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【6】恐怖に関するいくつかの断章あるいは覚え書き

せらせらさんが恐怖の機能や恐怖がどのように大事かについては書いてくれたので、今回はその記事の内容を受けつつ、僕が恐怖に関して考えていることや抱いている疑問をいくつかの断章に分けて書いてみよう。

断章なのでひとつながりの文章ではないけれど、以下の断章はそのどれもが知ることあるいは知らないことと恐怖について書いている。

知らないことで怖くないこともある
せらせらさんの記事のなかに、分からない・知らない=怖い、知っている=怖くないという話が出てきた。これは感覚的によく分かる。
けれど、知らないことで怖くないこともあるように思う。

怖いもの知らずという言葉がある。怖いものがない、無鉄砲といった意味の言葉だ。多くの場合、僕らは小さい頃のほうが怖いもの知らずだ。同じことをするのでも、小さい頃は怖くなかったのに、大人になると怖くなってしまったという経験をしたことがある人は多いと思う。

ここでは未知=怖い、既知=怖くないという公式が逆転している。未知=怖くない、既知=怖いになっているのだ。おそらく、前者と後者の公式の違いには、「なにが怖いことなのか」を知っているかどうかということが関係している。僕らは成長の過程で怖いもの知らずから、怖いもの知り(なんて言葉は聴いたことないけど)になる。けれど、それだけではないような気もする。

僕らは何を知っているのか
知っていることは怖くないという話について、次のような疑問も浮かぶ。

もし知っていることが、知っていると思っているだけなんだとしたら?

あるものを見たり、あることを体験したりしたとき、僕らはその対象を「あ~、はいはいこれね」と知っているもののカテゴリのなかに入れようとする。そしてひとたび、対象がそのカテゴリに入ってしまうと、その対象を「知っているもの」として処理してしまう。本当はそのカテゴリに収まらないような要素があるかもしれないのに。こうして僕らの中には「知っていると思っているもの」が蓄積されていく。

けれど、その「知っていると思っているもの」に埋め尽くされていくこと自体が、実は怖いことなのかもしれない。「知っていると思っているもの」のそばに、「あ~、はいはいこれね」から零れ落ちたものたちがいくつも転がっている。

好奇心と恐怖
好奇心という感情がある。なにか未知のものを知ろうとする心だ。知らないものが怖いのだとしたら、僕らはどのように好奇心を抱くのだろう?

知らないけれど、恐怖心はなく、むしろ好奇心に従ってずんずん進むという経験はよくある。恐怖を相殺する感情は好奇心なのだろうか?

せらせらさんの記事のなかに出てきた「怖いもの見たさ」という言葉も好奇心の一種だろう。怖いものだと感じているのに、それを知ろうとしてしまうのだ。もしかしたら、知ることで怖いものを怖くないものにしようとする防衛本能なんだろうか?

どうやら恐怖は、未知、既知、知ろうとすること、知りたくないと思うことなどの真ん中あたりで揺れているらしい。

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