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ましろ死論―猫、夏、駅、迪ォ―④


←(前 ましろ死論―猫、夏、駅、迪ォ―③)




「あの夏が飽和する。」以降/「」投稿までの動き

「あの夏が飽和する。」が7/18に投稿されてから一週間、ましろの活動はふたたび沈黙する。
一週間後に行われた7/25の雑談配信「」において、「歌ってみたの評判が良かったので、じゃあまた一週間くらいサボってもいいかなって。つまりサボってたのはきみたちのせい」(意訳)と釈明したことについては本エッセイの「はじめに」で紹介した。
そしてふたたびましろの活動は沈黙し、11日ぶりに唐突に行われた8/5の雑談配信「」の最後には、「近いうちに動画があがります」と予告があった。
予告通り2日後の8/7にツイッターにて新作歌ってみた動画の告知があり、同日18時に歌ってみた動画「」が投稿されるのであるが、ところで、ましろの雑談配信が「」と無題だったことに注目してみよう。

ましろの雑談配信はこれまでに8回(初配信、収益化記念配信、誕生日記念配信を除く)行われているが、そのうちタイトルがついていたのは3回のみで、残りの5回は「」と無題で行われていた。ましろの雑談配信は基本的に「」と無題で行われるのが恒例なのである。
実際、歌ってみた動画「」のコメント欄には、「雑談かと思ったら歌ってみただった」という反応がいくつか見受けられる。
この事実を、新作歌ってみた動画「」の伏線として見るのは考えすぎだろうか。
少なくとも、先述した「あの夏が飽和する。」投稿後に行われた2回の雑談配信が「」と無題だったことに、何らかの含みがあることは間違いないだろう。この2回の雑談配信の時点で歌ってみた動画「」の投稿がすでに計画されていたのは確実だからである。

また、加えて注目したいのはその配信画面である。
ましろの雑談配信は、いつも荒廃した場所で行われる。
青光りするキノコの生えた鬱蒼とした森や、崩壊しかかった廃墟などが恒例であるが、「あの夏が飽和する。」投稿後の2回の雑談配信では、それぞれ、濃霧の中で鉄フェンスに囲まれた薄暗い白い建物や、雨のしずくの垂れるガラス越しのましろの顔(場所不明)だったりする。
ましろの「あの夏が飽和する。」を聴いて以降、これらの荒廃した配信画面は、もしかしたら「僕」と「君」の逃避行のロケーションかもしれないと思うのは考えすぎだろうか。
あの鬱蒼とした森のどこかに「君」が埋まっていたとしたら?

もちろん、これは空想の域を出ない考察だ。
ただし、歌ってみた動画「」が出る直前8/5の雑談配信の画面、雨のしずくの垂れるガラス越しのましろの顔(場所不明)は、間違いなく「」という曲への伏線として企まれたものだと、確信を持って言うことができる。

「」前日雑談水滴


「あの夏が飽和する。」が蝉の声によって始まるように、
「」は雨音によって始まるからだ。
あの蝉の鳴き声を例の森の環境音と考えるのは深読みかもしれないが、「」の雨音は、その直後に続く踏切の警告音と、映像の終盤に施された水滴エフェクトの類似性を見れば、2日前の雑談配信の画面が伏線としてあったことは一目瞭然だろう。

「」水滴画面


さて、8/7の告知ツイートは2つある。
はじめの一つはシンプルに「8月7日18時 歌です」と動画へのリンクが張ってあるのみである。
もうひとつは「縺翫?縺代?縺薙o縺?¢繧後←縺?■縺ォ縺ッ縺薙¢縺」と動画リンク、そして「迪ォ」とある。

「」ツイート1

後者のツイートの文字化け文章は、解読すると「おばけはこわいけれどうちにはこけが」となる。
「オバケは怖いけれど、うちには」までは理解できるだろう。「こけが」の部分は理解不能だが、なんらかの言葉が続いていたことはわかる。
「迪ォ」は「猫」の文字化けである。
むりやり繋げると、以下のようになる。
「オバケは怖いけれど、うちには、(こけが)、猫」
そして実は、前日の8/6に、ましろはこんなツイートをしていた。
「家にお化け出た。こわい。」と。

「」ツイート2


このツイートを前提に翌日の文字化け文章を読むと、
「家にオバケが出て怖いけれど、うちには猫が」と、なんとなく意味が理解できるだろうか。
それにしても、オバケとは一体なんだろう。唐突に猫が出てくることも意味深である。
ましろにとって、猫といえば「猫の食卓」である。そして、猫は初配信のときからましろの傍らにいた、不気味な死臭を放つ重要なモチーフでもある。
また、「あの夏が飽和する。」には猫が一切出てこなかったことも思い出しておくべきだろう。
オバケといえば幽霊のようなものを想像するが、「あの夏が飽和する。」で「君」の死という具体的な出来事をすでに知っている僕たちにとっては、とりわけ意味深に聞こえるだろう。そもそもましろ自身が、死者の遺品を身につけることで、生と死の間をふらつく幽霊のような存在であることも、前章で見てきたとおりだ。
オバケと猫は、それぞれ「あの夏が飽和する。」と「猫の食卓」を連想させる。
ということは、今作の「」は2つの曲を繋ぐような作品なのだろうか。
実は7/25の雑談配信において、まさしくましろは次のようなことを述べていた。
「考察については、自分の中にきちんと、これがああなってこうなる、という流れがあって、それにしたがって歌ってる。『猫の食卓』も『あの夏が飽和する。』も。次に歌うのも、一応自分の中では繋がりがあって歌ってる」


このように、歌ってみた動画「」が投稿されるまでには、これまで以上にさまざまな仕掛けが施されており、加えてましろによる証言のようなものもあったことから、今作に対するリスナーたちの期待は非常に大きかった。
そのため8/7の18時にYoutubeプレミアム公開で公開されるまで、動画のコメント欄やチャット欄ではこれまで以上に恒例の考察が熱心に行われると思われたが、しかし今作がこれまでと大きく異なっていたのは、何が歌われるのか、そうそうに多くのリスナーが的中させたことである。
「あの夏が飽和する。」がプレミアム公開されるまでは「3b85fae7-5b2f-4865-a12b-c1a80f9bf879」と仮タイトルが付けられていたように、当初、この「」というタイトルも仮のものだと思われていたのだ。
また先に述べたように、ましろが雑談配信で「」というタイトルを多用していたことも、多くの人が誤解した原因である。
公開前のチャット欄では、何が歌われるのかサムネイルから判断しようと多くのリスナーが考察していたが、実際には「」がそのまま曲のタイトルなのだった。
騙すための仕掛けを作るましろと、懸命に考察をするリスナーと、そして的中させるリスナーと。
これ自体がひとつのエンターテインメントのようで、プレミアム公開前のコメント欄やチャット欄は大いに盛り上がったのだった。



