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「映画は映画館で観ていただくために、

みんなで大切に作っています」とトークショーで何度もおっしゃっていた三島有紀子監督。

お腹の中にいた時から映画館が身近だった私にとって、映画館という場所は特別でも当たり前でもあって生きていく上で大切な場所になっている。それでも「配信で観れるかな」と映画館で観るのを逃してしまうことも多い。

なので監督のこの言葉を真正面から受け止めて、やっぱり映画は映画館で観ていきたいと改めて感じたし、
忘れたくない宝物のような映画体験は、映画館だからこそ起きると思う。

先日、ポレポレ東中野にて開催された《三島有紀子監督特集》に行き、短編含めて4作品を観ることができた。


今年公開された最新作『一月の声に歓びを刻め』を見逃していたため、映画館で鑑賞できる有難い機会だった。

まず最初に観た短編3本立て上映後のトークショーで、この作品のことが少し触れられ、この映画に漂う空気が明るくはない話について、

「人間は傷やら何かがあるから、その傷を映画に出すか出さないかはどちらでもいいかなと。その傷が漂えばいいかなと思いまして」

と監督がおっしゃっていた。まだ本編を観てないからそれがどういうものかはわからないけど、なんとなくそのことが印象に残った。

映画が始まって、トークショーの話が頭によぎる。確かに明るくない。人も景色も食べ物も美しいのに、何かが「漂っている」。

3つの島に生きるそれぞれの人たちを描いていて、直接的に繋がっているとかじゃなくてもそれぞれの人たちの何かの関連を探したくなる。
でも気づいたら「罪とは」「傷とは」を自分の心の中に探していた。

台詞が多くないから頭の中に言葉も残り続ける。
「なんで私が罪を感じなきゃいけないんだよ」
特にこの言葉は自分の体を引っ掻かれたような衝撃があった。

観終わって確実に何かを感じているのに、私はそれが明確に何かはわかりきれていなかった。
映画を観ている間に自分と向き合ったとしても、映画は進んでいくからそこに逃げられるし、映画を追い続けたくなって自分のことは良くも悪くも置いておける。

しかし、観終わった後の監督のトークショー中盤で、私はすっかり忘れていた記憶を思い出してしまった。もう10年以上前のことで、人に話してないし普段の生活には出てこない記憶だから全く忘れていた。

たとえ人に話したことがあっても、笑いながら話していたから何かを誤魔化して蓋をしていたんだと思う。鑑賞中にはっきりとは思い出せなかったから、相当分厚くて重い頑丈な蓋だったんだということも映画館で初めて知った。

監督の話で蓋がちょっと外れて、そこから涙という形で溢れ出て止まらなくなった。
映画が始まるまではこんなことになるなんて思っていない。映画館で私の人生の隠れた蓋をこじ開けられる映画体験になった。

人を傷つけたことは忘れられなくて蓋をせずに覚えてることが多くても、自分が傷ついたことは忘れるきっかけになった頑丈な蓋がそれだった。
傷ついたはずなのに、人生を歩んでいるといつの間にか自分の傷をなかったことにするのが当たり前になっていた。

あの頃の私があっての今があるということ、今の自分を形成している一部が、その経験と蓋の影響を受けていることが明確な線になって繋がった。

この映画に映画館で出会っていなかったら、いつまでも蓋をしたまま、蓋の存在も忘れたまま過ごしていたかもしれない。

映画を観て思い出したくないことを思い出すこともある。でもこの時の映画体験は「思い出しても大丈夫だよ」と言われてるようにも感じて、自然と鮮明に思い出された。

それからというもの、蓋をしていた出来事が一気に日常に顔を出してきている。だからって何にもならないし、蓋をしたままでもよかったのかもしれない。でもあの映画を映画館で観れたおかげで、様々なことを受け入れ始めていることが今後の人生に大きく影響しそうな予感がしている。

それくらい私にとって大切で必要な映画体験だった。
映画館で観れて良かった。泣いてる私を見て「美しい人へ」と書いてくれた三島監督に、そして映画に私は救われた。
こういう出逢いがあるから、やっぱり映画館で映画を観たい。

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