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ましろ死論―猫、夏、駅、迪ォ―③



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「猫の食卓」以降/コラボの少ないましろ

前章で見てきたように、「猫の食卓」はこれまでのましろの活動がまったく異なって見えるほどの衝撃を僕たちリスナーにもたらしたわけだが、しかしそれ以降のましろの活動も大きく変化したのかと言うと、実はそういうことはない。
ましろの活動は、実はほとんど変わっていない。変わったのはリスナーの僕たちのましろを見る眼だけである。


これは実は初配信から現在に至るまでにも言えることで、ましろの活動にはほとんど大きな変化はないのだ。多くのVtuberは、配信活動を経るに従ってなんらかの変化を被るものである。そのことを自ら笑いに変えて、周年記念日に初配信をリスナーとともに同時視聴する配信が行われることも珍しくない。活動初期と現在のロールプレイの、如何ともし難いズレを自虐的に笑うのである。あるいはそこまでいかなくても、リスナーとの関係性が深まることでたとえば口調が変わったり、配信の雰囲気がやわらかくなったりするなど、細かい変化があるものだが、ましろにはそのような変化すら比較的薄いように思う。


しかしなぜこれだけましろというVtuberがドラマティックなのかといえば、彼が投稿する歌ってみた動画のためである。ましろの活動自体は大きく変化していないにもかかわらず、歌ってみた動画を出す度にましろというキャラクターを見る僕たちの眼こそが、文字通り劇的に変化していく。
まさしく彼は、作品に作られるタイプのVtuberだと言えるだろう。

「猫の食卓」の後、4/13に唐突にましろは「にじさんじ仁王2クリアRTA」という企画に参加する。にじさんじ所属Vtuberのでびでびでびると葉山舞鈴が主催した企画で、仁王2のクリアタイムを競う企画である。参加者は同じくにじさんじ所属の社築と叶、そしてましろである。
ましろの活動に大きな変化はないと言ったばかりだが、しかし小さな変化はいくつかあり、これはそのうちの一つだと言えるだろう。


実はましろは、他のVtuberとのコラボや、イベント、企画などの参加率が異様に低いのである。
この「仁王2クリアRTA」は、ましろがデビューして初めて参加した企画なのだ。他のVtuberとのコラボに関しても、まななつと呼ばれる奈羅花と来栖夏芽との同期トリオのコラボがいくつかあるものの、しかし他のにじさんじVtuberの同期組と比べると、そのコラボ回数は決して多くない。そのために自ら不仲説を唱え笑いを取るほどである。


同期以外とのコラボとなるとさらに少ない。
1/25の「【The Forest】僕たちの慰安旅行は危険がたくさん!?【ましろ/不破湊/にじさんじ】」、2/7の「【大型コラボ】殺 る か 殺 ら れ る か な ん だ よ 【ましろ/にじさんじ】」、2/21の「【水平思考ゲーム】うみがめのスープ【ましろ/来栖夏芽/奈羅花/グウェル・オス・ガール/にじさんじ】」、そして3/23の【逆凸企画】9万人記念!9人のライバーさんへ突撃します!!!【葉山舞鈴/にじさんじ】の4つのみである。


最後のものは葉山舞鈴による逆凸であり、ここで初めて葉山舞鈴と交流したようだ。仁王2クリアRTAへの参加は、主催である葉山舞鈴とのこの交流がきっかけだと推測できる。
仁王2クリアRTAに至るまでには、にじさんじでは参加自由の大型企画や大会がいくつかあったはずであるが、そのいずれにもましろは参加していない。
大会に関しては、デビューしてから今に至るまで、一度も参加していないほどである。
このようにましろは、デビュー当時から他のVtuberとの交流が少なかったが、仁王2クリアRTAは珍しく参加した企画として注目すべきだろう。
これ以降、相変わらず他のVtuberと比較すれば圧倒的に少ないものの、少しずつコラボをする機会が増えていく。

4/21にはにじさんじArk、ラグナロク編に参加。コラボ機会は少なかったが、他Vtuberがワイバーンなど強力な恐竜を揃えることに腐心する中、一人もくもくと木造の海賊船を製作するなど、個性的な配信を行った。
またこの時期に、夢月ロアのあつ森配信において、彼女とましろの交流が明らかになった。配信外のにじさんじArkでともに作業をしたことや、同じにじさんじ所属のメリッサ・キンレンカとともにホラー映画を見るなどしたことが語られている。夢月ロアとの交流は、おそらく彼女と親交の深い葉山舞鈴を経由したものだと推測されるが、夢月ロアとメリッサ・キンレンカ、そしてましろは後にひみつ結社XEROというコラボトリオを発足し、ホラゲーをはじめ、夏には怪談配信など、さまざまな活動を行うこととなる。
また葉山舞鈴とは5/2に「【Visage】コレ、コワイノ・・・?【葉山舞鈴/ましろ/にじさんじ】」の配信を行い、以降、サイコパスブラザーズなるコンビを結成し、何度かAPEX LEGENDS配信や動画投稿を行っている。8/9のにじさんじ大乱闘という箱内大規模大会では、葉山舞鈴3回戦の勝利者インタビューにおいて、対戦直前にましろから伝授されたサイコパス戦法が功を奏したと語られるなど、その交流のほどが伺える。ちなみにましろ自身は、相変わらず大会には参加していない。理由は、エントリーのし忘れであると述べている。


