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ましろ死論―猫、夏、駅、迪ォ―②

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猫の食卓

あつ森配信はほぼ毎日17時に行われ、4/1に配信された「【あつまれどうぶつの森】血 の イ ー ス タ ー【ましろ/にじさんじ】」の最後に、ましろは「明日はあつ森じゃなくて、もしバイオハザードが発売されてたら、バイオをやる」と予告した。しかしバイオハザード RE:3の発売日は4/3であるため、単純に、ましろの勘違いによって予告は実現せず、代わりにいつも通りあつ森配信があるのかと思いきやそれもなく、もちろん配信中止の告知もなされないまま、丸一日音沙汰のない状態が続く(繰り返すようだが、この程度のことは、ましろの配信活動においてはあまりにありふれている。互いに信用しあわないという、奇妙な信頼関係の元である)。
また一夜明けた4/3午後9時、唐突にツイッターにおいて歌ってみた動画の告知がなされ、4/4午後5時にYoutubeプレミアム公開にて「猫の食卓」が投稿された。

さて、ようやく僕たちは冒頭の問いに戻ってきた。
「猫の食卓」は多くのリスナーに大きな驚きと好意を持って迎えられた。コメント欄は絶賛の声で溢れている。しかしそこにはユニークな点があった。
「猫の食卓」に対して考察を行う人々が多くいた一方、『考察班には悪いけど等の本人は猫が好きだからって理由で歌ってそう』というコメントがあり、これがコメント欄における最多サムズアップを稼いでいるのだった。
僕はこの現象を、「『猫の食卓』では、考察することと考察しないこと、解釈することと解釈しないこと、それ自体が、それぞれメタレベルの解釈として対立を構成している」のだと整理した。
考察や解釈の内容による対立ではなく、考察や解釈の有無そのものが対立しているのだと。
ではなぜ、このような対立が生まれたのだろうか。
これが冒頭の問いだった。
先取りして、この問いに対する答えの一つを簡単に述べよう。
それはすべて猫のせいである。
いったいどういうことか。

「猫の食卓」の歌詞に注目してみよう。
ただ、ここでは歌詞の一つ一つをつぶさに検討していくことはしない。今はまだその時ではない。
僕たちがここで注目すべきなのは、歌詞の持つ全体的な印象である。それを知るには、曲を一聴するだけで足りる。
この曲が、猫を中心に死のイメージに溢れていることが分かるはずだ。そして、それが何らかの物語を暗示していることも。
一部のましろリスナーにとって、このことは革命的な意味を持っていた。いや、むしろまさしく、意味の革命が起きたと言うべきだろうか。
ましろの配信における、猫の持つイメージとその意味合いが、この一曲によって、すべて塗り替わったのである。
厳密に言えば、「塗り替わる」という表現さえ適切ではないかもしれない。
ましろの配信活動において、猫がどのような存在だったのか思い出してみよう。
それは不自然なまでに、徹底して無意味な存在だった。無意味であることによって成立する、ナンセンスなギャグ要素。それが、ましろの配信における猫というものだった。
「猫の食卓」は、まるで空っぽの容器に怒涛の勢いで流れ込む水のように、この無意味な猫に、濃厚な「死」のイメージをなみなみと注ぎ込んだのである。
元の意味が空っぽであればあるだけ、それは劇的な効果をもたらす。
こうして、ましろの配信における猫は、もはや無意味ではなくなった。もちろんナンセンスなギャグでもない。いまや猫は、死のイメージを纏った不気味な存在として、意味深にましろの傍らにおり、彼の配信に実に甘やかな死臭を添えている。
そしてこうなると連鎖的に、この魅惑的な死臭にあぶり出されるように、これまでのましろの配信における様々な事柄が、特別な意味を纏って浮かび上がるだろう。

たとえば、「ボロボロの一軒家に一人で住んでいること」。あつ森配信で何気なく話していた「家にオバケが出る話」、「不思議な物音」、「お風呂に入っていたら誰もいないはずなのにノックされた話」、「自宅の使っていない部屋にある、鍵のついた開かずのタンスの話」
あるいは「初配信で今後やりたいことの一つに『お祓い』を挙げていたこと」や、「ツイッターで唐突に『除霊したい』とツイートしたりすること」。
あるいは「ツイッターのプロフィールの現在地が『きみのうしろ』であること」。
「なぜ一軒家に一人暮らしをしているのかリスナーから聞かれた際に、言葉をつまらせ、その後あからさまにその話題を避けるように『色々あるんだ』と返答したこと」。
「唐突に『ママに会いたい』と呟くこと」。
「子供の頃に門限がなく、小学生の時でも深夜1時などに帰宅していたこと」
あるいはもっと些細なことでもいい。
「とにかく死ぬのが一番怖く、やたらと健康に気を使っていること」や、はたまた「苗字がない」ことまで意味ありげに思えてくる。
なぜこれまで無視できていたのだろう、ましろの配信にはこれだけ死の気配がつきまとっているのに。
誇大妄想癖のある人には、ダークソウルで死んだときの断末魔まで意味深に聞こえるかもしれない。