「」

ましろの歌ってみた動画「」について語ることは難しい。
前作「あの夏が飽和する。」を語ることも難しかったが、前作を語ることの困難は、原曲がすでに強固なストーリーを持っていたために、ましろの物語との混線や衝突を余儀なくされるためだった。そこで僕たちはあえて「あの夏が飽和する。」の原曲を一切黙殺し、その曲をカンザキイオリの作品ではなく、一つのましろの映像作品としてのみ解釈することで、その困難を克服したのだった。
今作「」について語ることが困難なのは、「あの夏が飽和する。」のように原曲「」がすでに強固なストーリーを持っているためではない。
むしろその逆である。
そこには、オリジナルの物語と言えるようなものはもはやほとんど存在しないが、しかしだからこそ、代わりに複数の文脈がそこで交差することで、ある種の多層的な物語性を演出しているのだ。
「」の原曲自体が、そもそもきさらぎ駅という都市伝説のn次創作として存在するということ。そしてまた、原曲「」が都市伝説としてのきさらぎ駅とはまた別個のインターネット・ミームとして固有の文脈を持ち、TheCultと呼ばれる独自のコミュニティを築いているということ。そしてその上に重なるようにして、ようやく「あの夏が飽和する。」と地続きのましろの物語が原曲「」の二次創作としてあり、この原曲「」がきさらぎ駅のn次創作である以上、したがってましろの歌ってみた動画「」もまた同時にきさらぎ駅の都市伝説のn次創作としてその系譜に存在し、さらに同時に原曲「」の系譜にもまた連なるものとしてそのコミュニティに受容されているのだ。

わけがわからないだろう。

ひとまずここでは、ましろの歌ってみた動画「」は複数の文脈が重なり合ったややこしい作品だと認識しておけば十分だろう。
その複数の文脈は、大きく分けて3つある。
ひとつはもちろん、「あの夏が飽和する。」から地続きのましろの物語。
もう一つは、きさらぎ駅という都市伝説。
そして、原曲「」を中心に無題動画に集うTheCultと呼ばれるコミュニティについて。

先取りして述べておけば、このような複数の文脈でましろの作品が(つまりはましろ自身が)受容されるということ、それ自体が、ましろの物語のひとつの出来事として興味深いのだ。
まるでましろ自身が都市伝説化しているようで。

まずはじめに、ましろの物語から見ていこう。



続編としての「」

ましろの歌ってみた動画「」にも、前回の「あの夏が飽和する。」と同様にオリジナルMVがある。
ただ、前回よりは映像の情報量は多くはない。
基本的に、夜の駅のホームにスコップを持ったましろがいる一枚絵のうえに、曲に合わせて歌詞を映し、様々なエフェクトや画面効果で演出するという、いたってシンプルなものだ。
そもそも「あの夏が飽和する。」と比べて歌詞に物語性が薄いことがそのシンプルさの理由の一つだが、もっとも大きな理由としては、そもそもオリジナルMVといいつつも、実はこのMVの形式自体が原曲「」のオマージュとしてあるからである。
原曲「」のMVも、夜の駅のホームに少女がいて、曲に合わせて歌詞が映り、様々なエフェクトや画面効果で雰囲気豊かに演出されている。
「あの夏が飽和する。」は完全にましろオリジナルのMVであったが、歌ってみた動画「」はMVからして原曲のオマージュなのである。

さて、しかしオマージュであるということは、ましろオリジナルの演出も当然存在するわけで、原曲との差異を一つ一つ見ていけば、この歌ってみた動画に込められたましろオリジナルの物語も明らかになるだろう。

まず原曲の歌詞を確認し、この曲が本来持っているコンセプトと歌詞を確認していこう。
さきほど述べたように、原曲MVも、駅のホームに少女がいる一枚絵に歌詞とエフェクトや画面効果を重ねた演出となっている。
この駅は何なのか。そして少女は誰なのか。
この駅はきさらぎ駅という。
原曲MVの中には駅名を記す表札が映されており、「縺阪繧」と書かれている。文字化けを直すと、これは「きさらぎ」と読める。
きさらぎ駅は、ネット上に流布している都市伝説である。
以下で簡単に説明しよう。



きさらぎ駅とは

きさらぎ駅という都市伝説がある。
2004年に2ちゃんねるオカルト板の「身のまわりで変なことが起こったら実況するスレ26」にて「はすみ」という人物が投稿した実況形式の体験談が元になっている。
以下、Wikipediaを引用しよう。

新浜松駅から乗車した遠州鉄道の電車がいつもと違いなかなか停車する様子がなく、ようやく停車した駅が「きさらぎ駅」という名称の見知らぬ無人駅だったというものであった。以後翌日未明にかけて、投稿者「はすみ」とスレッド参加者との応答がリアルタイムで進行した。
投稿された相談内容によると、周囲は人家などが何もない山間の草原で、直前には実在しない「伊佐貫」と言う名称のトンネルを通ったと語っている。その後、不意に降り立った駅の周辺では奇妙な出来事が次々に起こり、携帯電話で助けを求めてもまったく取り合ってもらえなかったという。
途方にくれていたところに、たまたま通りかかった車に乗せてもらった車中でスレッドへの書き込みが途絶え、以後の消息が絶たれたことになっている。(wikipediaより)

以上がオリジナルのきさらぎ駅の概要である。
オリジナルと言ったのは、このきさらぎ駅が2ちゃんねるのスレに投稿された単なる一つの怪談話から、様々なネットコミュニティを伝播していく過程でインターネット・ミームとなり、類似した体験談や報告、二次創作が投稿されることで、多様なバリエーションを持った都市伝説と化したからである。
さらにその広がりは今では都市伝説の枠を超えて、ゲームや小説、音楽などに主要なモチーフとして登場するなど、一つのジャンルを形成するにまで至っている。
「」はきさらぎ駅をモチーフとした曲であり、このジャンルの系譜に連なる作品と言えるだろう。
そして当然ましろの歌ってみた動画「」もまたこの系譜に連なっており、きさらぎ駅の都市伝説を構成する一つの新たなバリエーションとして解釈しうる。これについては後ほど詳しく触れるだろう。

いずれにせよここでは、「知らぬ合間に迷い込んでしまい、一度迷い込めば帰ることのできない、異界としての不気味な駅」と理解しておけば十分である。



原曲「」

さて、きさらぎ駅についての概要を知った上で、駅名表札の「縺阪繧」を「きさらぎ」と読めてしまえば、この曲の歌詞とMVの意味も理解しやすくなるはずである。
この駅はきさらぎ駅で、そこにいる少女はこの駅に迷い込んだのだ。

