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◆読書日記.《フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ『善悪の彼岸』――シリーズ"ニーチェ入門"14冊目》

※本稿は某SNSに2021年6月29日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。


 フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ『善悪の彼岸』(光文社古典新訳文庫版)読了。

ニーチェ『善悪の彼岸』

 本書は『ツァラトゥストラ』で提示した様々なテーマをアフォリズム集という形式で展開したもの。

 『ツァラトゥストラはかく語りき』は、ニーチェが渾身の力を注いで世に問うた一世一代の一冊であったにもかかわらず、世間からはほとんど反響がなかったという事に、どうやら失望していたようなのである。

 ニーチェ渾身の一冊だった『ツァラトゥストラ』は単なる「高級な文体練習」としか見られなかったという。

 理解されなかった事で諦めるニーチェではなく、珍しく彼は世間にもっと別の形式で以て説明しようとしたようなのである。
 そこで『ツァラトゥストラ』と同じ内容のものをニーチェお得意のアフォリズム集を使って書いた。それが『善悪の彼岸』だったのである。

 しかも本書は、アフォリズム集としては結構整然としている。
 構築的な論理の組み立ては行っていないものの、一章ごとに「第一篇・哲学の先入観について」とか「第二篇・自由な精神」とか「第三篇・宗教的なもの」といったように、あらかじめ語るテーマ毎にアフォリズムをまとめている。

 ニーチェはブレないなあと思わざるを得ない。

 ニーチェは繰り返し、『ツァラトゥストラ』で幾度も語ったテーマを本書で再度、様々な角度から語り直しているのである。

 第一篇の「哲学の先入観について」は、西洋の伝統的な思想・哲学の批判を扱っている。ここでのニーチェの論旨はハイデガーに近いものがある。

 ドイツ観念論に至って最高度にまで構築されてきた西洋哲学的な論理学であったり認識論であったりといったものは、ソクラテス‐プラトン‐アリストテレスによって固められた哲学観から発展してきた。

 西洋が当たり前のものとして使ってきた哲学的考え方の基礎となっているものは何なのか、そこから見直そうとしたのである。

 つまりは、近代西洋哲学の根本的な問題というのを指摘するために、ニーチェはその基盤となった古代ギリシアの「終焉の始まり」まで遡ってその根本的な過ちを示したのである。
 これはハイデガーと同じく、伝統的な西洋的常識を覆すために、その構築性の土台となった古代ギリシア思想まで遡って批判するという戦略である。

 そしてそれはニーチェの処女作である『悲劇の誕生』から一貫してニーチェが使っている戦略でもあった。

 ニーチェはブレないのである。

 ニーチェが近代批判をするために古代ギリシアをしばしば用いたのは、彼が古代文献学者という出自を持っているというのが一つと、当時の新人文主義が持っていた古代ギリシアに理想を見る考え方からの影響があったからでもある。

 ニーチェは続く第二篇「自由な精神」において、西洋の常識的な考え方を疑うべきだという姿勢を打ち出す。

 「道徳」というのものは宗教者の都合によって作り上げられてきたものであるし、「善悪」というものもある種の哲学的なドグマティズムでしかない。

 哲学はプラトンの時代から「真理」とは何かを求めてきた。だが、ニーチェから言わせればそんなものはないのである。

 ニーチェの考え方はパースペクティヴィズム――個人個人の立場や無意識的な欲動の視点からしか「真実」はありえない。

 西洋では伝統的な論理学に従って様々な判断がなされる。
 だが、全てはロジックに従って判断していると思い込んでいる所で、過去にはそういう「論理」に従って様々な詭弁や誤謬やパラドクスが生じてきているのである。

 どうして「論理」に従ってそういったあらゆる誤謬が生じてしまっているのか?