葉山舞鈴とのサイコパスブラザーズ。夢月ロアとメリッサ・キンレンカとのひみつ結社XERO。そしてもちろん奈羅花と来栖夏芽との同期トリオまななつ。
このように、少ないながらも少しずつコミュニティを広げていったことが、「猫の食卓」以降のましろの活動における、小さくとも重要な変化と言えるだろう。
5/3にチャンネル登録者が10万人を突破し、翌日5/4に行われた誕生日記念配信においては、「やっとライバーとして自立できたと思う、これからはコラボとかにも積極的に参加していきたい」と意欲を語っていた。
このことは、有言不実行が特徴のましろの活動において、極めて珍しく、ある程度宣言通りとなった稀有な例ではないだろうか。




リスナーの男女比/空白の2ヶ月

5/19、ましろは「【遊戯王タッグフォース6】おい、デュエルしろよ【ましろ/にじさんじ】」で遊戯王配信を開始した。
ましろの遊戯王配信について語っておきたいのは、その内容ではなく、リスナーの男女比のことである。
5/31のツイートでましろは、遊戯王配信によってリスナーの男女比が、男性99.8%女性0.2%となったことを報告している。
銭湯の男湯並みの男性率であり、残りの女性0.2%が父親に連れられた小さい女の子に思えてくるほどであるが、実際これは当時のにじさんじにおける最大の男性比率である。


ましろの配信の99.8%は男性で、しかも遊戯王についてああだこうだ言い合っているという状況を工業高校の放課後に見立てて、ましろ工業高校と揶揄する文化がこのときに生まれた。ましろ自身は「ぼくの女性リスナーを返してくれ」と嘆いて見せながらも、自分の学生生活が充実していなかったことを振り返りながら、「あの頃出来なかった青春をいまやり直してる感じ」とやや嬉しげに語ってもいる。

毎日17時に配信が行われ数時間遊戯王についてリスナーと盛り上がっている様はたしかに工業高校のようであったが、しかし6/17の配信以降、毎日の遊戯王配信は唐突にストップし、以降行われることはなくなる。
このような、旺盛な活動からの唐突な予告なしの休止は、ましろの活動にはありふれているが、しかし6/26のロードモバイル案件配信以降、これまでにない異例さの長さで、ましろの活動は激減するのである。
本エッセイの「はじめに」で述べた、空白の2ヶ月の始まりである。

そして7/10、約2週間ぶりの活動として、サイコパスブラザーズの動画「サイコパス警察から逃げろ / GMOD」が投稿される。
翌々日の7/12 には「【マイクラSCP】SCPって知ってる?【ましろ/にじさんじ】」が新たなシリーズとして開始。大規模なシリーズ化が予告されたが、しかし相変わらず有言不実行のましろらしく、未だにこのシリーズは現在までに合計2回しか配信されていない。
ただ、この配信の中で唐突に、新しい歌ってみた動画の収録を行ったことが報告された。
声が枯れていて、その理由に、新しい歌ってみたを収録してきたということを報告し、またその曲がかなり激しく声を使う曲であることが明かされたのだ。
そして7/18午前1時にツイッターにて正式に、新作歌ってみた動画が同日午後6時に投稿されることが告知された。
白いシャツに暗色のベストの学生服らしきものを着たましろのイラストサムネイル(後に曲タイトルが重ねられる)と、仮タイトルがこの時点で公開されている。
仮タイトルは「3b85fae7-5b2f-4865-a12b-c1a80f9bf879」である。
ましろの歌ってみた動画は毎回プレミアム公開で投稿されているが、公開されるまではこのように意味不明な文字列が仮タイトルとして付けられることが多い。
リスナーはこの時点からサムネイルのイラストと仮タイトルの文字列を考察し、ましろが何の曲を歌ったのかを予想するのが恒例である。
こうして、ましろの歌ってみた動画「あの夏が飽和する。」が投稿されたのだ。



「あの夏が飽和する。」

「あの夏が飽和する。」は原曲自体にすでに極めて強固なストーリーがあり、この曲のストーリーと地続きの物語を持つ曲が2曲(「人生はコメディ」「命に嫌われている」)公開されており、また作曲者のカンザキイオリはこの曲を原作とした同名の小説さえ執筆している。
したがって、この曲は紛れもなくましろの物語を語る上で避けては通れない作品でありながら、しかし同時に、この曲を頼りにましろの物語について語ることは、実は非常に難しい。
この曲について語るとき、必ずましろの物語と原作の物語との混線と衝突が起きるからだ。
そしてぼくたちは、どこまでがましろの物語なのか、どこまでがましろの物語ではないのかを、一切決定することができない。
それは結局のところ、これがオリジナル曲ではなく他者の曲の歌ってみた動画だからである。


