見出し画像

メッシ退団意思表明に思う、ファンとしてのあり方

このnoteではサッカーに関する話題を取り上げることは今までになかったけれど、約17年間にわたってバルサを追い続けてきた身として、今日書ける話はこれしかなかった。

メッシとともにあったバルサライフ

僕は、クレである。
上にも書いたとおり、今から17年前となる03-04シーズンからだ。

暗黒時代の終わり。
ロナウジーニョがチームに加入するも厳しい戦いの続いていたチームに、ダービッツが加入したことでダイナミズムがもたらされ、後半に復活の狼煙を上げることになったシーズンだ。

今の時代のバルサを楽しむには、最高のタイミングでファンになったと言えるだろう。
(ドリームチーム時代〜暗黒時代を楽しんだ人たちも羨ましいけれど)

その翌シーズン、ひとりのカンテラーノがトップチームデビューを果たす。

リオネル・メッシ。

そのシーズン、17歳でクレの期待をグッと集めると、さらに次のシーズンにはあれよあれよの間に主力級の選手に。

それまでのバルサの顔であり、メッシのよき理解者であったロナウジーニョが07-08シーズンに退団すると、当然のごとく10番を引き継ぎ、名実ともにバルサの中心となる。
その後のスター街道、いや、「D10S(神)」と称されるまでの道のりはここに書くまでもないだろう。

偶然にも、僕のクレとしての歴史のほとんどはメッシとともにあった。

文字通り飽くほどに、そのプレーには心を躍らされた。
普通ではありえないボールタッチ、ドリブル、パス、シュート。
そのプレーの数々に「すごい!」と感嘆していたのは遠い昔で、いつしかため息くらいしか出ないほどになっていた。

ずいぶん若い時分に「世界一」が囁かれるようになり、バロンドールを何度獲得しても毎年のようにプレーの幅を広げ、ゴールやアシストも重ねて成長していく姿は、まさに奇跡を目撃しているとしか言いようがなかった。

この16年間、ひとつのチームを応援するサッカーファンとして、最もたくさんの幸せを味わったのはきっとバルセロニスタであったと思うし、そこに最も大きく寄与したのがメッシの存在だった。

そんな、すべてのクレに希望を与え続けてくれたメッシが、現地時間の25日、退団の意思を表明した。

クレが悲しみに暮れる理由

たぶん、バルサの事情をそこまで知らない他チームのファンの皆さんからすると、今回の事態は「メッシが退団を表明した」というだけのことだと思う。

そして、その背景にあるのも「バルサが弱体化してきて、年齢を重ねたメッシがタイトルを狙える環境で再チャレンジを図っている」とか「親友であるスアレスの退団が原因」というくらいの認識の方が多いようだ。

クレがこんなに憂鬱になっている理由も「チームからメッシがいなくなるから」だと思われているかもしれない。

しかし、この事態の根っこはもっともっと深い。

ものすごく簡単に書いてしまうが、現在のフロント(ジョゼップ・マリア・バルトメウ体制)の信頼を失う数々の働き――失敗続きの不可解なプロジェクト、選手や監督への敬意を欠いた言動、責任のなすりつけ、etc....――が、これでもかというほど積み重なっていた。

そんな中で起きたのが、今までのツケをすべて払わされるかのようなバイエルン戦の大敗。
そして、クーマン新監督を利用した、スアレスたちへの誠意を微塵も感じられない事務的な「戦力外通告」。

これが爆弾を爆発させるひと押しになったと思われる。

それが、25日のメッシのburofax(日本でいう内容証明郵便みたいなもの)による退団意思の表明の背景である。

クレとしては、もちろん、単純にメッシがいなくなることへの寂しさや不安もあるにはある。

しかし、ほとんどのクレは数年前からメッシの退団の可能性は感じていたし、多かれ少なかれ覚悟していた部分はあるだろう。
スポーツ的にも「もしかしたら、メッシがいなくなったほうがうまくいくかもしれない」と、1度くらいは思ったことのあるクレが多かったことだろうと思う。
(かと言って、心の底からメッシに出ていってほしいと思うことはないはずだが)

クレがただただ憤りと悲しみを感じているのは、「メッシが退団すること」ではない。

クラブを最も愛してくれていたはずのクラブ史上最も尊いレジェンドが、1年前まで「ずっとバルサにいるのが自分の考え」と語ってくれていた「世界最高の選手」が、たった1枚の紙で退団を宣言して、裏口から出ていくような事態になってしまったことに対して、である。

