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◆読書日記.《ジル・ドゥルーズ『ニーチェ』――シリーズ"ニーチェ入門"15冊目》

※本稿は某SNSに2021年7月22日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。


 ご存知ポスト構造主義を代表する思想家ジル・ドゥルーズによる『ニーチェ』読了。

ドゥルーズ『ニーチェ』

 本書の構成はニーチェの生涯、その哲学、ニーチェ的世界の登場人物紹介、ニーチェ選集と解説本的になってはいるが、実際はドゥルーズなりの解釈によるニーチェ論である。

 ドゥルーズの本を読むといつも思うのだが、彼の書き方はどうも読みにくい。翻訳がマズイのだろうか?
 ……という事で本書はニーチェの入門や解説書としては、若干ハードルが高いかもしれない。ニーチェを直接読んだほうが読み易いかも。

 ニーチェの生涯をまとめた章はわりと簡潔な書き方なので、こちらは別の入門書を読んだほうが詳しい事が書いてあるほどである。

 本書のキモは何と言っても第2章のニーチェの哲学をドゥルーズなりに解釈した部分であろう。これと訳者の解説「ドゥルーズとニーチェ」を読むと、本書の内容はだいたい把握できる。

 ニーチェの思想はそもそも、様々な読みが可能なオープンな書き方をしているというのが特徴で、そのために詩やアフォリズムといった形式になっていると言っても過言ではないだろう。

 詩やアフォリズムだと、ある思想を固定的で一義的な内容ではなく、寓意やメタファーによって示唆的に表現する事ができる。

 だからこそ、大いに誤解されたり、周知の通りナチスのプロパガンダに利用されたりする要因も含んでいるのである。

 ドゥルーズの場合も、やはり自分の思想の中にニーチェ的な要素を消化しやすい形で取り入れたのだろう。
 彼の解釈は他の日本の哲学研究者から比しても独自で、やはりポスト構造主義に接続しやすい形になっている。

 ニーチェ思想の中核的なイデーであるにも関わらず多様な解釈がなされているものと言えば「力への意志」、「永劫回帰」であろう。

 その中でも最も意見の分かれる「力への意志」については、ドゥルーズ独自の視点があって非常に面白い。

 ドゥルーズはニーチェの「力への意志」にありがちな誤解について次のように語る。
 <力>への意志が、「支配欲」を、あるいは「<力>を欲すること」を意味すると信じ込むこと……といった「取り違い」をする事を諫めているのである。

 <力>への意志は相互の差異によってのみ成り立つ示唆的な境位(エレメント)であって、そこからある一つの複合体に置いて向かい合う諸力が派生し、またそれら諸力のそれぞれの質が派生してくるのである。だから<力>への意志はまたいつもの動性に富む、軽やかな、多元論的な境位として提示される。(ドゥルーズ『ニーチェ』より)

 ここで出てきたように、「力への意志」についてもドゥルーズの「差異」論が出て来るのである。

 つまりニーチェの「力への意志」の<力>というのは、「支配欲」や「力を欲するもの」といった単体で成り立つイデーではなく、「差異」によってしか定義しえない諸力を意味している。
 だから多元論的で、一義的なイデーにはならないのである。

 そして「力への意志」に存在する「二つの質」をドゥルーズは能動的である事と反動的である事としている。

 この諸力の二つの質的ベクトルによって、人は様々な価値評価の諸原則を見出す、というのがドゥルーズの考えていた事であったようだ。聊か抽象的な議論過ぎて分かりにくいとは思うが。

 では、ドゥルーズは「力への意志」の「能動的な事」とはどういう事だと言っているのかといえば、それがニーチェが様々な「徳」を説明している時に示している「作り出す」や「与える」という部分である。
 それに対して「反動的な事」が存在し、ニーチェはそれを批判している、というのがドゥルーズのニーチェ解釈だった。

 「反動的」な「力への意志」というのが、つまりは西洋伝統思想に繋がり、そこから発展していってニヒリズム論に至るというわけである。

 学問によって規定し、ルールを作り、道徳を設置し、人々を統制し、「道徳的な人間」になるように教育が行われていったというのが、西洋の伝統的な学問の在り方であった。

 ニーチェからしてみれば、民主主義のような平等主義は、ニーチェのような奔放な、脱時代的な才能の人間の足を引っ張るだけのものであった。
 西洋の伝統は、そういったアカデミズムから外れる才能を阻害していったわけである。
 少年時代のアインシュタインが学校教育から外れてしまったようなものである。

 また、キリスト教道徳も、ニーチェのような人間に足かせを嵌めるように見えた。
 苦労をし、耐え忍び、悦びや快楽を否定してひたすら祈る「道徳」というものは、奔放に発展しようと拡散し、自由に行動するイノベーティブな人間を、ある一定の型にはめ込んで、管理しようとするものだと考えたのである。

 西洋の学問は、どうしてそのように発展したのか? そして、キリスト教道徳は、どうしてそのように発展したのだろうか?

 ……ニーチェはその根源にある要因をある種の「ニヒリズム」に見たのである。

 古代ギリシアの時代には学問にも存在していたディオニュソス的な熱狂、情熱、奔放、陶酔……それらが失われたのは、ソクラテスからだった。そして、西洋の学問の根源は、そのソクラテスから積みあがって行った。

 その当時、ヨーロッパを席巻していたニヒリズムの根源が、そのソクラテス的な主知主義の伝統にあったというのである。

 固定し、定義し、一義的なものに規定してしまう静的な諸力の勝利である。

 ニーチェによる、ヨーロッパ伝統思想や価値評価を転換するための戦略と言うのが、この「力への意志」の内の「反動的な諸力」を能動的なものに転換する事にあった。

 肯定とは意志の最高の<力>である。しかしなにが肯定されるのか? 大地、生……などである。(ドゥルーズ『ニーチェ』より)

 大きく外れているとまでは言わないが、この解釈は非常に体系的で感動すら覚える。

 だが、せっかくのニーチェの「拡散的」思想を体系化してしまっても良いものだろうか?という疑問もなくもない。

 特に本書での永劫回帰思想の解釈は、他の論者の解釈と比べて非常に独特なものがあり、「それアリなんだろうか?」とさえ思ってしまう内容である。
 永劫回帰の「一切が回帰する」という考え方は、あくまで『ツァラトゥストラ』内の過渡的な段階の考え方であり、理想形は「一切が回帰する」ものではないというのだ。

 ドゥルーズの解釈では、ニーチェの永劫回帰が、否定的なもの、反動的なものまでもが回帰するはずがない、ニーチェはあくまで、その永劫回帰の遠心力によって様々な反動的なものは振り落とされ、「選択的に、能動的に動いているものの生成として」回帰が行われる、という趣旨となっているのだ。

 そう言った不純物を振り落とすサイクルとしての永劫回帰であり、肯定的な能動性を選択していく<反復>としての姿が、永劫回帰の本来の姿だ、というのである。

 ここでドゥルーズの<反復>が出て来るわけだ。
 つまり<差異>と<反復>である。ドゥルーズの主著の内の一つのテーマがニーチェ思想に出そろっているのだ。

 そう言う意味で、この解釈も若干ドゥルーズの思想に寄せた形で解釈しすぎているのではないか、とも疑問に思ってしまう。

 しかし、逆に言えばニーチェの思想は上述したオープンな思想形式であるからこそ、そういった周辺思想に取り込まれても機能するだけの柔軟性を持っていた、という事なのかもしれない。


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