しかし同時に、この曲がましろ自身の物語を表現しているのも確かなのだ。
この歌ってみた動画は、他者の物語を巧みな引用と剽窃によって自らの物語に活かした、ましろのストーリーテリングの極めて高度な表現なのである。
そしてこのストーリーテリングの手法そのものが、ましろというVtuberの素晴らしい魅力を支えているものの一つなのだが、これについては後で触れることにして、ひとまず僕たちは、この曲のすべてをましろの物語の表現として受け取るべきなのだろう。
原曲の物語とましろの物語を完全に切り離すことが出来ない以上、僕たちにはそれしか手段がない。


とはいえ、どこがましろの物語としての肝なのか、ヒントがないわけではない。ヒントは、ましろ監修のオリジナルMVにある。
オリジナルMVの内容は基本的には原曲の歌詞の映像化となっている。
しかし映像という情報量の多いメディアの必然として、そこには歌詞には存在しない情報が含まれており、その部分こそが注目すべきましろのオリジナリティだと言えるだろう。
そしてましろのオリジナリティであるということは、つまりはそれはましろが原曲に「付け加えて」表現したかったことであり、ましろの意図や企みが強く込められた部分である。
したがってそれはましろの物語にとっても、特に肝の部分に当たるのだと推測することができる。


だから僕たちは、普通に歌や曲を考察するときのように歌詞の一つ一つをつぶさに検討していくのではなく、ましろの物語をストレートに表現した一つの映像作品として、この歌ってみた動画を考察していくことにしよう。
それは畢竟、この「あの夏が飽和する。」をカンザキイオリの作品としてではなく、一つの完成したましろの作品として考察することを意味する。
原曲の世界観とはまったくかけ離れた考察となるだろうが、どうかご容赦願いたい。



考察

「あの夏が飽和する。」の原曲のストーリーは複雑なものではない。むしろ極めてシンプルである。
まず「僕」と「君」がいて、学校でいじめられていた「君」は誤って相手を殺してしまう。「ここにはいられない」と悟った「君」が自殺する旅に出ることを「僕」に告げ、そして「僕」は「君」についていくことにする。しかし旅の途中で「鬼」に追いつかれ、「君」はナイフで首を切り死ぬ。「僕」は捕まり、時間が経つ。「僕」は「君」と「あの夏」を思い出しながら、様々な心情を吐露する。


これだけの、シンプルな物語である。
そしてこれだけのシンプルな物語にも関わらず、この曲が異様な迫力と切実さに満ちているのは、「僕」の一人称で語られる心情の、胸の詰まるような悲痛さのためである。物語としては単純であるが、むしろこの心情表現の方がいわゆる「読みどころ」だろう。
ましろのオリジナルMVは先に述べたように、上記の物語を映像化したものである。「読みどころ」もたっぷり情感豊かに表現されている。
まず僕たちが注目すべきは、ましろが「僕」と「君」にあてがった視覚的イメージである。
これこそ、今回ましろが仕掛けた卓抜したストーリーテリングのすべての根幹なのだ。
「僕」と「君」のふたりとも、ましろにそっくり似ていながら、しかし決定的にましろではないのである。
いったいどういうことか。詳しく見ていこう。



「僕」と「君」の視覚的イメージ

まず二人のましろに顔がそっくり似ている人物が出てくるのだが、二人は学生服を着ている。一人はズボンを履いており、もう一人はスカートを履いている。このことから「僕」がズボンを履いている方で、「君」がスカートを履いている方だと推測できる。
「僕」はまるでましろのような顔をして、ましろのように安全ピンを髪の左右両側につけている。

ましろ男


「君」はまるでましろのような顔をして、ましろのように小さな赤いリボンを髪の左右両側につけて、しかもましろのように赤いマフラーを付けている。

ましろ女


ふたりともましろにそっくりであるが、しかし決定的にましろではない。
なぜなら、「僕」はましろがしているはずの小さな赤いリボンをつけていないし赤いマフラーもしていないし、「君」はましろがしているはずの安全ピンをつけていないしスカートを履いているからだ。
このように、「僕」と「君」はましろにそっくりでありながら、しかしましろではないのである。
ふたりとも、ましろとしては決定的に欠けている部分があるのだ。
そしてその欠けている部分は、しかしお互いが持っているものなのである。
つまり、「僕」と「君」は、まるでましろが分裂したかのような見た目をしているのだ。

原曲の歌詞にはこのような演出はない。これはましろがオリジナルMVで「付け加えた」要素である。
したがって、ここには確かにましろの意図や企みが込められていると言えるだろう。
それにしても、なぜこのような演出を施したのだろうか。
その理由はMVを最後まで見れば分かるが、さしあたり指摘しておきたいことが一つある。
それは、「君」がスカートを履いた女性として表現されていることは、いわゆる女体化ではないということである。
女体化とは、あくまでもその対象が当人でなくてはならない。しかし「君」はそもそもましろではないのだから、この演出を単なる女体化としてみるのは誤りだろう。

