永遠に新鮮な気持ちのまま「旅」の快楽をしゃぶっていられたら最高なのに。
ひとり小旅行をして思った。
見ること、知ることはそれ自体が快楽だ。
初めて見る景色。
初めて知る事物。
自分が今までに持っていなかった知見や記憶を新たに得るということには、それ自体に快楽の性質が伴っている。
ただ快楽は快楽でしかない。それだけで全てが満たされるわけではない。
小旅行は好きだ。
ひとり旅が好き。
けれど年々、旅を重ねるほど、旅だけでは埋められない感覚のほうに心が向くようになってしまっている気がした。その感覚は旅の間じゅう付きまとっている。
自分の中にはいくつものきらきらした旅の記憶がある。
真冬の盛岡の街なみ。
富山湾の朝焼け。
陽光眩しく波穏やかな瀬戸内の生口島。
四国の鉱山遺跡。
それらは今でもふとした瞬間に浮かんできて、心にほわっとした温かさをもたらしてくれる、鮮やかな記憶だ。
そしてそれらの記憶には「旅だけでは満たされないもの」の感覚はまとわりついていない。思い出されるのは快楽の部分だけ。だから僕は、新たな快楽を渇望して旅に出たがる。
中学の頃に読んだ沢木耕太郎の『深夜特急』の香港の話を思い出す。深夜特急は彼が20代中盤の時に行った、インドのデリーからロンドンまで乗合バスだけで移動するという奇天烈な旅の紀行文。彼はデリーへ行く途中、通過点のつもりで立ち寄った香港で、街の熱気やカオスぶり、その人間臭さやエネルギーに心を奪われてしまい、以降の旅でも「香港の幻影」に苛まれる。要は行く先々どの街にも「香港」を求めてしまうようになった、という話だ。
僭越ではあるけれど、沢木先生の感覚を自己都合的に解釈させてもらうなら、自分もまた記憶の中の快楽に取り憑かれて、その先の旅を楽しめなくなってしまった、ということになるのかもしれない。
つまり麻薬とかと一緒だ。
パチンコとかと一緒。
快楽が足りなくなると我慢出来なくなるもの全般と一緒。
「旅」というものをそんな種々雑多な快楽と一緒くたにしたくない、もっと高尚で健全な趣味というような位置に置いておきたい意識がある一方で、実際のところ自分を旅に突き動かしている感情はそういう快楽を求める心なのではないか、と気付いてもいる。
だとしたら、とてもくだらねえなと思うし。
満たされないものから目を逸らして違うことに熱中するのはとても馬鹿馬鹿しいことだと思ってしまうし。
何より快楽は「慣れ」てゆくものだから、いつかは満足出来なくなる。
慣れたくない。
永遠に新鮮な気持ちのまま旅の快楽をしゃぶっていられたら最高なのに、旅の回数を重ねるほど、パンフの使い方や、買い物やトイレの配分などやり方ばかり上手くなってゆく。確実に「慣れ」は忍び寄って来ている。
そんなこんなを考えながら旅をしたって楽しめやしない。
けど結局、僕は今のところ旅好きだ。
快楽だから。