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02.「秋はつとめて 冬は夕暮れ」

もう流石に終わった夏を惜しむこともなくなって、すっかり秋が深まった今日この頃。読書の秋を楽しむどころかバタバタとしている内に冬がもう目前に迫ってきている。すごい速さで終わった夏を振り返る暇もない。
世界の終りもこんな風に味気ないんだとすればそれも悪くはないなんて考えてみたけれど、結局のところその時になってみないことには分からないんだと思った。
とりあえず今日も始発列車で家に向かっている。

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そういえばまた秋物の薄手のコートを買いそびれてしまった。「こういったものは夏の内に目星をつけなきゃならないのか」と毎年反省するけど、結局買わないで冬物の厚手のコートに手を伸ばす。最早ルーティンだ。

「秋は夕暮れ コートを買い忘れ いとをかし」

やや字足らず。
清少納言が『枕草子』を書いたのもきっとこんなテンションだと決めつけたくなった。

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それはそうとこの時季に始発で最寄に着くとちょうどほんのりと空が明るくなって、まさに夜明けと言ったタイミングになる。
昨日飲み過ぎたこととかこのあと三時間もしない内にここに戻ってきて電車に乗ることが頭をよぎるが、幸か不幸かロクに回らないそれは事の重大さを計り損ねている。

そんな状況でトボトボと家に向かう一本道を歩いていると急に視界が開けた交差点に出る。光の具合か、はたまたまだ残っているアルコールのせいか普段はなんてことない景色が趣深く感じられる。
「秋は夕暮れ」なんていうけどそんなの物は言いようってな訳で、いつの季節も明け方が一番じゃないかと1000年も前の作者に苦言を呈したい。

「春も夏も秋も冬もつとめて やはりコートは買い忘れ」

やや字足らず。くだらない。

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くだらない冗談でも言ってないとやり切れないような時に、いわゆる古典と呼ばれるような作品を読むと何となく落ち着く。
その気持ちは何も自分に感性があるからではもちろんなくて、なんだ昔から同じようなことを考えている人がいるんだという一種の共感が理由だ。

『枕草子』は正にそんな作品。清少納言が考えていたことと、自分が時々感じる理不尽の本質はそれほど離れたものではないんだと思う文章がちょくちょく顔を出す。
何となくやる気がなくて胸が苦しい。でもやっぱりその理由を他人に(もっというと自分に)説明することはできないから惰性で日々を回してしまう。
今も昔もよくあることだったのかもしれない。

久しぶりに『枕草子』を読み返したくなった。受験生じゃなくなると「よいしょ」と気持ちを作らなければ古典に触れる機会がびっくりするほどない。

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まるで世紀の大発見をしたような気持ちで信号待ちをしているとピュウッと鋭く風が吹いた。やはり秋物のコートを買っている暇はなさそうだ。これはもうすっかり冬の風だ。

その時になって急に季節の変わり目を感じた。「秋はつとめて」なんて言っていたけどやっぱり「冬はつとめて」で正しかったのか。平安時代から変わらず読まれてきた一節に思わず頭を下げたくなる。

冷たい風に吹かれている内に酔った頭もだいぶ正気を取り戻してきた。それと同時に今日これからの予定が次々に頭に浮かんできたが今はどうでもいい。

季節の変わり目にもう少し酔っていることにした。

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