また、ましろのジェンダーのイメージとして、もともと女性的なイメージがあったという事実をここで思い出しておきたい。
ましろはデビュー当時から今に至るまで、そのジェンダーについて繰り返し議論されている。
初配信のマシュマロ質問で「男ですか?」と聞かれ、「男です」と即答した時の反響の大きさは、当時のコメント欄や切り抜き動画の再生数などに端的に表れている。
ましろは男である。自らそう断言している。しかし容姿も声も、中性的か、もしくは女性的な印象は少なくない。
しかし常連のリスナーにとっては、ましろの人格について知れば知るほど、彼が男性であることが確信できるような、そのような男である。


にもかかわらず、ましろには常に女性疑惑がつきまとっていた。
本人自らそれをネタにすることもあるし、ましろが少しでも隙を見せると(女性的な一面を垣間見せると)、すぐさま「やっぱ女じゃん」とコメントで指摘されるほどである。「ましろくんちゃん」と呼ばれることもある。
ましろは紛れもなく男であり、皆それを理解しているにもかかわらず、しかし常に女性疑惑が絶えない。
このような状況を鑑みた上で考えると、ましろのオリジナルMVにおける「僕」と「君」は、ましろが分裂したかのような「僕」と「君」は、まるで「ましろは本当は女の子なのではないか」という周囲の疑念に対する極めて華麗な応答であるように思える。


「僕」と「君」はましろが分裂したかのような姿をしているが、「僕」はましろの男性的イメージを引き受けるかのように少年的男性として描かれ、「君」はましろの女性的イメージを引き受けるかのように少女的女性として描かれている(スカートまで履いている)。
分裂という、普通であれば突拍子もない演出が、しかし奇妙にもしっくりと「ましろの作品」に馴染んでいるのは、このように、元々リスナーの間に存在していた、ましろに対する分裂したジェンダーイメージと見事に重なっているからだろう。
もしましろが極めて男性的な、女性疑惑の出る余地がない、いかにも男らしい男性であったなら、この演出はまったく機能しなかった。


そして繰り返しになるが、分裂した片方はどちらも、ましろ本人ではないのである。ましろは紛れもなく男性であるが、しかし女性疑惑の一切ないましろはましろではないし、女性のましろはもちろんましろではないだろう。
そうではなく、分裂した2つのジェンダーイメージを合わせた総体が、真のましろという存在なのだ。
それが分裂しているのならば、もとに戻すには合体させればいい。
「僕」と「君」は互いにましろとしては欠けている部分があった。だからこそ、それはまるでましろが分裂したかのような姿なのだった。
しかし逆に言えば、「僕」と「君」が合わされば、互いの欠けている部分を補い合えば、今度は二人で一人のましろになるということである。




「僕」と「君」の関係性

オリジナルMVは原曲の歌詞にしたがって進行する。すなわち、「僕」と「君」が死に場所を探す旅に出て、「君」だけが死に、生き残った「僕」が「君」を想うわけだ。


はじめに、「僕」と「君」の関係について考えたい。二人はいったいどのような関係なのだろうか。
同じような意匠の制服を着ていることから、同じ学校に通っているものと思われる。背格好からして、断言はできないが同じ年頃だろう。二人のセリフの口調には、特に上下関係のようなものは見られないから、もしかしたら同学年なのかもしれない。同じクラスメイトなのだろうか。


「殺したのは隣の席の いつも虐めてくるアイツ」と「君」が言うところから、「アイツ」と呼ぶことで「僕」にもそれが誰か検討がつくことを前提に話されているように思える。また「家族もクラスの奴らも何もかも全部捨てて君と二人で」という歌詞の主体は、一人称複数、つまり「僕」と「君」であり、この文章の中では「家族」も「クラスの奴ら」も「僕」と「君」にとって同じものを指しているように読むことができる。このように考えると、少なくとも「僕」と「君」は極めて親しい関係にあることが伺える。それでなくとも、「君」が人を殺したことを告白するのに、親しくない者を選ぶはずがないだろう。


ここには2つの解釈の可能性がある。
クラスメイト説と双子説である。
「アイツ」が誰だか分かるくらいクラスの状況に精通していることからクラスメイトであることが推測できるし、二人の顔がよく似ていることと、唐突に「クラスの奴ら」に加えて「家族」を持ち出すところに、二人でそれらを共有しているような印象がある。また「あの写真も、あの日記も 今となっちゃもういらないさ」の「あの」という部分には、それで伝わるという知識の共有が前提されているようにも思える。


しかし、もし仮に双子だとしたら、果たして「僕」は「君」を「君」と呼ぶだろうか。双子のきょうだいを「君」と呼ぶのは不自然である。あるいは、双子が同じクラスに入ることは学校制度的にあり得るのかだろうか。
後者の疑念はいささかリアリズムに固執しすぎかもしれないが、いずれにせよ、どちらの解釈が正しいのか、答えを出すことは出来ない。


