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演者と作り手の関係性に見る、テレビとYouTubeの違い

YouTuberという仕事が市民権を得て、気づけばもうずいぶん経った。

出てきた当初は、他のあらゆるイノベーションと同じように、「そんなもの定着するわけない」「絶対に食ってなんかいけない」と叩かれていたが、気づけばそんな声を上げる人はいなくなった。

それどころか、今の若者の多くはテレビよりもYouTubeを見るようになってきていて、どちらかというとテレビを主戦場にしている若いタレントたちが危機感を抱く時代に突入している。

テレビとYouTubeの違いというと、視聴する手軽さだったり、取り扱う内容のニッチさだったりと色々あるけれど、現代のテレビコンテンツとYouTubeコンテンツの大きな違いに、演者と作り手の関係性を挙げることができる。

演者≠作り手のテレビ、演者=作り手のYouTube

まず、テレビ番組は基本的にかなり多くの人数で作られることが多い。

プロデューサー、ディレクター、放送作家に始まり、カメラマンや音声などの技術スタッフ、AP、ADなど、素人の僕ではささっと挙げきらないほど多岐にわたる。
そして、彼らが番組の裏を作り、タレント(ここでは、出演者をひとくくりにこう呼ぶことにする)が表でそれを表現する。

対してYouTubeはというと、ほとんどの場合が個人、あるいは少人数のチームやコミュニティで作られる。
基本的にはYouTubeを始めるときには個人で、撮影も編集も自分自身で行う。

ある程度名前の売れているYouTuberであれば、カメラマンや編集チームくらいは抱えているけれど、それでもそこまで多くの人数で、大きな規模でやっているチームはそうそうないだろう。

そして、チームをもっているとしても、基本的には企画を考えたりプロデュースしたりする中心にいるのはそのYouTuberであることがほとんどだろう。

つまり、テレビ番組は演者と作り手が完全に分かれていて、YouTubeの場合はほぼ演者=作り手なのだ。

YouTubeがここまで浸透して、「大物YouTuber」として名前を聞く人もある程度固まってきたので、この先は風向きは変わってくる。
確実に、今まで以上にクオリティを求められるようになっていくはずだ。

そうしたときに、テレビ局のような大資本が大挙してYouTubeに押し寄せて、今までのテレビでやってきたようなお金をかけたコンテンツをぶつけ始めるかもしれない。
では、そうなったらYouTubeでもまた個人チームのYouTuberが淘汰されて、大資本が勝ち続ける未来が訪れるのか、と言ったら、必ずしもそうでないと僕は思っている。

その理由がふたつあって、一つは「作り手が見える」というのがコンテンツの強みになること、もう一つがテレビとスマホの画面サイズである。

作り手が見えることの魅力

演者と作り手は、別が良いのか一緒がいいのか。
一概に言えるものではなくて、それぞれにメリットがある。

まず、演者と作り手が別の場合は、それぞれの役割に専念できるというメリットがある。

面白い企画を考えられる人がプロデュースして、うまく人を回せる人がディレクションをして、おしゃべりや演技の上手い人がカメラの前に立つ。
それぞれの得意なことを活かせば、それだけコンテンツのクオリティは上がるだろう。

対して、自らプロデュースして、自ら出演して、自ら編集する場合。
普通に考えると、どこかで苦手な分野が出てくる可能性が高く、クオリティの担保が難しいように思える。

実際、トータルで見ると動画のクオリティ自体は前者のほうが高いのかもしれない。

しかし、どちらの場合もファンがつくのは基本的には演者である。
そして、ファンからすると、その「演者自身が作ったもの」というのは大きな付加価値になる。

実は、「演者≠作り手が当たり前だったが、演者=作り手が主流になる」というのは他の世界でも起こっている。

代表的なのが音楽だ。

昔(今の演歌大御所世代)は、歌手自身が曲を作るということはなかった。
しかし、今は歌手が自分たちで作詞作曲を手掛けることは当たり前になっている。

「シンガーソングライター」という言葉が出てきたのは、作曲して自ら歌うことが珍しかったからであって、今となってはもう死語になりつつある。

そして、自身が作曲することも、楽曲提供を受けることもあるような歌手の場合、ヒット曲がどちらであれ、「彼・彼女が自ら手がけているから」という理由でファンの思い入れが強いのは前者であることが多い。

