ヘッダー

【4】未知と出会うための感情

 あるはずのものがない、あったはずのものがない。空虚、空白を満たすことが挫かれている。そういうとき、寂しいという感情は顔を見せる。こう書いてみると、寂しさにもやはりネガティブな印象がつきまとう。けれど、今回も考えてみたい。寂しさの顔はネガティブなものだけなのか、もう少し別の寂しさの横顔とでもいうような違った側面はないのだろうか。

世界にたったひとりだったら
 もし、世界に生きているのが最初から僕だけだったとしたら。そう考えてみる。あるいは、他に生き物がいるという記憶が消えて、なにもない星にワープでもしてしまったとする。突拍子もない想像だけれど、たとえばそんなことが起こったら、寂しいと感じることはあるんだろうか?

空白の生まれるとき
 寂しさは空白を満たすことが挫かれているときに現れると書いた。では、空白が生まれるのはどんなときだろうか。おそらく、自分のなかにある空白を知るのは、他者の存在に出会うときだ。自分ではない誰かに自分にはないものを見つけたとき、ひとは自分のなかの空白を知る。
 だとしたら、上に書いたような他者のいない世界では寂しいという感情は生まれないかもしれない。

ひとりではないから寂しい
 僕らがいるこの世界に帰ってこよう。この世界にはさまざまなひとがいる。僕がいて、あなたがいる。だから、空白もたくさん生まれる。そしてその空白は、いつもどこかで満たされない。常に未完のままだ。でも、それは必ずしも悪いことではないと思う。
 さまざまな他者と共にあるから、僕らは寂しい。この世界にひとりではないから寂しい。そう考えてみると、いままで見えていなかった寂しいという感情の横顔が見えてくる気がする。

未知と出会うための感情
 他者によって寂しさが生まれ、寂しさによって他者を求めるのだとすれば、寂しさは僕と未知とが出会うための感情だということもできる。
 誰かと出会って、そのひとの見ている世界を知って、空白がほんの少しあるいは一瞬埋まっては、また空白へと戻ってゆく。完全に埋まってしまったら、未知との出会いは訪れない。それはすべてが既知になること=全知を意味することになるから。
 未知との出会いの原動力のひとつとなるもの、寂しさにはそんな横顔もあるんじゃないだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?