もちろんたとえば、幼い頃に生き別れた双子で、何らかの事情があってお互いに異なる家庭環境で育ったが偶然同じクラスメイトとなった、したがってクラスの事情にも精通しており、親密で、双子であるにも関わらず、「僕」が双子の「君」を「君」と呼ぶ程度の距離感はある、と空想することもできるだろう。
しかしこのような空想は決して確定することは出来ない。あくまでもそのような解釈の可能性があるとしか言えない。


そして、実は物語を理解するにはそれだけで十分なのだ。双子であろうがクラスメイトであろうが、いずれにせよ「僕」と「君」の関係性の質感は、歌詞に込められた心情表現によって、すでに十分に、ありありと理解できるからである。


ただし、ましろがツイッターで誕生日ツイートをした際、「う ま れ た よ」と青黒い人の上半身の影が2つ重なった、あまり馴染みのない絵文字を使っていたことはここで一度思い出しておいてもいいかもしれない。

うまれたよ


まるで双子で、2人でうまれたかのように。
ツイッターも含めたましろの活動には、このように、断言することまではできないが、しかしどうしても何か意味を見出したくなるような一致や符合がたくさん含まれているのである。



「君は何も悪くない」

さて、そのような関係性にある2人は、「遠い遠い誰もいない場所で二人で死のう」と旅に出る。
基本的に、以降は原曲通りにMVも進行する。つまり、旅の途中で「君」だけがナイフで自死し、「僕」は捕まる。途中で挟まれる「僕」の心情についても、あえて考察する余地はないだろう。それは文字通り、そのままの意味である。
この世界に対する不信と絶望と、自らに対する失望と、そして「君」という存在の大きさと。
この力強い曲を聞き、各々がその悲痛さに身を浸せばよい。


それでもあえて考えるべきことがあるとすれば、「君は悪くない」と何度も叫ぶことの意味である。
それは歌詞には書いていない。
歌詞の最後はこのように締められる。

「誰も何も悪くないよ。君は何も悪くはないから もういいよ。投げ出してしまおう。そう言って欲しかったのだろう? なあ?」

「なあ?」という呼びかけには特に注目しておくべきだろう。前段の「君に言いたいことがあるんだ」というところと合わせて考えれば、この歌詞の全体が「君」に対する悲痛なメッセージとなっていることが分かる。まるで鎮魂歌のように。


あるいは、「君」が「そう言ってほしかったのだろう」ことを「僕」が今さら何度も叫ぶことには、「君は何も悪くない」と素直にメッセージを受け取ることもできるし、そう言えなかった自分自身を責めるような響きを聞くこともできる。あるいは、それはあくまでも「君」が言ってほしかったことに過ぎず、実際は「僕」の言いたいこと(言いたかったこと)ではないのだと、ある種の裏読みをすることもできる。
つまり、まるで「僕」こそが投げ出すように、「君は悪くない」と何度も繰り返し言うことで、まるで本当は「君は悪い」と言っているかのようにも読むこともできる。


言葉というのは、まさに繰り返されることでその切実さを増していくが、しかしそのリフレインの中で別の意味の響きを持ってしまうことがある。たとえば皮肉というのはそうした言葉の性質を利用した言語表現であるが、この歌詞の中で何度も何度も繰り返される「君は悪くない」という言葉も、その切実さはそのままに、しかし繰り返されるうちに別の意味の響きをかすかに持ってしまっている。ここには書かれていない何かがある、という感覚が与えられるのである。
この曲を聞き終わったあとの言葉にならない余韻は、このような文学的なテクニックによるものだろう。



「僕」と「君」とましろ

さて、ましろの監修したオリジナルMVにも同じように、歌詞には書かれていないことが実に豊かに盛り込まれている。「僕」と「君」の視覚的イメージもさることながら、曲の終盤においては、原曲の歌詞には一切存在していない要素が多く登場する。


ひとつは、あの夏が終わり、「君」がいなくなった後、「君をずっと探しているんだ」という歌詞とともに、「行方不明」と見出しのある新聞が映るシーン。
もう一つは、「僕」と「君」の正面画が交互に映し出され、「君」の巻いていた赤いマフラーが「僕」の首に移るシーン。
そして最後、地面にスコップが突き刺さっており、その傍らに大きな穴が空いている。そしてスコップから上に画面が移動し、そのスコップの柄を握っている、僕たちのよく知るましろの姿(いつもの紺色の衣装。赤いマフラーに赤いリボン、安全ピン)が現れるシーンである。
これらをどう解釈すべきか。


まずはじめに注目しておきたいのは、最後に僕たちのよく知っているましろの姿がようやく現れるということである。そう、これはましろの歌ってみた動画であるにも関わらず、ましろの姿は最後の最後まで映らないのだ。そしてそれは、逆に言えば、最後に映ることにこそ意味があると考えるべきだろう。


二番目のシーン、赤いマフラーが「君」から「僕」に移動するのが象徴的である。先程述べたように、「僕」と「君」はまるでましろのような顔をしているが、決定的にましろではない。なぜなら、ましろとしては欠けているものがあるからである。そしてそれは、互いに身につけていたものであり、「僕」にとって、「君」が身につけていた赤いマフラーはその一つだった。