芸人だって、昔は多くが構成作家がネタを提供していたし、「主演監督作」が注目されるのも同じことだ。
ジャッキー・チェンのファンの中には「やっぱりジャッキー監督作が一番」という人も多いだろう。

もちろん、自らが演者にもなって成功を収める作り手というのは、その両方の素養を持っていることが条件ではあるが、「演者=作り手」であることは、それ自体がファンを惹きつける一要素になっていることは間違いないはずだ。

そして、時には「演者が作った」という事実だけでは物足りない。
その人がそれを作り上げた背景には何があるのか、どんなふうに計画を立てたのか、どんな思いが込められているのか、どんな障壁をどう乗り越えたのか、そういったストーリーが組み合わさることで、コンテンツの価値は大きく上がることになる。

デバイスの画面サイズの違い

コンテンツ次第な部分はあるが、ある程度の多くのお金と人手を使って大規模に動画を作ろうとすると、どうしても演者の人数が増える傾向にある。

ゴールデンタイムに放送されているバラエティ番組をイメージしてもらえるとわかるのではないだろうか。

これは、大きな規模でコンテンツを作ろうと思うと、それだけ広く視聴者を集めなければならず、そのためには色んな層を引っ張ってくるタレント力が必要になるからだろう。

画面に映る人数が増えると、一人ひとりは当然ながら小さくなる。
テレビくらいの画面の大きさであればそれほど気にならないのだが、スマホサイズになるともう誰が誰だかわからなくなってしまう。

スマホで見る動画は、少人数で一人ひとりを大きく映しながら、その人の行動や話をじっくり見たり聞いたりするほうが適しているのである。

2〜3人くらいのごく少人数でやっているテレビ番組ももちろんあるが、そのほとんどはニッチな層を狙った深夜番組だったりするし、傍から見ていても制作費をそれほどかけていないことがわかるだろう。

そして、その手の番組にはコアなファンがついているイメージもあるはずで、それがまさにYouTubeの世界で起きていることなのだ。

出演者数が少ないということは、視聴者の目線ではその出演者への注目が高まる、ということだ。
逆に言えば、そのコンテンツを見ている人は演者のファンである可能性が高く、「演者自身が作り手になっている」こと

もちろん、パソコンやタブレット、あるいはテレビ画面でもYouTubeは見られる。
しかし、YouTubeがここまで勢力を伸ばしている背景には、いつでもどこでも手軽に見られるという側面があり、実際に、YouTubeはスマホ視聴者が圧倒的に多い。

少なくとも、スマホというデバイス、画面という概念が大きく変わるような変革が起きない限り、今までのテレビの番組スタイルがYouTubeで覇権をとることは考えにくいだろう。

作り手としての自分を見せる

そういうこともあって、YouTubeというプラットフォームは、自ら出演も制作も行う個人が非常に戦いやすいフィールドとなった。

プロの作家たちによって作り込まれたものではなくて、YouTuber自身が考えた(少なくとも、それを装った)企画を「やってみます!」と言って全力でやって発信する。

その建付とストーリーも含めて、今の大物YouTuberたちは人気を獲得していったのだ。

ただ、先にも書いたとおり、ある程度もう勢力図は固まってきていて、今から個人で発信を始めてもなかなか伸びてはいかないだろう。

クオリティを求められるようになって、そのためにはある程度の人手とお金をかけられるチームが有利になるというのも、きっと現実だろうと思う。

従来のバラエティ番組のような「大勢でワイワイガヤガヤ」のスタイルでも、今のYouTuberたちのようなスタイルでもない、新しいスタイルのチャンネルが、この1〜2年で出てくるのではないだろうか。

あとは、(これは従来のスタイルと言えばそうなんだけど)ドラマやドキュメントといった分野が、この先のYouTubeでも勢力を増してきそうな感じがする。

ただ、いずれにしても、演者自らが作るという文化は一定数支持されていくだろうし、今後は「人を売る」「キャラを売る」という観点において、より一層そこへのブランディングは重要性を増してくるだろう。

そして、これは何もYouTubeに限ったことではない。
自分自身のビジネスにおいても、ストーリーや裏話を語れる人が、より選ばれるようになっていく。

果たして、自分はプレイヤーに徹していていいのか。
どこからどこまでを、お客さんに見せるのか。

まずは、そこから考えてみるとよさそうだ。

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