いずれにせよ「猫の食卓」を聴いてから振り返ると、これまで大した意味を持っていなかったましろの配信における様々な事柄が、死臭に触発されたかのように(猫を触媒とするかのように)まったく新しい意味、イメージ、そして解釈の可能性を獲得していることが分かる。
まるで夜を見通す猫の眼を手に入れたように、ましろの活動のすべてが、これまでとは異なって見える。
そしてそれは同時に、これまでのましろのキャラクター像にヒビが入るのを意味するだろう。
通常、Vtuberによる歌ってみた動画は、歌い手のキャラクター性をより強固にするための材料となるはずである。
しかし、ましろの歌ってみた動画はこれまでに3作投稿されているが、3作のうち、初めに投稿されたこの「猫の食卓」だけはまったく逆の効果をましろにもたらした。
「猫の食卓」による新たな猫のイメージ。死のイメージ。死臭。そしてその魅惑的な死臭に触発されて浮かび上がる、新たな意味を纏ったましろの配信活動における様々な事柄によって、ましろというキャラクターは、むしろ、これまでよりずっと謎めいて見えるようになったのである。

ましろは一体何者なのか。ましろにとって猫とは何なのか。配信で語られた様々なエピソードと曲との関係は。
その背後には、一体どのような物語が横たわっているのか。
これらの謎に惹かれて、多くのリスナーが考察に駆り立てられることとなった。
それもすべては、猫のせいである。


解答の半分

しかし、このように考察に駆り立てられるのは、ましろの配信を、そのデビューの頃から熱心に追ってきた人だけだろう。
そもそも、ましろの配信における当初の猫のイメージを知らなかった人々、また、ましろの配信で明かされた様々なエピソードを知らない人々にとっては、「猫の食卓」はそれほど大きな意味を持たない。彼らはそこに甘い死臭などは嗅ぎ取らず、ただ単に「ホラーが趣味の猫好きVtuberが不気味な猫の歌を歌った」という事実があるのみである。
というわけで、冒頭の問いは一応の決着を見たように思われる。
つまり、「考察や解釈の内容による対立ではなく、考察や解釈の有無そのものが対立しているのはなぜか」、という問いには、「リスナー個々人によってましろに対する基礎知識の量が異なるから」、という答えが与えられたわけだ。

しかし本当にそうだろうか?
この答えはこれで十全だろうか?
もちろん十全ではない。この解答には大きな欠点がある。
ましろをデビュー時から熱心に追いかけてきてなお、考察に駆り立てられない人々の存在を無視しているからである。
『考察班には悪いけど等の本人は猫が好きだからって理由で歌ってそう』というコメントは、動画における最多サムズアップを稼いでいるのだ。
そのサムズアップの中には、デビュー時からましろをずっと見てきた熱心なファンも含まれているはずである。
なぜ彼らは考察に駆り立てられないのか、それを考えなければ、冒頭の問いに答えたことにはならないだろう。(注4)

もう一度『考察班には悪いけど等の本人は猫が好きだからって理由で歌ってそう』というコメントに注目しよう。僕たちは今では、この文字列からまた別の事実を見出すことができる。
それは、このコメントに同意する人々にとって、「猫の食卓」を聴いた後でさえ、ましろのキャラクター像はほとんど変化していないということである。むしろ「やっぱり猫が好きなんだ」という既存イメージの反復、また「ましろはそんなに難しいこと考えないでトボけてそう」という既存イメージの強化さえ読み取れる。
考察勢が軒並み既存のましろ像にヒビが入るのを目の当たりにし、そのヒビの形に込められた魅惑的な謎を懸命に解き明かそうとしているのに対して、彼らはむしろ、ただ純粋に既存のましろ像の強化を楽しんでいるのだ。
このような対立、いや、分裂の原因の一つ、少なくともその半分は、先程答えたように「ましろについての基礎知識量が異なるため」であるが、もう一つの原因は、ましろのVtuberとしての存在様態に変化が生じたためである。
Vtuberとしての存在様態とは何か。そしてその変化とはどういうことか。
実はこれこそが、冒頭で述べた「解釈や考察の有無が、メタレベルの解釈として対立を構成している」ことの、まさしく「メタレベルの解釈」に他ならない。