クラブを愛するとは何か

この後の展開が、どうなるかはわからない。

バルトメウが辞任を決意して、メッシが残留を決めるという、全クレがほんの一瞬は期待した展開になる確率も、もしかしたらまだゼロではないのかもしれない。

でも、そんな可能性は「ゼロではないかも」という妄想に過ぎず、心に大きな棘が刺さったまま、31日のプレシーズンを迎えることになるであろうことはほぼ理解している。

こんな形で、バルサの栄光の時代を実現してくれた最大の功労者を追い出して、そしてその様を世界中の目にさらして、FCバルセロナというクラブの誇りは地に落ちる。

今回のことでクレでなくなるということはないと思うけれど、このバルサを今まで通り応援し続けられるかというと、それはきっと難しい。

もちろん、Blaugranaのユニフォームが躍動し、美しいフットボールで結果を残せば嬉しいのだろうけれど(それも当面は難しいと思うが)、次の1勝が、次のタイトルが、バルトメウたちを喜ばせて、彼らの功績の一部にされてしまうとすれば、それも素直に喜べないかもしれない。

そう思うと、クラブを愛するとは、ひいてはクラブとは何なのか、ということを改めて思う。

「地元のクラブ」というバックボーンのないクレにとって、「バルサを愛する」というのが、果たして“何”を愛するということなのだろうか。

もちろん選手たちのことは好きだし、バルサのフィロソフィーも好きだ。

けれど、バルサというチームをどれだけ愛することができても、今のバルサというクラブを愛せるかというと、それは難しい、ということだ。

仮に、この事態を受けた他の選手たちが軒並み退団を希望して、来季からガラッと違う面々のチームになったら。
その選手たちとクーマンが繰り広げるのが、バルサのフィロソフィーからかけ離れたスタイルのフットボールだったら。

そうなっても、「かつてのような、美しいバルサに返り咲いてほしい」と応援を続けるかもしれないけれど、その応援する対象となる「軸」は、果たしてどこにあるのか。

本来であれば、うまくまわっているチームであれば、チームフィロソフィーも、フロントの思惑も、監督も、選手もみんなが同じ方向を向いている状態になるので、(たとえそのときに結果が出ていなかったとしても)迷いなくクラブもチームも愛することができる。

それがない今、「どんな事態になっても応援し続ける」という根っこにあるものを突き詰めると、僕がバルサを見続けてきた歴史とか、愛着とか、あるいはこれまで僕に楽しみを与えてくれた多くの選手や監督の思いとか、そういうものになるのだろう。

その事実自体は、別に悪いことではない。
でも、そうではなくて、クラブを応援し続けるために、そこにすがらなければいけない事態になるとしたら、ファンとしてこれほど悲しいことはない。

1年後、5年後、10年後に思いを馳せて

繰り返しになるが、この後の展開がどうなるかはわからない。

ひとつ確実なのが、バルトメウ政権はどんなに長くとも来年3月で終わるということ。
もしかすると、それも少し早まって、新シーズンのパルコにバルトメウの姿を認めることはないかもしれない。

これは、僕(そしておそらく多くのクレ)に、一縷の望みを与えてくれている事実だろう。

ただ、もうひとつほぼ確実と思われるのが、新シーズンは、ピッチ上にもベンチにも、あのレジェンドの姿がない、ということだ。

その光景はずっと僕たちが恐れながらも、いつか受け入れなければならないと理解していたものだ。

だから、今の僕が望むのは、1年後、どこかバルセロナから離れたところにいるメッシが、まだ心の中でFCバルセロナを愛し続けてくれていること。

そのFCバルセロナがチャビ新監督のもと、希望に満ちた船出をしてくれていること。

5年後、バルサにまた新しい時代を作り上げていること。

いつしかメッシがシューズを脱ぐときに「最高のキャリアだった」と振り返ってくれること。

そして、何らかの形で、大歓声に包まれながら、またカンプ・ノウに笑顔で降り立ってもらうこと、である。

2020年の悲劇を、長い歴史のなかの思い出話として振り返ることのできる日々が、1日も早く訪れますように。


(追伸)

まだどう転ぶかわからない中だしなぁ……という想いもありましたが、ひたすらネガティブな記述で終わるのも嫌だったので、こんな感じで仕上げてしまいました。

大どんでん返しの(本人が納得しての)残留の希望を捨てたわけではないです。
ただまぁ、今はとにかくメッシが一番望むところに着地することを願います。

今までの感謝を込めて。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?