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読書における「顕」

今年の初めから、いっぱい本を読むぞ!と意気込んで色んな本を読んできた。

その中で得た気付きを書いていこうと思う。

妄想力があると読書が楽しくなる


私が好んで観ているYouTube動画で、「自分の想像によって肉付けされることで頭の中のキャラクターが完成すること」【顕(けん)】と呼んでいた。

原文は下記だ。

情報の断片がつながって「アイドル」の実体が頭の中で完成する「顕」の瞬間がある。
引用:オモコロチャンネル「アイマスの面白さについて説明したいから少し時間をくれないか【ポプマス】」より

これは、多くの人に覚えがありながらも名前が付けられなかった現象を端的に表現した言葉だと思っている。

これは読書にも当てはまる。

小説の中で、登場人物はストーリーに沿ってのみ生を与えられている。

彼らは描かれたストーリー上にのみ生きる。

例えばその人物が、サイゼリヤで何を頼むのか、ドラクエヒロインは誰派なのか、それは描かれていない。
だけど私たちはそれを妄想することができる。


彼は何でもシェアしたがる性格だから、マルゲリータピザを頼むんじゃないか。

彼は周りに流されやすい性格なので、王道のミラノ風ドリアを頼むのではないか。

とかね。

※ドラクエはやった事ないので例えが浮かばなかった。


全く性質の違う2つの読書


二つ目の気づきは、読書には楽しみ方が2種類あるという事だ。

ひとつ目は娯楽としての読書。

これは小説がまさにそうだろう。

漫画のような手軽さこそ無いが、ストーリーを消費して楽しむ素晴らしい娯楽だと思う。

ふたつ目は勉強としての読書。

これは、知識を得るための本を読む行為を指す。

小説で得られる感情の機微だとかではなく、明確な知識の獲得を目的にするような読書だ。

「読書」というカテゴライズで一括りにされがちだが、これらふたつはかなり性質が違うと思う。

小説を読む人と新書・ビジネス書を読む人は、目的も違えば読書への姿勢も違う。

便利な言葉に一括りにされているような気がして、少しモニョっとするのである。

私はどちらも読むので、どちらかを下に見るような話ではない。

ただ、「違うよね」という話だ。


最後に

読書をしている時は、情報を処理する頭の働きを感じて嬉しいし、確実に「自分で考えること」が増える。

自分の中で、読書で得たヒントが発酵される感じがある。

私にとって読書は最高の娯楽であり教養なので、これからもちまちま読んでいく所存だ。

それでは。

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