歌詞は、駅にいるこの少女のモノローグとして読めるだろう。

「あの日から停まるんだ 今日もこの場所」
「今日も雨」

繰り返される「今日も」という歌詞に注目しよう。雨の降る駅に、何日も少女が閉じ込められている様子が伺える。
「誰も見えやしない」し、「誰も追えやしない」無人の駅で、少女が雨に打たれて佇んでいる。

実は、前半のサビと後半のサビは同じように見えて、細部で対比を成している。
「誰も見えやしない 誰も追えやしない」までは共通だが、続く歌詞が異なる。
前半のサビでは「線路を超え まだ見えぬように」と続き、「目を伏せた 今日も雨」
後半のサビでは「駅を超え また見えるようにと」と続き、「目を伏せた 今日も雨」
これはどう理解すべきだろうか。
非常に難しいが、もうひとつの対比にヒントがあるかもしれない。

歌詞の対比は実はもう一つあるのである。
「今日も」という歌詞と「今日は」という歌詞である。
さきほど見てきたように、「今日も雨」ということで少女が駅に何日も囚われていることが推測されるのだが、一度だけ「今日は」という歌詞が使われている箇所がある。
曲の冒頭である。

「切れる踏切と 曲がるはずの夜汽車と
聞ける筈ない空の音楽 ゆらり文字も踊りだす駅から
今日は人が出てきた」

この「今日は」は重要であろう。
「今日も」」「誰も見えやしない」し「誰も追えやしない」はずの駅から、しかし「今日は人が出てきた」のである。

そしてこの冒頭の歌詞は、おそらく曲の最後、ラスサビのリフレインと対応している。

「誰も見えやしない 私は何処へ消えたのか
あなたが来ないように 強く止めたはずだったの」

曲の最後になって、唐突に「あなた」という言葉が出てくる。おそらく「あなた」とは冒頭に出てきた「人」であろう。
この曲には「私」のモノローグのみだと思いきや、「あなた」がいたわけだ。そして実は、二人の人物を象徴するかのように、歌詞が2つのパートに分かれる部分がある。
前半のサビが終わって、間奏が終わった直後である。
2つに分裂したパートの歌詞は、さきほどの対比と同様に、文章の構造を同じくしながら、細部において異なっている。
たとえば、
「明日に消えてく」と「明日は来ない」
「そっぽ向いて」「こっち向いて」
あからさまな対比がそこにはある。
そして分裂したパートはふたたび統合され、
「本当は迎えがほしいの」「あのねそれじゃおやすみ」
と、まるで「私」が「あなた」に言っているかのようなフレーズが挿入されるのだ。
もちろん「本当は迎えがほしいの」という言葉は、曲の最後「強く止めたはずだったの」という言葉とつながるものだろう。

以上のことから、駅に「私」が迷い込んだこと。そしてその駅から出られず、同じ日々を繰り返していたこと。しかしある日、駅から人が出てきた。それは「強く止めたはず」の「あなた」だった。「あなた」が「私」を迎えに来たのだった、と理解することができるだろう。
そしてこのように考えれば、
「線路を超え まだ見えぬようにと」と「駅を超え また見えるようにと」の対比は、もしかしたら「あなた」が迎えに来る前と来た後の差異なのではないかと推測できるだろう。それが具体的に何を意味するかは不明であるが、なにか大きな変化がそこにはあることが推測されるのだ。

ところで、この少女はそもそも一体誰なのだろう。
この少女の絵は、原曲「」の作曲者兼歌い手のx0o0x_氏のアバターである。
氏の投稿作品のほぼすべてに、この少女が登場している。
ひとまずこの曲のコンセプトを簡単にまとめるならば、「きさらぎ駅という都市伝説に遭遇した少女の歌」をx0o0x_氏が自分のアバターに置き換えて歌った、ということになるだろうか。
後で詳しく触れるだろうが、x0o0x_氏は後にふたたび都市伝説をモチーフにした曲を作っている。そしてそこでも、自身のアバターをMVに登場させ、自ら歌唱している。


ましろの物語

さて、以上が原曲のコンセプトと歌詞の考察である。
以上を踏まえて、ましろの歌ってみた動画「」を考察してみよう。
繰り返しになるが、ましろのオリジナルMVは原曲MVのオマージュとして作られているのだ。
原曲との差異を見ていけば、ましろの物語も明らかになるだろう。
とはいえ、大きな差異は一つしかない。
無論、原曲ではx0o0x_氏だった少女が、ましろに置き換わっているということである。つまり、歌詞における「私」を「ましろ」として読めばいいというわけだ。
しかしそうすると、一つの疑問が生じる。
「私」がましろであるのはいいとして、では「あなた」は誰なのか、という疑問だ。
これについては、そのまま不明であるとしてもよい。原曲においても詳しく語られていないし、「あの夏が飽和する。」の続編に、また「あなた」という新たな登場人物と、それに伴う新たな謎が出てきたと解釈すればいい話である。
しかし他方で、この疑問を綺麗に解消する解釈も存在している。
それを紹介しよう。

まず注目すべきは、前半のサビが終わった後、歌詞が2つのパートに分かれる部分である。
実はましろはここで、明らかに声色を左右それぞれ変えている。
片方ではそれまでと同じ声色で、しかしもう片方では、やや喉を絞ってピッチを低くしているのだ。
このような歌い分けは原曲には存在しない。ましろオリジナルの演出である。
なぜこのような歌い分けをしたのか。
さきほど見てきたように、この歌い分けは「私」と「あなた」という2人の人物に対応しているのだ。
つまりここでましろは、片方でそれまでと同じ声色で「私」として歌いながら、もう一方では「あなた」として歌っている。
原曲にはないこの演出により、ましろはそこに声色の変化を付け足すことで、その対比を原曲よりも強く強調しているのだと理解できるだろう。
そして、このように理解すれば、「あなた」の正体を推測することはもはや簡単である。
喉を絞ってピッチを低くしているのは、男性性(少年性)の強調だろう。声色の変化は、「あの夏が飽和する。」のジェンダーイメージの分裂と対応している。
ピッチを低くし、男性性(少年性)を強調して歌っている「あなた」は、前作「あの夏が飽和する。」にて登場した「僕」である。

こうして、次のような物語が導き出せる。
前作「あの夏が飽和する。」に登場した「君」がこの曲における「私」である。そして「あなた」は「僕」である。
前作においてナイフで自死した「君」はその死後きさらぎ駅に囚われていたが、そこへある日、「来ないように」と「強く止めたはず」の「僕」が迎えに来たのだと。