女ましろマフラー


その赤いマフラーが「僕」の首に巻かれるということは何を意味するのだろう。

男ましろマフラー


言うまでもなく、「僕」がましろになるということである。


追い詰められた「君」はナイフで自らの首を切った。「君」は「僕」を残して自死してしまった。
この出来事に対する「僕」の心情については語らない。歌詞を聞けば十分に理解できる。そしてその上で「僕」が「君」の遺品を身につけることの意味についても、語るまでもないだろう。その遺品は「君」がこの無価値な世界に生きていたことの証であり、そしてそれを身につけるということは、「僕」は「君」を背負ってこれからを生きていくということである。


こうして、MVの最後にましろの姿が現れることの意味が明らかになる。
「君」の遺品を身につけることで、「僕」はましろになったのだ。「僕」はましろの過去なのである。
「僕」と「君」はましろに似ていて、ましろが分裂したような姿をしていた。しかしそれは認識として間違っている。正しくはこう表現すべきだったのだ。
ましろは「僕」と「君」が合わさったような姿をしている、と。
なぜならましろは、「君」の遺品を身に着けた「僕」だからである。

最後に現れるましろ


あるいは、こう言ってもいいかもしれない。
まるで「僕」に「君」が憑依した姿がましろである、と。
そしてここが、ましろの極めて卓抜したストーリーテリングの真骨頂である。
先程述べた、ましろに対するリスナーの持つジェンダーイメージの分裂と、そして前章の最後に触れた、生きているのか死んでいるのかわからない、死臭を纏う幽霊のようなましろが、紛れもない確固たるましろ自身の物語として、ここに実現するのである。


ましろに対するジェンダーイメージの分裂は、「僕」が女性である「君」を背負っているからだと理解することができるし、「猫の食卓」によって明らかになった死臭の正体、そして作品に作られるVtuberとしての存在の曖昧さ、生きているのか死んでいるのか確定できないような、謎に満ちた幽霊のようなましろの佇まいは、死者である「君」の存在が「僕」に覆いかぶさっているためであると、今では確固たる物語的意味を持って理解できるのである。


「あの夏が飽和する。」は、ましろが実は女性なのではないかという疑念と、ましろは実は幽霊なのではないか、という疑念の両方に、ましろの過去の物語を「僕」と「君」に文字通り分裂させることで応えたのだ。
ましろのストーリーテリングの素晴らしさは、このように自らのVtuberとしての存在の仕方や、リスナーのましろに対するイメージというメタ環境を、自らの物語に実に華麗な形で活用する、極めてアクロバティックな演出法にある。この卓抜したストーリーテリングによって、ましろのVtuberとしてのリアリティは驚くべき質量をもって僕たちの目に映るだろう。
ましろの「あの夏が飽和する。」は、こうして傑作となったのだ。



ましろ≠ましろ説の是非

物語の考察に戻ろう。
一つの解釈として、コメント欄には例えば次のようなものがあった。

お前本当はましろじゃねぇだろ。
彼女の名前を借りてライバーをやればそこに彼女が存在することになる。だけど価値のない家族を表す、名字だけはどうしても使いたくなかった。だから名前だけ。借りている。

この考察を手がかりに、本稿の考察を進めていこう。
死んでしまった彼女=「君」をこの世界に存在させるため、すなわち生き返らせるために彼女の名前を騙りVtuberとして活動している、というのがこの考察の要旨である。つまり、彼女=「君」の死を拒絶するために「君」の名前を騙り、「君」のふりをすることで、「君」が死んだという事実を否定しているのがましろというVtuberである、ということになる。


しかしこの考察に対してはまず第一に、はたしてましろは「君」のふりをしているのだろうか、と問わねばならない。
これについては、ましろは自ら男性であると称していることを思い出すべきだろう。ましろの性自認は男性なのである。
もし仮に本当に「君」のふりをしているのであれば、自分は女性であると称すべきではないだろうか。ましろが男であると自称する以上、「君」のふりをしているはずがない。したがって、あくまでも「僕」が「僕」として在るということが、すなわちましろであるという前提は崩すべきではないと考える。


しかし他方で、まるで憑依するように「君」の存在が大きく「僕」に覆いかぶさっていることも事実である。赤いマフラー、赤いリボンは「君」の物だ。ここでふたたび思い出すべきなのは、しかし安全ピンは紛れもなく「僕」の物であるということである。
つまり、たとえ「君」の存在が「僕」に覆いかぶさろうとも、「僕」の存在は決して失われてはいないということだ。赤いマフラー、赤いリボン、そして安全ピン、これらを同時に身につけているということは、やはり「僕」と「君」の合わさった姿がましろであると考えるべきだろう。
ましろの姿は、「僕」が「君」の名前を騙ってまで「君」のふりをしているにしては、余計なものが多すぎる上に、扮装としていかにも中途半端なのである。


「僕」は「君」として、「君」のふりをして生きているのではなく、あくまでも死んでしまった「君」を背負って、あるいは死んでしまった「君」とともに生きていると考えたほうが自然ではないだろうか。
死んだ「君」と、生きた「僕」で、二人で一人なのである。