 誰もが「神の視点」など持てず、完全な客観的視点を持って完璧な公平さで論理を操って判断できる人間などいないからである。
 「論理的に判断した」という、その判断には必ず「私が」という主語が隠されているのである。

 その「私の-判断」には公平性は存在せず、必ず無意識的な欲動のようなものが伏在している。
 「論理的に考える」以前の契機として「私が欲したから」という人間的欲望が入る余地がある。となれば論理も単なる人間の欲望を叶えるための「便利な道具」でしかなくなってしまう。

 論理の中に無意識に紛れ込む「私が欲した」によって論理が歪んでしまうという問題は、確かに詭弁が生まれる理由の一端を指摘していて非常に面白い意見だ。

 そう考えたからこそ、ニーチェは哲学者たちが求めていた「真理」などは結局ありえず、全ては個人的な欲望相関性である「パースペクティヴィズム」でしかない、と批判したのであろう。

 このニーチェ的な観点に従って、続く第三篇「宗教的なもの」第五篇「道徳の博物学のために」によって、キリスト教批判、西洋の伝統的な道徳観が批判されていく。

 けっきょく本書『善悪の彼岸』と言うのは、これら全て『ツァラトゥストラ』によって語りつくされてきたテーマの、アフォリズム的な変奏曲なのである。

 しかし、ニーチェはこの『善悪の彼岸』によっても、世間からの理解を得る事はできなかった。

 そこで更にニーチェは妥協して――なのか、ニーチェの著作にしてはかなり珍しく「論文形式」を使って更に『ツァラトゥストラ』の主題を敷衍しようと試みる。
 それが『道徳の系譜学』という一冊となるのである。
 ニーチェの最適な解説書は、ニーチェの著作において他になし。更にニーチェの変奏曲は続いていく。

◆◆◆

「ドイツ人には肉体からしても意識からしても、道化師やサテュロスを演じる事は向かないし、アリストファネスやペトロニウスを翻訳する事もできない。ドイツで様々に発達したのはどれも、重々しいもの、粘着性のもの、儀式ばっていて不器用なもの、すべての長たらしくて退屈な文体である」――ニーチェ『善悪の彼岸』より

 ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』にはしばしば主人公のツァラトゥストラの敵として「重力の魔」が現れる。
 ニーチェほど「重々しさ」を嫌った哲学者も珍しいかもしれない。
 だからこそロジックを延々と積み重ねていく"重たい"論文形式の書籍は好かず、自らはアフォリズムという形式を好んだのだろう。

 ニーチェにとってはゲーテでさえ「堅苦しさと優雅さの混合であり、その例外ではない」としている。
 こういう重々しさを称して「自由闊達な精神の思想を面白く大胆なニュアンスで語る事は、ドイツ人には不向きだと結論しても、間違いではないのである」とさえ指摘する。

「自由闊達な精神」を求めたニーチェにとって、そういった「重さ」は忌々しいだけだったのではないか。

 ニーチェは、面白く、大胆なニュアンスで〔軽やかに〕語る哲学を求めていたのだろう。

 ニーチェは自著にしばしば自作の詩を入れたのも、そういった「軽さ」への志向があったからであろう。

 アフォリズム集『善悪の彼岸』にも詩を掲載している。

 くどくどと一から説明をせず、示し、暗示し、譬え、促すポエムは、ニーチェにとって「軽かった」のだ。

 上に引用した文章はニーチェのドイツ文体論でありディスクール論でもある。言語は、それを操る人の思想にある一定の影響を与えるという考え方である。

 『善悪の彼岸』には「ウラル・アルタイ語圏(ここでは主語の概念の発達が極めて遅れている)の哲学者たちはおそらく、インド・ゲルマン語圏の哲学者たちや、イスラーム教徒たちとは違ったまなざしで「世界」を眺めるだろうし、もっと違う道を歩む事になるだろう」とも指摘している箇所がある。
 これをニーチェは「特定の文法の機能をもたらす呪縛」と表現している。

 ニーチェにとってドイツ文法の「重々しいもの、粘着性のもの、儀式ばっていて不器用なもの、すべての長たらしくて退屈な文体」は文字通り呪わしい「呪縛」だったのだろう。

――因みに「ウラル・アルタイ語圏」に属する日本語もまたニーチェが言うように「主語の概念の発達が極めて遅れている」と言われている言語である。


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