「私」が前作の「君」であることを証明するようなシーンが、実はこの分裂パートの直後に存在している。
2つに別れたパートが終わり、声はふたたび一つとなり、まるで「私」が「あなた」に言うように挿入されるフレーズ。
「本当は迎えがほしいの」「あのねそれじゃおやすみ」
この瞬間、ましろの姿がモノクロに塗りつぶされるのである。もっとも、この演出自体は原曲にも存在していた。x0o0x_氏のアバターもこの瞬間にモノクロに変化した。
そして後半のサビに入るとふたたび色を取り戻すのであるが、重要なのはそこではない。
僕たちが注目すべきなのは、まず、モノクロに塗りつぶされたましろのシルエットである。
ましろの翻ったコートが、ちょうど「君」を彷彿させるスカートのシルエットになっているのである。
そしてましろの髪は白く塗りつぶされ、髪の左右についていた「僕」の象徴である白い安全ピンは白い髪色の中に沈み、「君」の象徴である赤いマフラーと赤いリボンだけが、さっきよりも彩度を上げて色鮮やかに強調されるのである。
スカートのシルエット。そして、赤いマフラーと赤いリボンの強調。
紛れもなく、その瞬間そこには「君」がいたのだ。

「」のモノクロシルエット

死後きさらぎ駅に囚われた「君」を、「僕」が迎えに行った。
オリジナルMVに映っているましろは、おそらく「僕」が「君」を迎えに行った後の姿なのだろう。
そしてこのことは、前章で見てきたましろの正体とも符合している。
前作では「僕」と「君」をあわせた姿がましろなのだと解釈した。「僕」が死んだ「君」を背負うことでましろになったのだと。
今回の「」においても、この構造は踏襲されている。
きさらぎ駅に囚われた「君」を迎えに行くことで、「僕」はましろになったのである。
このように考えれば、もはや新しい登場人物の「あなた」の存在は必要ない。
ましろの歌ってみた動画「」は、前作「あの夏が飽和する。」と地続きの、「僕」と「君」の物語として解釈しうるのである。
前作における「行方不明」の新聞記事や「線路の上を歩いた」という歌詞に符合を見出してもよいだろう。
「あの夏が飽和する。」が「僕」の視点から語られた物語だとすれば、「」は「君」の視点から語られた物語として見ることもできるかもしれない。



残された謎

しかし、この解釈には謎も残されている。
なぜ「君」がきさらぎ駅にいるのか。どのように「僕」はきさらぎ駅へ「君」を迎えに行ったのか。
これらの謎を解いていくのは容易ではないが、しかしいくつか考える上でのヒントがないわけではない。
ましろの歌ってみた動画は、常にそれまでのましろの活動との奇妙な符合をもっている。
今作の場合も例外ではない。
冒頭に触れた雑談配信の画面、水滴の滴るガラス越しのましろの顔などがそうである。
これと同じような符合をいくつか取り上げて、手がかりを探してみよう。


ましろときさらぎ駅

まずはじめに、ましろの配信における待機画面を取り上げたい。
ましろの配信には通常、待機画面というものが用意されている。Vtuberの配信では恒例のものだが、配信者の声や姿が映り本格的に配信が開始される前に映される短い映像のことである。テレビ番組におけるOP、あるいはそこまでいかなくても、アイキャッチのようなものだと理解しておけばよいだろうか。
配信者によって待機画面は様々で、オリジナルに作成したクオリティの高いアニメーションを使う人もいれば、イラスト一枚絵にイメージソングを流すだけの人もいる。
ましろの待機画面はというと、これが実に個性的である。
ましろの顔が大写しになり、ただこちらの眼(監視カメラのような広角の画面)を覗き込んでいて、真ん中に「待機中」と大きく文字が出ている。
特筆すべきは、そのノイズを多用した映像感覚である。
極端にG値の高いカラーバランスに、フリッカーや、光の白飛び、走査線の残像、粒子のざらついた粗い画質など、まるでましろが低品質のカメラ、たとえば監視カメラのレンズを覗いているような感覚がある。
そして僕たちリスナーは、この画質の悪い広角カメラを通して、こちらを覗き込むましろと目を合わせ続けるのである。
初めてこの待機画面を見た人の感想としては「怖い」という印象が強いようだ。
さて、この待機画面であるが、今回注目すべきなのはその背景である。
こちらを覗き込むましろの顔の後ろには背景が映っており、そこからましろがどこにいるのかが分かるのだが、この背景が、駅なのである。
駅のホームが映されているのだ。

待機画面

ましろはこの待機画面を初配信から使っている。
なぜ駅なのか。
その質問にましろは答えたことはないが、歌ってみた動画「」が投稿された今では、その駅はきさらぎ駅としか思えないだろう。
このように、ましろはその活動の初期の時点から、きさらぎ駅との関わりを持っていたのである。
実は、このこと以上にそれを証明する事実がある。ましろは初配信においてもきさらぎ駅について触れている。
今後の活動の指針を述べている途中、今後行きたい場所という話題が出た。
その場所の候補に、ましろは、きさらぎ駅の名前を出しているのだ。
またそれ以外にも、あつ森配信においてきさらぎ駅を島に作ろうと計画したこともある。

このように、ましろときさらぎ駅との関わりは、実は今回の歌ってみた動画「」が初めてではないのである。
ましろは常に、きさらぎ駅への関心を示し続けていた。今回の歌ってみたによって、その理由の一端が明かされたと見るべきなのかもしれない。
活動初期から繰り返し張られていた伏線が、ようやく回収されたのである。



「君」と「僕」ときさらぎ駅

ましろはかねてより、きさらぎ駅へ行きたがっていた。
そして今回の歌ってみた動画「」で、ましろはきさらぎ駅へ行くことができたようである。
では、そもそもなぜましろはきさらぎ駅へ行きたがっていたのだろう?
理由は、きさらぎ駅に囚われた「君」を迎えに行くためである。
では、そもそもなぜ「君」はきさらぎ駅に囚われているのだろう。
一つの解釈として次のようなものが考えられる。
きさらぎ駅は、そのオリジナルのスレッドにおいては一切詳細不明の不気味な駅であるが、二次創作においては、ある種の霊界として解釈されることがある。
つまり、ナイフで首を切り自殺した「君」の他界の行き先として、霊界としてのきさらぎ駅が設定されたのだ。
空想が入りすぎていることを承知で言えば、この場合のきさらぎ駅は、天国でも地獄でもなく、たとえば、適切に供養されなかった霊が迷い込む霊界として解釈すると、様々な辻褄が合うだろう。
前章で見てきたように、「君」はその死後、「僕」によって人知れず埋葬されたのだった。「あの夏が飽和する。」に登場した「行方不明」と書かれた新聞記事は、「君」の存在が「行方不明」であるということだった。
ところで、きさらぎ駅は、そこへ迷い込むことで行方不明になり、帰ることができないという都市伝説である。
しかしこれをたとえば、そこへ迷い込むから行方不明になるのではなく、実際は死んでいるにも関わらず行方不明と認識されているような、適切に供養されていない死者が流れ着く霊界だと解釈するとどうだろうか。
迷い込むから行方不明になるのではなく、行方不明になるから(供養されないから)迷い込むのである。