(注4)もっとも、考察勢も既存のましろ像の強化をしていないわけではもちろんない。「やっぱり猫が好きなんだ」と誰もが思うであろう。問題は「猫の食卓」がましろにとってあまりにも似合いすぎていることである。そして重要なのは、その過剰な一致と符合に新たな物語と謎を見出すのか、あるいは、それを単に似合っていることとして純粋に楽しむかの違いである。



Vtuberの存在論 

そもそもVtuberにとって、歌ってみた動画とは何だろうか。それは単純に、作品である、と言うのが最も簡潔な答えだろう。
Vtuberの投稿した歌ってみた動画は、Vtuberの作品である。
これは一見、あまりにも当たり前のことを言っているように見えるが、しかしこの文章には実は、大きな捻じれがある。
というのも、僕たちはVtuberを見るとき、Vtuber自体を一つの作品(注5)として体験しているからである。このことは直感的に理解できるはずだ。Vtuber文化における主役は、彼らがプレイするゲームでも歌う曲でもなく、彼ら自身である。彼ら自身が作品のはずであり、僕たちはそのようなものとして、Vtuber文化を享受しているはずである。
しかし、そうすると「Vtuberの投稿した歌ってみた動画は、Vtuberの作品である」という文章は、作品が作品を作っているという、奇妙な入れ子構造を抱えてしまうこととなる。先述した大きな捻じれとは、この入れ子構造のことである。
なぜこのような捻じれが生じるのか。
作品が作品を作るとは一体どういうことなのだろうか。
そこには作者という概念の消息が大きく関わっている。
そしてそれはVtuber文化にとっての最大の禁忌に触れており、まただからこそ、Vtuberの存在の核を説明する大きな鍵となるだろう。

――Vtuberとは魂を生贄に捧げることで召喚される仮想的作者である。

Vtuber文化にとっての最大の禁忌とは何だろうか。それは魂、中の人、あるいは前世の話題である(注6)
ではなぜ魂についての話題は禁忌なのだろうか。それを禁忌とすることで、僕たちは何を守りたいのだろうか。
僕たちはVtuberの自立性を守りたいのである。魂や中の人についての話題は、Vtuberの自立性を奪うのだ。
そしてここでは自立性とは、作者性とも言い換えられる。
いったいどういうことか。
先程言ったように、僕たちはVtuberを一つの作品として体験し、享受している。しかしだとするならば、そこには必ず作者がいるはずである。歌ってみた動画の作者にVtuberがいるように、Vtuberにも作者がいるはずだ。
この作者とはいったい誰だろう?
Vtuber自身だろうか?
その通り。僕たちはそのように考えるようVtuber文化の中で訓練されているし、そう認識することをマナーだと考えている。しかし同時に、現実的な観点からそれは錯覚に過ぎないことも十分に認識しているはずである。現実には、Vtuberには魂と呼ばれる作者がいて、彼/彼女がVtuberとして作品を投稿しているに過ぎない。そして、その事実はVtuberの自立性を脅かす。なぜなら、そのときVtuberの作者性が魂によって奪われるからである。Vtuberの作者が魂であるならば、Vtuberの作品である数々の動画もまた魂/中の人の作品である。こうして、作者性を奪われたVtuberは、存在自体が無意義なものとなり、その自立性までも失うのである。
これが魂の話題が禁忌である理由である。
VtuberがVtuberとして確固たる自立性を持って存在するためには、僕たちは魂/中の人/前世を徹底して黙殺しなければならないのだ(注7)
魂(本来の作者)を徹底的に抑圧/黙殺することで、投稿作品から事後的/遡行的/仮想的にVtuberが作者として生成される。
VtuberのVirtual(仮想的)たる所以はまさにここにある。
こうして僕たちは魂を黙殺し、これを生贄に捧げることで、仮想的作者たるVtuberを召喚/生成するのだ。
Vtuberは投稿作品を梃子に自らの作者性を仮想的に生成/強化する。確固たる作者としてふたたび作品を作り、作られた作品からふたたびVtuberの仮想的作者性/自立性が備給される。
「作品が作品を作る」という入れ子構造は、作者が作品を作り、そして作品がまた作者を作るという不断の循環構造を意味しているのである。
この循環構造を極限まで純粋に機能させるならば(もちろんそんなことは不可能であるが)、そこには作品と作者のヒエラルキーはまったく存在しなくなるだろう。作品こそが作者であり、作者こそが作品であり、そしてそのまた逆も然り。

