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母への変容と子供という象徴の意義

知り合いのある女性が、生まれて数ヶ月の娘と遊んでいたとき、ふっと我に返って、

「この子は私の子供なんだぁ!というか、私には子供がいる!というか、私お母さんになったんだ!」

こういう想いが頭の中を駆け巡り、目の前の存在に感謝と共に、とんでもない愛おしさでいっぱいになり、泣いたという。

そしてまた別の日に、子供と散歩をしながら、不意になんとも無垢な瞳に見つめられた際、愛しくてたまらなくなったと同時に、いつか別れなければならない宿命を感じ、たまらなく哀しくなって泣いたという。

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これを女性の内面の成長と捉えることも出来るが、心理学的には「変容」と捉えることができる。

成長が量的な変化だとすると、変容は質的な変化とも言える。

1人の、個人としての女性が、「母」というものに変容した瞬間といえそうだ。

この様な変化は、目の前に赤ちゃんが現れたというだけで生じるものではなく、赤ちゃんの有り様を受け入れることが出来て初めて生じる。

この瞬間、彼女は、目の前の赤ちゃんの象徴としての意義について気付いたとも言える。

この意義とは、彼女にとって大切な自らの母親と自分が同じ立場になったこと、自らの母親から受けてきた深い愛情を今度は自ら子供に注ぐ立場になったことであり、さらに遡れば、赤ちゃんを通じてこの様な愛情の大きな連鎖の輪の中に自らも改めて組み込こむことが出来たことを表している様に思う。

もちろん、子供を産まなくともこの様な変容は起きるのだし、深い愛情の連鎖に組み込まれるための象徴は人それぞれであり、だからといって子供が生まれることの価値が毀損されるものでもない。

では、この愛情の大きな連鎖とは何かといえば、私たちの先祖が多くの困難を乗り越えつつも、それでも守ろうとしてきたものであり、且つ、どうしても生きようとしてきた証そのものである。

個人として生き延びることが困難であっても、子供を生かすことでこの大きな連鎖を生かすことにもなる。

子供がいなくても、この連鎖のうちに自らを組み入れ、この連鎖に貢献することも出来る。

人類はこの様な想いを大切に抱きながらここまで生きて来た。

そしてこの想いが生きる糧そのものでもある。

この連鎖のことを「動的平衡」とも言う。

これを定義すると

「絶え間なく動き、入れ替わりながらも全体として恒常性が保たれていること」。

という。

これは同時に生命の定義でもある。

生まれることも死ぬことも同じ様に大切。

私も、このことを忘れないようにしよう。

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