このきさらぎ駅についての解釈は、オリジナルのスレッドとも最低限の整合性は取れている。
とりわけ投稿主の「はすみ」という名前には注目しておくべきだ。
「はすみ」を「蓮実」と書いてみよう。
「蓮」は仏の象徴である。蓮は泥の中から清浄な花を咲かせるが、このように、衆生も現世という泥濘から咲くようにして仏となるのだ。それが蓮の仏教的意味である。仏像の多くが蓮の台に座るのはそのためである。
「実」は言うまでもなく種子である。
したがって「蓮実」とは、まだ咲いていない蓮の種子であり、すなわち未だ成仏ならざる存在を意味するだろう。
オリジナルスレッドの投稿主の「はすみ」は、自分が死んでいることに気がついていない=供養されていない・成仏していない幽霊だからこそ、きさらぎ駅に迷ったのかもしれない。
はたして幽霊がネットの掲示板に書き込みをするだろうか?
もちろんありえないだろう。しかし、そのありえないことが起きているかもしれない、そうした不気味な可能性を感じさせるところが、この都市伝説の怪談としてのミソである。


「君」は人知れず死に、人知れず埋葬された。
それこそが「君」の望みだったとはいえ、それは適切な供養をともなう死などではなかった。
こうして「君」は、きさらぎ駅へ流れ着く。
前作「あの夏が飽和する。」の歌詞にあった「遠い遠い誰もいない場所」とは、きさらぎ駅だったのである。
前作オリジナルMVに登場した「行方不明」の新聞記事は、きさらぎ駅の伏線である。
前作の歌詞にあった「二人線路の上を歩いた」とは、2人の死への旅路、きさらぎ駅への旅路を表している。
そして「君」は一人できさらぎ駅に迷い込み、「僕」は生き残った。
前作の「死ぬのは私一人でいいよ」という歌詞は、今作「」の「強く止めたはずだったの」という歌詞と対応している。
「あの夏が飽和する。」の物語にきさらぎ駅という要素を加えると、おおよそこのようなものになるだろう。

そして今作「」において、「僕」は「君」を迎えに行ったのである。
ところで、「迎えに行く」というのは具体的にどのようなことなのだろうか。誰も見えやしないし誰も追えやしない駅へ行くなど、それこそ「僕」自身が「君」と同じように、行方不明になった上で死ぬほかないように思える。
しかし、一人生き残ってしまった「僕」の矛盾し相反した感情、および、ましろ自身が生への執着を強く持っていることは、前章の最後で見てきたとおりである。つまり、ましろは生きている。しかし同時に、まるで死んでいるかのようでもある。
ましろはまるで幽霊のようだと、本エッセイでは繰り返し述べてきた。
猫の章では、そのVtuberとして存在様態が幽霊のようであると。
夏の章では、それに加えて、「君」の遺品を身につけることで、まるで「僕」に「君」が幽霊のように憑依した姿がましろなのだと。
そして歌ってみた動画「」では、きさらぎ駅へ「君」を迎えに行くという、あからさまな死がそこに描かれている。


このことをどう解釈すべきなのだろうか。
ましろは死んでいるのだろうか。しかしだとすれば、ましろが生への執着を強く持っていることに説明がつかない。
ましろは生きているのだろうか。しかし、きさらぎ駅へ「君」を迎えに行くことは死を意味するはずである。
ひとつの解釈として考えられるのは次のようなものである。
前章で、「僕」は「君」の遺品を身に着け、「君」の死を背負うことでましろとなったのだと述べた。
実はきさらぎ駅へ「君」を迎えに行くという出来事は、この「君」の遺品を身につけ、今のましろとなったというこの一連の流れを、「君」の視点から眺めたものに過ぎないのではないかと考えるのだ。
今作「」で描かれた「君」の視点は、実は現実に起こったことではないのである。
それはあくまでも死後の「君」の視点から見たものに過ぎない。
「僕」は本当にきさらぎ駅へ行ったのではない。
現実において「僕」は「君」の遺品を身につけ、「君」の死を背負って歩くことを決意することで、ある種の供養を行ったのではないだろうか。
それが、「君」の視点から見ると、まるで「僕」がきさらぎ駅に迎えに来てくれたかのように見えるのである。
ましろがきさらぎ駅に行ったのではなく、「僕」がきさらぎ駅へ行くことでましろになったのである。そしてそれは現実には、「僕」が「君」という死者の遺品を身に着けることで、「君」の死を背負って生きるという決意を明らかにすることで「君」を供養することだったのだ。
「あの夏が飽和する。」は、「僕」の視点から「僕」がましろとなる物語だった。
「」は、「君」の視点から「君」がましろとなる物語なのである。
「」で「僕」が「君」を迎えに来るのは、あくまでも「君」の視点から見た象徴的イメージに過ぎなくて、「僕」の視点ではそれは「君」の遺品を身につけるというある種の供養として描かれている。
迎えに来る=きさらぎ駅からの脱出=「君」の遺品を身につける、ということなのだ。


「」の歌詞には、その後、「君」がきさらぎ駅を脱出したような描写も匂わされている。
ではきさらぎ駅を脱出した後、「君」はどこへ行ったのだろうか?
供養されたということは、成仏したり、あるいは天国へ行ったのだろうか?
それとも自殺の咎で地獄行きだろうか?
さしあたり予想される解釈として、現世のましろに幽霊として取り憑いていると考えるのはどうだろう。
ましろが「」を投稿する前にしたツイート、「家にお化け出た。こわい。」を、そういった意味で理解してみると、おもしろいかもしれない。
ましろがこれまでに話してきた様々な怪談じみたエピソードに、ましろに取り憑いた「君」が関わっていると考えるのはどうだろう。
「僕」は「君」の遺品を身につけ、これを触媒とすることで、きさらぎ駅から現世に「君」を召喚したのだ。
それは、きさらぎ駅から彼女を解放する効果を持ったある種の供養だが、死体はおそらく埋めたまま未だに世間には行方不明なのだろうし、成仏が期待されるようなまっとうな供養ではないのである。
だからこそ、「君」は成仏も昇天もすることもなく、現世に繋がれ「僕」に取り憑くのだ。
こうして「僕」は「君」に取り憑かれ、ましろとなったのである。
本エッセイで繰り返し述べてきた、ましろの幽霊のような佇まいや、彼のかもしだすどこか不穏なオーラ、魅惑的な死臭は、具体的にはこの出来事に由来するものである。



