いてあった。高温多湿の環境を保つのに、バカみたいに電気代がかかるらしい。餌代はほとんどかからないのに。ちなみに掃除もほとんどいらない。排泄は10日に1回だけだから。そのときにだけ彼らは木から降りてくる。律儀にトイレをしに降りてきて、そこで天敵に見つかって死ぬことも多い。木の上からトイレをすればいいじゃん、と思う。でも彼らは降りてくる。やっぱりどこまでも優しい生き物だ。

雪の降る東京で、ナマケモノは生きられないだろう。わたしはナマケモノではないから、東京でも生きる。そしてわたしは、ナマケモノが大好きだ。

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