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◆読書日記.《江原順『日本美術界腐敗の構造』》

※本稿は某SNSに2021年12月6日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。


 江原順『日本美術界腐敗の構造』読了。

江原順『日本美術界腐敗の構造』

 本書は1978年に刊行されているので、40年以上前の「告発」となる。

 著者は「美術批評」「美術手帖」「ユリイカ」等に仏文学・芸術を紹介していた美術評論家。国際美術評論家連盟フランス支部員でもある。

 日本とヨーロッパの美術活動の橋渡し的な役割をしていたが、恐らく本書の告発で日本と決別したのだろう。

◆◆◆

 本書は古本屋でお安く手に入れられて興味もあるテーマだったのだが、それだけ昔の本だと、情報が古くなっているだろうと思って今まで読まずにいた一冊だ。

 だが最近、古賀太『美術展の不都合な真実』を読んで日本の現在の美術展の仕組みが分かったので、そのついでに四十年前の情報を確認してみようと思ったのである。

 古賀太『美術展の不都合な真実』のほうであまり確認ができなかったのは、美術界の「利権構造」についてであった。

 というのも、最近の日本の美術展はあまり金銭的な「うまみ」があるようには思えず、入場料の予算構造から言ってもさほど莫大な利益の出る展覧会は少ないからだ。

 そのため、主催となる新聞社やマスコミは赤字回避のために広告宣伝を盛大に行い、学術的な成果よりも派手で一般ウケする作品を分かり易く展示し大量動員を煽る……あげく日本の美術展は「アミューズメント化」する。……というのが『美術展の不都合な真実』に書かれていた内容であった。

 しかし、それでもこの中には「利権」的なものもなくはない。

 例えば、公立美術館の館長というポストはかなりの部分、文科省や自治体などの天下りポストと化している。

 近頃の美術展で「主催」を多く担当しているマスコミの文化事業部というのも、外交的に「箔が付く」という意味では金銭的なものではないものの、担当者個人としては確実に「うまみ」的なものがあるし、海外の美術館に「視察」のために出かける一団なども美術展関係者の特権の一つであった。

 だが、予想した通り昭和の時代はもっとデタラメが横行していたようである。

 本書に書かれていたもので言えば、例えば美術作品を収集し始めた美術館が、作家から提供してもらった作品の「代金をいただいていないとか、展示してあげるから貸してくれないかということで渡した作品が、いつのまにか館の所蔵品になっているなどという」事があったそうである。
 更に、意地でその美術館から代金を支払ってもらった作家が、その後日本国内のめぼしい展覧会からほぼ締め出されてしまった、などという話まであるという。

 こういう作家や作品に対するリスペクトがいまいち足りないのは、上述したように日本の多くの公立美術館の館長が美術にかかわってきた人間ではないからだという事も言えるのだろう。

 日本の美術展に関わる利権構造というのは、美術展自体がさほど多くの利益を生まないために、目立ったものはないのではないかとは思う。

 だが、これが画廊など「美術マーケット」となると話は違ってくる。以前も七尾和晃『世紀の贋作画廊』でご紹介したように、日本の美術マーケットは特に政治家の資金繰りや贈賄、インサイダー取引的なもの等に美術品が利用されている事が多い。

 多くの美術書でも指摘されている事だが、本書でも日本の「真贋」の特定についての「だらしなさ」について批判されている。日本は四十年前から真贋鑑定については非常にルーズな感覚でいたのである。
 だから、美術マーケットでも正規の展覧会でも、平気で真贋の怪しい作品が紛れ込んでしまう。

 ヨーロッパではこういった真贋の特定については厳しくチェックがなされている。

 フランス美術館局では、(1)既成の、学問的に権威のある総カタログに登録されているものとの同一性が保証されるもの、(2)従来のカタログに載っていない新発見の作品については、ルーヴル科学研究所の素材分析、専門家による様式分析、出所の追求によって、真作の完全に保証されるもの以外は展示を許可しない(本書より引用)