「迪ォ」/「猫」/文字化けの意義

さて、以上が「」から読み取れるましろの物語である。「あの夏が飽和する。」から続く物語は、おおよそ以上のような形で理解することができるだろう。
しかしもう一つ、ましろの歌ってみた動画「」には重要な要素が残されている。
駅の線路の向こう側に、「迪ォ」と書かれた看板がある。これは原曲には存在せず、ましろのオリジナルMVにのみ存在している。
冒頭で述べたように、「迪ォ」は「猫」の文字化けである。
この歌ってみた動画「」の告知ツイートにも「迪ォ」という一文字が添えられていた。
しかし「あの夏が飽和する。」には猫は出てこなかったし、この章で整理してきたましろの物語にも猫は出てこなかった。
まるで異物のようにして画面の中に存在しているこの「迪ォ」という文字を、さて、ぼくたちはどう理解すればいいのだろう。
もちろんそれは、ましろの初歌ってみた動画「猫の食卓」との関連において理解するべきだろう。
したがって詳しい内容は次章に譲りたいが、それでもこの章において指摘しておきたい事実がある。

ひとつ疑問がある。
「迪ォ」は「猫」の文字化けであるが、そもそもなぜ文字化けしているのだろう?
文字化けしているのは、実は「迪ォ」だけではない。「」には文字化けした文章が、歌詞の合間に何度も映し出される。
その一つ一つは原曲「」にも登場していた文字化けで、この文字化けを直すと、きさらぎ駅のオリジナルスレッドの内容を示唆する文章となっていることが明らかになっている。
改めて問おう。なぜ文字化けしているのだろう。
都市伝説をモチーフにしているためホラー演出として文字化けさせている、というのがおそらく最も当たり障りのない解答だろう。そしてそれはそのとおりのように思える。
ではなぜ、そもそもそれはホラー演出として機能しているのだろう?
つまり、文字化けが不気味でグロテスクなのはなぜだろうか?


一言で答えるならば、それは、文字化けが言葉の死体だからである。
文字化けは、文字コード変換が失敗した際に発生する。文字化けとは、異なる文字コード間における変換が失敗し、言葉がズタズタに壊れてしまった姿なのである。
身元不明になるほどズタズタに損壊された死体がグロテスクなのと同じように、そこには確かに意味(命)があったはずであるのに、もはや一切意味(命)を認めることができないほどの夥しい破壊の痕跡に戦慄する感覚が、不気味でグロテスクなのだ。
このような意味で、文字化けは言葉の死体であり、あるいは、死体の言葉であるとも言えるだろう。
実際、ホラー作品において異形の存在の発する言葉が、文字化けされて表現されることはほとんど恒例の演出と言ってもよい。それは、この世界に徹底してそぐわないという異質感の演出としてしばしば使われている。
ンヌグムというホラー系Vtuberは、その投稿動画のタイトルすべてが文字化けしている。そもそもンヌグムというのは正式なものではなく、正式名称は文字化けした「ォ逅」である。
またましろと同じにじさんじにおいても、でびでびでびるが文字化けを演出として多用していた。
彼のお決まりのフレーズは「異界の扉が開かれた」である。
文字化けとは文字コード変換の失敗によって発生すると言ったが、この話に引きつけて言うならば、それぞれの文字コードはそれぞれ固有の世界のルールを持っていると考えればわかりやすいかもしれない。
あくまでもメタファーとしての話であるが、文字化けとは、異なる文字コードという異界を渡ってきたために壊れてしまった(死んでしまった)言葉であると言えるだろう。
しかし、文字化けが不気味でグロテスクなのは、まさしくそのメタファーがぼくたちの無意識に強烈に作用しているからにほかならない。
2つの異なる世界を越境することは、此岸から彼岸へという「死」のメタファーそのものである。
言葉の死体とはそういう意味であるし、死体の言葉とはまさしく彼岸(異界)の言葉なのであり、だからこそ文字化けは不気味でグロテスクなのである。

これまでに見てきたように、きさらぎ駅は死後の異界である。言葉が文字化けするのは、それが異界からの言葉であり、言葉の死体であり、死体の言葉だからである。
そもそも猫は、死とのゆかりが深い生き物である。光量によって瞳の形を大きく変える猫の眼は、月の満ち欠けと結び付けられてきた。そして月の満ち欠けは、言うまでもなく死と再生の象徴である。猫が空中を眺めていたりすると、猫の眼はぼくたちとは異なる世界を見ているのだと考えたりする。人間には見えない何かを見ているのだと。魔女が猫を飼っているというイメージは、そのような超常的イメージを猫が持っているからにほかならない。
また、猫はしばしば異界渡りをする生き物であると言われる。道で出会った猫についていったら見知らぬ世界に迷い込んでいたという物語は定番だ。「猫の食卓」もそのような物語類型の系譜に連なる作品だろう。2つの異なる世界を越境することは、此岸から彼岸へという「死」のメタファーだとさきほど述べたが、猫が異世界と通じているというイメージは、このような死の越境的イメージから連想されたのかもしれない。



多重構造/内容と形式の一致

ぼくたちは第一章「猫」の章で、ましろの配信における猫のイメージについて振り返った。
ましろの初期の配信において猫は単なるナンセンスなギャグでしかなかったが、「猫の食卓」によって死のイメージを与えられ、まるで猫の眼を手に入れたかのように、この死のイメージを通して見ることで、ましろの配信の様々な事柄がこれまでとまったく異なって見える、と、そのように整理した。
ここで特に注目しておきたいのは、猫の死のイメージだけではなく、そこから連想された、異なる世界へと越境するイメージの方である。
「猫の食卓」を聴いた後でましろの配信の様々な事柄がこれまでと異なって見えるというのは、それは別の言い方をすれば、ぼくたちはその時、「猫」に導かれて異界(死臭に満ちたましろの物語世界)に来たようなものだと考えられないだろうか。
ましろの配信における猫は、死のイメージを振り撒くだけではなく、そのことによって、ぼくたちを異界へと案内しているのである。
もともと「猫の食卓」の歌詞は、猫が死の世界へと子どもたちを導いていくかのような内容だったが、このような猫の越境的イメージは、「猫の食卓」の歌詞の中だけではなく、ましろの活動全体においても踏襲されるのだ。
まるで「猫の食卓」という歌ってみた動画それ自体が猫であるかのように。
そのように考えると、この歌ってみた動画「」に「迪ォ」が存在していることの意味も理解できるだろう。
きさらぎ駅は死後の異界である。
猫は死とのゆかりが深く、また異界へと越境する。
「迪ォ」がいてもまったく不自然ではないだろう。
「迪ォ」と書かれた看板は、端的に、「ここには迪ォがいます」ということを意味しているのである。
なぜそこに「迪ォ」がいるのか。
ぼくたちが「迪ォ」に案内されて、そこを訪れたからである。
猫についていったら見知らぬ世界に迷い込んでいた、という物語の類型が、リスナーの体験としてここでは踏襲されている。
作品の内容と形式が、見事に構造として一致している。