では次に、名字に関してどうだろう。
「僕」が「君」の名前を騙ることはないとして、しかし、ましろに名字がないという事実に不穏なものを感じる向きは、「猫の食卓」の時から存在していた。「食卓」とは家庭の象徴だからである。「猫の食卓」の「いない人だらけの食卓で」という歌詞とましろの名字がないことを結びつける考察などがあったが、「あの夏が飽和する。」によって、その説がさらに補強されたように思う。


またこのことは、ましろの小学生の頃に門限がなかったというエピソードとの関連も考えられ非常に興味深い。
そして驚くべきことに、「猫の食卓」の死臭にあぶり出された、ましろの配信における様々なエピソードや事柄は、「あの夏が飽和する。」によって、今度は一貫した物語の中にそれぞれ居場所を得始めたことが分かるだろう。



物語/パズルフレーム

「猫の食卓」の歌詞は極めて抽象性が高く、そこに物語があることは確信できるにも関わらず、具体的にその輪郭を描くことは極めて難しかった。
結局のところ、「猫の食卓」はましろと猫を死のイメージで結びつけ、ましろのVtuberとしての存在感を一変させるような衝撃をもたらし、ましろの物語の存在を強烈に「予感」させはしたが、しかしそれを直接「語る」ことはなかったのである。


したがって、これまでのましろに対する考察にも一貫した物語を持ったものはなく、その多くはましろのVtuberとしての設定についての考察に留まっていた。
それは、ましろがどういう存在なのか、ましろがどういったキャラクターなのかということを、個々のエピソードや「猫の食卓」の歌詞の謎を頼りに考察し、そこに見出された一致や符合から、ましろというVtuberをより豊かに、より正確に知ろうと試みる作業だった。


しかし具体的な物語がないところでのそのような作業は、ある種の手詰まりでもあったのだ。
それはまるで枠=フレームのないパズルを解くようなものであり、謎は無数にあって、その謎を埋めるピースもいくつかは持ってはいるものの、しかしその謎を埋めたときの最終的な輪郭が一切想像つかないというような、そのような手詰まりである。
ピースの組み合わせを試行錯誤して、なんとか絵のようなものが見えてきたとしても、しかしその絵がパズル全体のどこに位置するのかがまったく分からない。


このように「猫の食卓」は、僕たちに実に魅惑的な謎と謎を埋めるピースの数々を与えてくれはしたが、それを適切に配置する指針となるパズルの枠、すなわち物語はくれなかった。
そして「あの夏が飽和する。」こそが、そのような手詰まりを一挙に打開するパズルの枠=フレームなのだ。


こうして物語は与えられた。ましろの物語は、具体的な輪郭を持って今、僕たちの目の前にある。
今後僕たちは、「あの夏が飽和する。」で明かされたこの悲痛な物語を基盤にして、すべての考察を行っていくことになるだろう。




穴とスコップと「君」

オリジナルMVで付け加えられた要素のうちには、いまだに様々な謎が残されている。
「僕」が「君」の赤いマフラーを身に着けていること、そして最後に僕たちのよく知るましろの姿が現れることの意味はすでに理解できた。生きた「僕」が死んだ「君」を背負い、今の僕たちがよく知るましろとなったのである。


では、行方不明の新聞記事に関してはどのように解釈すべきだろうか。
あるいは、地面に突き刺さったスコップと、大きく空いた穴。そしてそもそも、ましろがスコップを持っていることの意味についてはどうだろう。
一つの解釈の可能性として、地面に大きく空いた穴に「君」がいたというのが考えられる。
極めて不穏な解釈であるが、行方不明の新聞記事と地面に刺さったスコップ、大きな穴、これらの要素をすべて繋げることのできる解釈は、私見ではこれだけである。

「僕」は、死んでしまった「君」の遺体を人知れず埋めたのである。
「君」がナイフで首を切り自死した後、「僕」は「君」の遺体をどこかに埋めたのだ。そして「君」の遺品(赤いマフラーと赤いリボン)は埋めずに、自らがそれを身に着けたのである。

穴とスコップ

こうして「僕」はましろとなり、行方不明の新聞記事は、「僕」が「君」の遺体を人知れず埋めたことによって、「君」の死亡が世間には未だに発覚しておらず、行方不明として扱われていることを意味している。

行方不明記事


なぜ人知れずに埋めたのであろう。
理由として考えられるのは、「僕」と「君」だけが共有していた一つの思想、この世界は無価値であるというニヒリズムである。
「君」と「僕」が家族もクラスもすべて捨てて死への旅路に出たのは、「君」が人を殺したことによってこの世界に居場所を完全に失ったのが原因である。そしてその上で、しかしそもそも「結局僕ら誰にも愛されたことなどなかったんだ」ということに二人は気づくのである。この世界は生きるに値しない。だからこそ、自らの足でこの世界から離脱するために旅を始めたのだ。