――Vtuberには2つのタイプがある。作品を作るVtuberと、作品に作られるVtuberである。

しかしこのVtuberの存在を支える循環構造における作品性と作者性の濃度比率は、個々のVtuberによって異なり、Vtuberの存在様態をおおまかに2つのタイプに分けている。作品を作るVtuberか、あるいは作品に作られるVtuberか。
2つの境界にはグラデーションがあり、完全にどちらかであることは現実的に不可能だが、しかし個々のVtuberにはそれぞれ特有の偏りがあるはずであり、それがVtuberの存在様態の2つのタイプとなっている。
作品を作るVtuberと、作品に作られるVtuber。
大半のVtuberは前者である。彼らは確固たる一人の仮想的な作者として作品を作る。作者―作品のヒエラルキーを維持し、作品から作者へのイメージの還流は比較的抑えめである。たとえば彼らが投稿した歌ってみた動画は、その解釈はそのまま作者の趣向へと還元されがちだろう。たとえば「猫が好きだから」この曲を歌ったのだ、と。したがって、歌ってみた動画の内容に影響されて、その歌い手像が大きく変容することもない。
一方、後者には考察を要するVtuberが多い。
彼らは作品から還流するイメージによって、その都度Vtuberとしての自分―作者を生成し、変容させる。作者として作品を作るよりも、作者像が作品によって作られている傾向が強い。したがって作者―作品のヒエラルキーが曖昧であるのも特徴である。リスナーは、作者を通して作品に触れるのではなく、作品を通して作者を個々に生成するのである。すなわちこの作業が、いわゆる考察や解釈と言われているものである。
このタイプの最も極端な例として、鳩羽つぐが挙げられるだろう。鳩羽つぐは作者性が極めて薄弱である。初投稿動画からあった「誘拐監禁されているのではないか」という考察の流行は、そのことを見事に裏付けている。監禁されているということは、そこでは鳩羽つぐは投稿作品に対する作者ではなく、ただ映像に記録される受動的存在に過ぎないことを意味する。そしてその映像記録(作品)からイメージが還流し、鳩羽つぐなるVtuberが、その都度仮想的にリスナーの中で生成されるのだ。彼女は作品に作られるVtuberの、その最も極端な例である。

ましろは最初は前者のタイプだったが、「猫の食卓」投稿によって、後者の存在様態に大きく変化しつつある。「猫の食卓」によってましろはこれまでよりむしろずっと謎めいた存在となった、と書いたが、それはこの変化が原因である。作品から還流したイメージによって、それまでの確固たる作者性がゆらぎ、再編成されたのは先程見てきたとおりである。そしてそれはVtuberとしての存在の仕方に関わる根本的な変化だった。
これこそが、冒頭から繰り返し述べてきた「メタレベルの解釈の対立」の正体である。ましろについての解釈の内容による対立ではなく、そもそもましろがどういうタイプのVtuberなのか、という根本的な解釈がそこでは対立していた。もちろんこのメタレベルの解釈は、多くの人が自ら意識するところのものではない。しかし確かに、無自覚な区別として認識しているはずなのだ。
たとえばキズナアイ(注8)と鳩羽つぐが、同じVtuberにも関わらず根本的にその存在の仕方を異にすることは、わざわざ言葉にするまでもなく、誰にでもすぐに理解されるだろう。これはそのような位相における対立なのである。
ましろを熱心に追いかけていながら考察に駆り立てられない人々は、ましろに猫の死臭とそれを触媒にした新たな解釈の可能性をたとえ認めていたとしても、ましろの存在様態の変化というメタレベルの解釈においては、依然としてまったく逆の立場に立っていたということである。

(注5)3/15の雑談配信において、ましろが、自分には完璧主義なところがあり、ツイッターのツイートひとつひとつも作品の一部だと考えている、と述べているのは実に示唆的である。

(注6)もちろんこれには多くの例外が存在する。直近の例で言えば、例えば伊東ライフなどはむしろ前世や魂の存在感こそがVtuberとしての目玉となっている。また、ましろの所属するにじさんじにおいても月ノ美兎などは、魂の存在をむしろ逆手に取り、本来期待されるはずのロールプレイとの如何ともし難いズレを魅力としてアピールするVtuberとして、まさしくその嚆矢であり、代表的存在ともなっている。しかし依然として多くのVtuberは魂を隠しているし、魂についての話をしないことはVtuberコミュニティにおいて極めて常識的なマナーである。