そして驚くべきことに、このような構造(内容と形式が一致する構造)は、実は「」という曲自体にも同様に発見できる。
「」という曲は、そもそもそれ自体がきさらぎ駅のようなものなのである。この無題ゆえに検索できない曲は、本来、Youtubeアルゴリズムにオススメされることでしかたどり着けない。それは、曲のモチーフであるきさらぎ駅の特徴と見事に一致している。
「誰も見えやしない」し「誰も追えやしない」駅には、本来、知らないうちに迷い込むことでしかたどり着けない。
それと同様に、誰も検索できないこの曲には、本来、Youtubeのオススメに選ばれて迷い込むことでしかたどり着けない。
きさらぎ駅が都市伝説であるように、「」という曲自体もYoutube上で都市伝説のように存在しているのである。
これは、「猫の食卓」がまるで猫のようにぼくたちを異界(死臭に満ちたましろの物語世界)へ案内するのとまったく同じ、内容と形式が一致した構造である。
「迪ォ」の登場するましろの歌ってみた動画「」は、これら2つ(「猫」と「」)の同一構造が、ふたたび見事に重なるという、多重構造を持っているのだ。
誰もたどり着けないはずの駅に、「猫の食卓」の「猫」=「迪ォ」が、ぼくたちをそこへ案内してきたのである。
ましろの配信活動と歌ってみた動画と彼自身のストーリーはこのように、高度に多重的な構造に支えられている。
ぼくたちが「」=きさらぎ駅という曲にたどり着けたのは、ましろのチャンネルを通ることで、ましろの猫に導かれたからである。
猫によって可能となったこのような経験は、オカルト用語で言えば、まさしく「チャネリング」のようなものであると言えるだろう。
ぼくたちは猫を触媒としてきさらぎ駅と、「君」とチャネリングしたのだ。


都市伝説化するましろ

ましろの猫は異界へとぼくたちリスナーを導いていく。
猫は複数の世界を貫通していく。まるで複数の世界に同時存在するように。
ましろの猫が神出鬼没なのは、初配信の頃から、猫がまだナンセンスなギャグでしかなかった頃から変わっていない。
ましろの待機画面がきさらぎ駅だったことはすでに述べた。
実はこれに関して一つ重要なことがある。

ましろ本人の言によれば、きさらぎ駅の映像だと思われる例の待機画面は、Serial experiments lainに影響を受けて作成されたものである。

Serial experiments lainはアニメやゲーム、小説などにまたがって展開されたメディアミックスで、日本のみならず海外においてもカルト的人気を誇るサイコホラー作品である。
ましろが影響を受けたのは、まず第一に、画面の雰囲気そのものだろう。ノイズの使い方やG値のやたら高い色味、光の白飛びやブラーのかけ方、至近距離からの広角フェイスショット。言われてみれば、非常にSerial experiments lainによく似ている。


しかし、実は似ているのは待機画面だけではない。ましろの物語自体に、lain的要素が多く含まれている。
lainのストーリーは、主人公岩倉玲音がwiredと呼ばれるネットワークに接続し、wired(異界)がreal world(現世)に干渉し始めるというサイコホラーだが、そこで用いられたモチーフはましろの物語と共通するところが多い。
自殺、殺人、分身、都市伝説、wiredという異界、死者からのメッセージ。
どれも、ましろの物語に共通して見られるモチーフであることが極めて示唆的である。
しかしここでとりわけ指摘しておきたいのは、主人公岩倉玲音が、lainという名で都市伝説化するという根幹のストーリーである。
岩倉玲音はwiredに接続してから様々な非日常的現象に遭遇するのだが、その事件の中心にいるのは、lainという自分の分身である。lainは玲音のwiredでの名前であるが、ある時からlainは本人である玲音の意志を離れて行動し始め(つまりは分身し)、ついにはreal worldにまでlainは現れるようになり、wiredとreal worldの境界が曖昧になっていく。様々な場所に同時に存在するlainは巷で都市伝説化し、玲音は都市伝説となった自らの分身とその謎を追いかける、というのが根幹のストーリーである。

ましろの歌ってみた動画「」は、この都市伝説化するlainと奇妙にも似通っている。

本章の冒頭で、歌ってみた動画「」には3つの文脈が重なり合っていると述べた。
ひとつは、きさらぎ駅という都市伝説の文脈。
もうひとつは、「」という無題動画に集まるTheCultと呼ばれるコミュニティの文脈。
そして、「あの夏が飽和。」するから続くましろの物語という文脈。
ましろは複数の文脈に遍在することで、まるでlainのように分身しているのだ。
都市伝説化するましろ。
いったいどういうことか。

きさらぎ駅のオリジナルは2004年の2chにおけるスレッドであり、それ以外の駅にまつわる話はすべてオリジナルスレッドの二次創作である。
しかしここで重要なのは、都市伝説という形式上そこではオリジナルとコピー・二次創作の差異はほとんど無いようなものであるということだ。そこでは二次創作などの後々になって量産されたある種のコピーこそが、むしろオリジナルのきさらぎ駅という都市伝説の信憑性やリアリティを、まるで証言するかのように構成しているのである。
ましろの物語は、Vtuberましろの物語とはまったく別に、きさらぎ駅という都市伝説を構成する無数の二次創作のうちの一つとして、その系譜に連なっているのである。
また「」という曲についても同様のことが言える。「」はきさらぎ駅をモチーフにした曲であり、これ自体がきさらぎ駅という都市伝説を構成するコピー・二次創作として存在している。ましろはそれを自らの物語として「歌ってみた」わけであり、つまりはましろのこの歌ってみた動画「」は、”きさらぎ駅の二次創作である「」を歌ってみた二次創作の「」”、という極めて迂遠な由来を持った作品であると言えるだろう。
したがって厳密に言えば二次創作ではなく、n次創作と言った方が適切かもしれない。