「君」の遺体を引き渡し、家族の墓に入れるということは、「君」を死後もこの無価値な世界に留めることを意味するだろう。
捨てたはずの家族に引き取られ、丁重に墓まで用意される。そうした形でのこの世界への残留は、きっと「君」の望みではないだろう。
「もうこの世界には価値などない」のだから。
「僕」が「君」を人知れず埋めたのは、「君」の旅を完遂させるためである。
無価値な世界には、「君」の死すら知らせるわけにはいかない。
この世界から完全に離脱するためには、端的に「行方不明」となるしかなったのである。



死にたい「僕」と、生きたいましろ

しかし、最後のサビのあたりの歌詞に次のような節がある。
「気づけば僕は捕まって。君がどこにも見つからなくって。君だけがどこにもいなくって。」
そして、
「僕は今も今でも歌ってる。君をずっと探しているんだ。君に言いたいことがあるんだ。」
この歌詞は、もし仮に「僕」が「君」を埋めたのであれば不自然ではないだろうか。
まるで「君」の居場所を「僕」が知らないかのような言葉である。「僕」が「君」を埋めたのであれば、「君」を探す必要などないはずである。


これを解釈することは難しい。ただ、ひとつの解釈の可能性として考えられるのは、これが文字通りの意味ではないということである。つまり、「僕」は本当に「君」を探しているわけではない。「探す」という動詞は、対象を求めるということである。本当に「君」を探し当てようとしているわけではなく、あくまでも「君」を求めていることの表現だと解釈すれば、一応の筋が通るだろうか。


また、この歌詞の間には次のような歌詞も挟まっている。
「家族もクラスの奴らもいるのに なぜか君だけはどこにもいない。」
この歌詞もよくよく考えれば不自然である。「なぜか君だけはどこにもいない」というが、しかし「なぜか」についてはその前の歌詞で完全に表現されていたはずだ。
「君」が死んだからである。「なぜか」の理由はそれしかない。


このように、もともと「あの夏が飽和する。」の歌詞は、文字通りに読もうとすると不自然な点が多く、文字通りに受け取るのではなく、そこには言外の意味があると考えたほうが理解しやすいことが多い。
「なぜか君だけはどこにもいない」という言葉も、文字通りに受け取るより、むしろ無価値な「家族もクラスの奴らもいるのに」「君」だけがいないことに対する「僕」の怒りの表明だと理解すべきだろう。
「なぜか」というのは百も承知の上で、あえて「なぜか」と言うことで感情を表現しているのである。


このように考えれば、先程の「君がどこにも見つからなくって。君だけがどこにもいなくって。」という言葉も、「君をずっと探しているんだ」という言葉も、「君に言いたいことがあるんだ」という言葉も、あくまでも、この無価値な世界に対する怒りと、そして「君」の旅に途中まで付き添っていながら最後まで同行できなかった自分への怒りと失望、そして、しかしその上で収まることのない「君」を求めてしまう感情の爆発だと理解することができるだろう。


しかしその上で、この曲の終盤の、身を裂くような叫びを聞いて、疑問に思うことがある。
はたしてましろは死にたいのだろうか?
それとも生きたいのだろうか?


「僕」は死にたかったはずなのである。「君」の旅に同行したのはそのためだったはずだ。しかし他方で、この叫びの中には「君」が死んだという事実に対する、言葉にならないほどの痛々しい感情が読み取れる。そして家族やクラスがいるこの無価値な世界に自分だけが生き延びていることに対しても、痛烈な感情を抱えているだろう。ましろの感情は、このように悲痛な矛盾に満ちている。


ましろは死にたいのだろうか。生きたいのだろうか。


最後に指摘しておきたいのは、ましろはこれまでの活動の中で、何度も生への執着を見せているということである。
何度も「死ぬのが一番怖い」と配信の中で語っている。「とにかく長生きしたい」と語ってもいる。話によれば、近くでタバコを吸われると機嫌を損なうらしい。副流煙が体に悪いからである。


それだけではない。前章で、ダークソウルで死んだときの断末魔すら意味深だと冗談のように書いたが、しかしここにきてそれは冗談ではない。その断末魔を僕たちが「おもしろい」と感じるのは、まさしくましろが過剰に生に執着しているからだ。
ましろの配信は、常に生への執着に突き動かされている。
だから死んだときにおもしろい。
ましろは常に長生きしようとしている。
だから死んでしまえば滑稽だ。
生への執着に満ちた命からがらの絶叫は、かようにましろの配信における大きな魅力の一つなのである。


それはもちろん配信を盛り上げるための演出に過ぎないが、しかしだからこそ、そこには裏面として死の気配が漂うことは前章において見てきたとおりだ。
ナンセンスなギャグでしかなかった猫が、いまや不気味な死臭を放っているように。
そして曲終盤の身を裂くような叫びに、相反し矛盾した感情を聞き取るように。


おそらくましろは、生きることにしたのだろう。
理由は今はわからない。彼の抱え込んだ矛盾した感情が、どのように折り合いをつけられたのかもわからない。
ただましろが今、Vtuberとして生きようとしていることは確かな事実である。
ましろは生きることにしたのだ。


(ましろ死論――猫、夏、駅、迪ォ―④へ続く)→

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