(注7)この魂の黙殺は、フランスの批評家ロラン・バルトが言う「作者の死」と重なる部分が多い。魂の黙殺をマナーとするVtuber文化は、ある種極めてテクスト論的である。テクストとしてのVtuberは、今後考えてゆくべき重要テーマだろう。

(注8)ここでキズナアイの名前を挙げることを訝しむ向きがあるかもしれない。しかし私見では、彼女は「作品を作るVtuber」としてその最も極端な例であり、最近のキズナアイ分裂騒動などはまさしくそのラディカルさが原因であると考えている。このことは稿を改めて考えてみたい。


まとめ

かなり大風呂敷で混雑した議論となってしまったが、以上をもって冒頭の問いに解答できたと思う。
最後に例として鳩羽つぐを出したが、しかし作品に作られるVtuberというのは、どうしてこうも不穏な空気を纏っているのだろうか。彼ら/彼女らに共通するのは、その存在が構造上の必然として、必ず何らかの謎を抱えていることだ。ミステリアスなのである。存在として非常に曖昧で、生きているのか死んでいるのかさえ疑わしくなってくる。鳩羽つぐにそれは最も顕著だが、ましろも「猫の食卓」によってそのような存在になりつつある。
まるで幽霊である。
しかし幽霊のようなものだとしたら、なるほど考察勢と考察を茶化す人々の対立は、幽霊が見えると言い張る人々とそれを笑う人々の対立に似ている。見えない人にとって、見える人が滑稽に映るのは当然である。
しかし改めて強調しておきたいのは、ここで「幽霊なんていない」と笑うのは、「Vtuberって所詮フィクションでしょ」と笑うのとまったく同じであるということだ。
あるいは「ましろはそんなことまで考えてないでしょ」と笑うのは、「ましろにも中の人がいてだね」とほくそ笑むのに等しい。
なぜなら、そもそもVtuberの存在は、これまでに確認してきたように、リスナーの錯覚の集積によってその自立性を担保されているからである。
魂を黙殺し、仮想的作者としてVtuberを生成すること。それはもう少し平たく言えば、積極的に勘違いし、錯覚することによって本来存在しないはずのものを幻視する営みにほかならない。Virtual(仮想的)とはつまりそういうことで、枯尾花を積極的に幽霊と見間違えていくわけだ。
そして作品を作るVtuberと作品に作られるVtuberの違いは、その後にこの錯覚をより強固に維持していくことに努めるか、あるいはそのまま積極的にさらなる錯覚と遊んでいくかの違いと言えるだろう。
ましろは後者になりつつある。
したがって「ましろがそんなことまで考えていな」くてもまったく構わないのである。
結局のところ、ましろという存在はそもそも僕たちの錯覚の集積なのだから。
僕たちはただ、その錯覚を積極的に楽しめばいい。
それは裏返せば、解釈や考察に正否はないということである。
正しい解釈や、正しい考察などは存在しない。あるのは面白い解釈と退屈な解釈。そして面白い考察と退屈な考察だけである。
反感を買うことを承知で言えば、Vtuberコミュニティのマナーには反するが、ましろ本人の意に反する解釈さえ、そこでは原理的には許されるだろう。

ところで、「猫の食卓」において最多サムズアップを稼いでいるコメントは『考察班には悪いけど等の本人は猫が好きだからって理由で歌ってそう』であるが、最後に、二番目に多くのサムズアップ(2020/09/13現在1791個)を稼いだコメントも、投稿者の名前を伏せて紹介しよう。

歌い出し「いない」⇔概要欄「いるよ」
歌詞「集団下校」「子供たち」⇔人はましろしか描かれていない
絵が白髪⇔ましろは黒髪
てことは
口を開けて何か話している⇔何も話せない
猫に触れている⇔猫に触れることが出来ない
……ましろ幽霊説?
だとしたらましろ宅の開かないタンスに入ってるのはましろの


生きているのか死んでいるのか分からない、まるで幽霊のようなましろは、そして続く「あの夏が飽和する。」と「」において、極めて悲痛な、そして恐ろしく美しい、まことに驚くべき形で実現するのである。


(ましろ死論――猫、夏、駅、迪ォ―③へ続く)

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