そして「」という曲は実はさらに、もう一つ都市伝説としての文脈を持っている。
それがThe Cult(以下、カルト)である。
The Cult(カルト)とは、x0o0x_氏のチャンネル動画のコメント欄を本拠地としている秘密結社のようなコミュニティである。
コミュニティといっても会員サイトがあるわけでもなく、単なるインターネットミームであり、自らをそう称するコメントが大量に存在し、それがある種の秘密結社コミュニティのように見えているだけのことである。
x0o0x_氏の動画は一部の曲を除いてすべて「」と無題で投稿されている。今回ましろが歌ってみたでカバーしたのはきさらぎ駅をモチーフにした作品だが、最近は同じくネット都市伝説の猿夢をモチーフとした「」という無題の曲も投稿された。
このように、x0o0x_氏の動画は無題で投稿されることが多いのだが、この無題動画コメント欄には自らをThe Cultと称しコメントを書き込む人々が大量に存在しているのである。
コメントの内容は、「カルトに栄光あれ」「おめでとう。きみはカルトに選ばれた。ゆるりとくつろいでいきたまえ」「カルトに選ばれたことを幸運に思う」「カルトからは逃げられない」「カルトが見ている」等々、まるで秘密結社フォーラムに迷い込んだようなコメントが多い。このように、x0o0x_氏の無題動画に秘密結社のごとく仰々しい芝居じみたコメントを書くことそれ自体がミームとなり、ひとつのコミュニティのように見えているわけである。
なぜこのようなミームが誕生したか。その起源を特定するのは難しいが、コミュニティとして存在感を持ち始めた原因は、きさらぎ駅をモチーフとした「」の、英語字幕翻訳に由来する。
有志による英語翻訳字幕の最後に「WELCOME TO THE CULT」と映し出されるのだ。
このような演出はもちろんオリジナルの日本語字幕には存在せず、有志の英語翻訳者が勝手に付け加えたものに過ぎないが、これがとびきりにウケた。
先程述べたように、もともと「」という曲自体がきさらぎ駅のようなものなのだ。無題ゆえに検索できず、Youtubeアルゴリズムにオススメされる以外に辿り着くすべを持たないこの曲は、それ自体が都市伝説のようである。
多くの英語話者リスナーは、英語翻訳字幕の最後に映し出された文言を見て、この都市伝説の如き曲に幸運にもたどり着いた特別な自分たちをTheCultと呼ぶようになったのである。

カルトはきさらぎ駅の「」を超えて、他のx0o0x_氏の無題動画にも出没するようになり、遂にはましろの歌ってみた動画「」のコメント欄にまで進出している。
カルトであることには何も意味がない。仰々しく「栄光あれ」といったり、「君は選ばれた。おめでとう」と言うのが恒例の文句であるが、そもそもカルトには何の実態もない。秘密結社のように振る舞っておきながら、なにも秘密にするようなことがない。
単に、「」という検索しづらい動画があり、たまたまその動画に迷い込んだだけである。そこには何の意味もない。
このようにまったくの空虚であり、文字通り「」なコミュニティがカルトなのである。

というわけで、カルトはあらゆる「」動画に出没する。
「」こそが、彼らカルトのシンボルだからである。
ましろが歌ってみた動画「」を投稿する前から「」と無題の配信を行ってきたこときたことは既に述べたが、歌ってみた動画「」以降、実はましろは「」と無題での配信をふたたび何度か行っている。歌とはまったく関係のない、雑談やゲーム配信が多い。
それら「」無題配信のチャット欄にもカルトは出没し、まるで集会所のように多くのコメントを残していっている。
彼らの多くは日本語が読めないので、そもそもましろがどのような存在なのか理解している人は少ないだろう。Vtuberであることはわかっているかもしれないが、歌ってみたに込められたましろの物語についてはほとんどが理解していないだろう。
ただ、「」というコミュニティのメンバーの一人として認識しているようである。
もともとましろリスナーだったと思われる英語話者のリスナーは、「やった!ましろもカルトの一員だったのか」と喜ぶコメントを残している。
ましろは、カルトという文脈にも独自の仕方で存在しているのである。


さて、このように、「」という歌ってみた動画においてましろは複数の文脈において同時に存在し、それぞれ重なる部分がありつつも、しかしまったく異なる仕方で受容されているのである。
きさらぎ駅の都市伝説のバリエーションの中で。無題動画に集う秘密結社The Cultのメンバーの中で。そしてもちろん、魅惑的な物語を持ったにじさんじVtuberという文脈の中で。
このような遍在の仕方に、lainと似たものを感じるのは不自然だろうか?
異なる場所で、異なるように、しかし同一性を保ちながら語られる。都市伝説とはそのような複数の体験談や目撃談によって構成されるものだ。lainがそうであったように。
複数の文脈で同一性を保ちながら異なる語られ方をすることは、複数の場所で同一性を保ちながら異なる体験談が語られる都市伝説の構造と等しい。
ましろはまるで都市伝説のようではないか?


「猫の食卓」の持つ強烈な死のイメージによって、ましろのVtuberとしての存在様態が変化した。作品に作られるタイプのVtuberとして、ましろはまるで謎に満ちた幽霊のような死臭を帯びた。作品から還流するイメージによって自らの曖昧な存在がその都度作られていくという、Vtuberとしての存在の仕方が幽霊的だった。

「あの夏が飽和する。」では、片割れとも言える存在を亡くし、その死者の遺品を身につけるという具体的物語のレベルで、ましろの死臭、その幽霊のような佇まいの由来が語られた。具体的なキャラクターストーリーとして幽霊的だった。

そして「」では、その幽霊のようなましろは、複数の文脈において巷間奇譚の都市伝説のように体験され、目撃され、語られる。そうしたキャラクターとしての受容のされ方が幽霊的・都市伝説的なのである。



追記

10/18深夜3時、ましろは「ひとりかくれんぼ」を配信で行った。
ましろのこの配信は、深夜にもかかわらず1万7千人の同時視聴者数を記録し、同日「ひとりかくれんぼ」はツイッターのトレンドとなった。この配信に対する反応の中で興味深いのは、ましろの安否を心配する声が多いことである。ひとりかくれんぼ配信の後、ましろがツイッターを更新していないことや配信していないことが原因で、何かあったのではないか、と心配されている。多くのましろリスナーにとって、ましろがツイッターに浮上しないのは不自然ではないし、数日音沙汰ないことも特に驚くに値しないことは、このエッセイの中で何度も述べてきた。しかし、そのようなことは初見の人にはわからない。
初見の人にとって、今のましろは、ひとりかくれんぼというネット発の危険な降霊術を試した末に、謎の失踪を遂げつつあるように見えるのだろう。そのようなストーリーが確かに生まれつつある。そしてもちろんそのストーリーは、ましろが何食わぬ顔で再び配信活動を開始することで、今度は泡のように消えるのだろう。
と、予想していたところ、10/23に新作歌ってみた動画「MONSTER」の公開が告知され、ましろの生存は公式に確認された。
しかし、その失踪期間におけるましろの語られ方は、まさしく都市伝説のようではなかったか?
面白半分でひとりかくれんぼをネット配信し、その後謎の失踪を遂げたVtuberとして。

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