「お客様」の感覚とデザインの対話
「お客様」「ユーザー」「利用者」など、組織によっていろいろな呼び方がある。私は、企業を外部から支援するデザイン会社の立場から、さまざまな企業のさまざまな呼び方を見てきたし、そこに込める思いも感じてきた。
なにげなく語られる「お客様」
先日、あるデザインのシンポジウムに参加し、日本のバイクメーカーのデザイナーの講演を聴いた。その方が自社のデザインの紹介をする中で印象的だったのは、なにげない「お客様」という言葉の響きだった。
その方のプレゼンテーションでは、自社のバイクが途上国でいろんな使われ方をしている様子が、写真とともに紹介されていた。日本でいうタクシーのような使い方、たくさんの荷物を積んで走るスクーター、幼い子どもを後ろに乗せて運転する小学生ぐらいの男の子(ヘルメットはしていない)。日本では見かけない風景の連続だ。
その方は、現地ではバイクは単なる移動手段ではなく、生活や命をつなぐためにも欠かせないものだと言う。そして、多様なバイクの使われ方を包容した上で、その写真の一人ひとりに向けて丁寧な口調で「お客様」という言葉を重ねていた。
異なる文化や風習を乗り越え、生活のためにさまざまなバイクの使い方をする人々を「お客様」と重んじる。その語り口は、単なる「取引した人」という意味ではなく、「私はその一人ひとりに対して責任がある」という事実の表明のようにも思えた。移動手段としてだけでなく、生活や命に対する責任だ。
そして、最後にそのデザイナーは「カタチは思いやりである」とプレゼンテーションを締めた。
デザイン領域とその「お客様」感覚
お客様、ユーザー、利用者など、そのような人々への呼び方には、その企業や担当者の意志がこもる。
私はサービスデザインやUXデザインが専門であるため、デジタル環境に根ざしたアジャイルな文化のもとで仕事をすることが多い。
サービスデザインやUXデザインは、比較的短い時間軸のお客様を捉え、価値を変化させながら事業を成長させる。今日のお客様の要望を明日のサービスに反映するような、変化のすばやさもある。購入体験は一時的なものではなく、連続的な価値提案の中で行われる。柔軟で即時的な関係性の中に「お客様」感覚がある。共創的な感覚も強い。
一方、インダストリアルデザインでは、数年先の未来を構想しデザインする。未来に向けて一回きりの提案をするようなイメージがある。たいがいは一度の支払いが購入体験となり、そこには瞬間的な期待と感謝が交差することになる。身体とモノが物理的に接触する。愛着など心理的な影響をともなって物理的な生活風景の一部になる。もしくは、人の命を奪う可能性もある。安全への責任も強く意識される。
業界やデザイン領域ごとにニュアンスの違う「お客様」感覚がある。当然、何が優れているということではなく、質の違いである。
「モノからコトへ」に対する責任
モノからコトへ。もはや慣用句になっている言葉であるが、これはモノがコトに代替されるという意味ではなく、「モノ」から「モノを含んだコト」に価値や産業がシフトするという意味が正しい。
私は「コト」のデザインに携わるので、構造的には「モノ」のデザインの「お客様」感覚を身体で理解し協働したいと思う。
インダストリアルデザインは、日本の産業力や国力を牽引してきたし、これからも引っ張っていくものと思う。その自負や包容力から出てくる「お客様」という言葉は重く、視野も広大だ。国際的な信用力を背負ってのものもと思う。この「お客様」感覚は、先人が作り上げた日本のデザインの無形の財産とも言える。
ウェブやデジタルサービスの産業は製造業と比較して歴史が浅い。日本のデザイン史というパースペクティブに立ったならば、インダストリアルデザインの自負や「お客様」感覚は、対話をしながらDNAとして取り込んでいくべきではないだろうか。デザイン領域の壁を乗り越えて、あらゆる産業を包括し時代を連続するデザイン観を持つ必要があるだろう。
「お客様」の言葉に意志をこめる
「お客様は神様です」という言葉をご存知だろうか。昭和の歌手・三波春夫の言葉だ。お客様は、常に最高のエンターテインメントを提供すべき対象であり、自分に課した乗り越えるべきハードルという意味だそうだ。「お客様=神様」という言葉には自身の芸能の追求という志向の意味が込められている。(後に、この言葉は、お客様は服従すべき神様のような存在と曲解されてしまうが)
お客様、ユーザー、利用者などの呼び方に、みなさんはどのような感覚と意志を込めているだろうか。
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