 ――という基準が厳しく決まっているので、例えばピカソの遺族によって寄贈された作品についてもこの手続きを経ないで公表される事はなかったとさえ言われている。

 日本の美術展は、そもそも「専門家」が展覧会の準備を行うのではなく、主に主催たるマスコミの文化部の人間が執り行っているために、厳密な真贋調査というものが行われているかどうかというのは、正直怪しいとしか言いようがないし、事実、本書に書かれている四十年前の時点では行われていなかった。

 本書で挙げられている例としては、とある日本の百貨店の企画展「アンリ・ルソー展―素朴派の世界」のカタログを見たフランスの専門家が、カタログの図版に「F(贋作)」と赤で記してみると、Fがその図録の約半分を占めてしまったという。

 このように本署の著者が展示物の真贋を問題にしたら、日本から数多くの脅迫めいた手紙、出版社への中傷的投書、その他さまざまな圧力等々を受け取った……と言う話まであるという。

 日本の展覧会の図録は資料的な価値を考えていないという事だ。

 何より、七尾和晃『世紀の贋作画廊』にも書かれている通り、日本のコレクターは真贋鑑定をされるのを嫌うし、美術館も収蔵作品の真贋鑑定を積極的にはしたがらない。

 だから、七尾和晃『世紀の贋作画廊』に書かれた「イライ・サカイ事件」という超巨額の国際的贋作詐欺事件に関してさえも、日本では曖昧に終わってしまい、イライ・サカイの罪も米国でしか問われていない。

 日本の真贋問題は昔から斯くもぐだぐだでやってきているし、これが日本の美術マーケットに巣食った利権構造によって堂々と「裏取引」的なやりとりがなされている原因の一つともなっている。

 この美術作品に関する日本の意識の低さの理由の一つには、ヨーロッパからの物理的・精神的な距離感というのもあるだろう。
 周囲から隔絶された島国だからこそ、美術に関する意識やルールについても、欧米からしてみたら常識外れのガラパゴス化した常識や仕組みがガッチガチに出来上がってしまっているのだ。
 これではもう今から変える事は難しいだろう。

 今後も日本の一般人からしてみればアートというのは学術的なものでも教養的なものでもなく、本来の意味での「芸術的なもの」でさえもなく、商業イラストやマンガと大して変わらない「娯楽」の一変種であるという意識は変わらないだろう。

 こんな状況では、日本全体のアート・リテラシーも上がるはずもなかろう。

◆◆◆

 ――さて、以上の様に本書は昭和当時の日本の美術業界が、いかに欧米の美術業界の常識と隔絶した仕組みや考え方を持っていたかという事を指摘しているという意味では、貴重な記録なのかもしれない。

 しかし、「日本美術界腐敗の構造」とやや硬いタイトルにしては、内容は系統立っているものではなく、様々な雑誌に寄稿した原稿を集めた文集、といった内容で、その点ではやや散漫な印象がある。

 著者自身が体験した個人的なエピソードをメインとして四十年前の日本の美術業界の状況を説明しているので、俯瞰的で体系的な情報に欠け、本書の最終的な結論、といったものも見受けられない。
 という意味では本書は美術業界の「時事的な問題」を指摘した文集なのであろう。

 しかし、それにしては本書の「まえがき」にある言葉は「この本を書くか、書かないか、随分迷った」と、随分な決意を表明しているのはちょっと気になる所だ。

 恐らくこれは、本書の最後の部分で、当時の美術業界のけっこうなオエラ方と思われる人物について(名前を伏せてはいるものの)その横暴なふるまいを糾弾している部分の事を言っているのかもしれない。
 あの瀧口修造を「小物」呼ばわりするくらいだから、相当の大物だったのでは……と思われる。

 いやはや、なぜ日本は、こういうメンタリティの人間が業界のオエラ方として居座ってしまうのだろうか。


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