◆レビュー.《映画『万引き家族』》
※本稿は某SNSに2019年7月21日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。
昨日はフジテレビの土曜プレミアムで是枝裕和監督の映画『万引き家族』、初めて見ましたよ!
今日は、その感想を書こうかと☆
ちなみに今回はネタバレ有の感想にせざるをえませんでしたので、それを踏まえたうえでご笑覧頂ければ幸いです♪
<あらすじ>
東京の下町に暮らす柴田治と信代、祥太、亜紀、そして初枝の5人は古びた平屋に身を寄せ合って暮らしていた。
治は不定期の日雇い仕事を、信代はクリーニングの工場でパートをし、それに初枝の年金を合わせて暮らしていたので5人家族では生活資金が足りず、治は小学生の祥太を連れて万引きを、初枝はパチンコ屋で近くの人の玉を盗み、亜紀は風俗で働いて糊口をしのぐ毎日だった。
治と祥太は万引き後の帰路にあったある寒い夜、家の外に出されて震えている少女を見かける。見かねた治は少女を自分の家に連れて行ってしまう。
少女は「ゆり」と名乗った。
大人しいゆりは自分から何も話そうとはしないが、彼女は痩せていただけではなく、体に火傷や傷跡が見られ、どうやら両親から虐待を受けていた形跡が見られた。
翌日、治と信代はゆりを元いた家に帰そうとするが、その家の前で偶然、両親と思われる男女の激しい諍いの声や「産まなければよかった!」と泣き叫ぶ女性の声、等々が聞こえてきたことがきっかけで、ゆりを自分の家に置いて一緒に生活していくことに決める。
かくして少女ゆりは「りん」という偽名を与えられ、この奇妙な「家族」の一員として暮らし、少しずつ彼らに心を開いていくこととなるのだが……。
<感想>
【注意!】以下、ネタバレ有の感想です【注意!】
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ぼくとしては本作は非常に面白かったのだが、しばらくいかに感想を書いていいものか、考えをまとめるのにけっこう時間がかかった。
というのも本作は一筋縄ではいかない様々な要素がかみ合った作品であるというだけでなく、作者のメッセージを分かり易く「答え」として前面にプッシュするタイプの分かり易い映画ではないからだ。
AMAZONのレビューや映画のレビューサイトなどで散見される、本作が「全くつまらなかった」という意見も一部、頷ける部分がある。
それは何故かというと、本作はいろんな意味で視聴者を混乱させる要素があって、ちゃんと頭を働かせながら見ないとけっきょく結論は何だったのか、作者は何を主張したかったのか、という「ハッキリとした答え」を見つけられずに煮え切らないような感覚を覚える人が出てきてもおかしくはないと思えるからだ。
こういうタイプの映画は、安易にカタルシスを与えてはくれないし、やすやすと感動させてはくれない。
本作の登場人物は、犯罪を行うことで厳しい世間から生き延び、些細ではあるが幸せを感じられる生活を送っているように見えるので「作者はこの家族の形を肯定しようというのかな?」と思わせておいて、ラストはこの家族の行為について社会一般がいっせいに「犯罪」だと断定し、非難を浴びせてきて全てを否定してしまう。
じゃあ、果たして「万引き家族」として集まった「疑似家族」という社会からの避難場所は、正しかったのか正しくなかったのか?
……こういう疑問を持って混乱してしまった人は、わりと正しい感想を持ったのではないかとぼくは思うのだ。
この映画で描かれたシチュエーションというのは、正しい部分もあり正しくない部分もあり、一概に「正しい/正しくない」という単純な結論には至る事が出来ない決定不能な問題を抱えているからだ。
だが、それで「わからない」から「つまらない映画だ」と簡単に投げ出してしまってはいけない。
この映画に関わってしまったぼくらは、この問題についてそれぞれちゃんと真剣に考えなければならないという課題を是枝監督から課せられたのではないかと思うからだ。
(ちなみに、是枝監督の『そして父になる』などそれまでの作品の関連から本作を「家族とは?」という切り口で論じている評論はいくつか見られました。本作について「家族」という観点は、是枝監督のインタビューなども含めてけっこうある見方ではないかと思います。ということで、同じ観点で論じても面白くはないと思いましたので、今回ぼくはあえて「家族」という観点ではなく「犯罪」という観点から本作を語っていきたいと思います)
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一応、このことだけは最初にハッキリ言っておくが、ぼくはこの家族の核となった治と信代の万引きや車上荒らしなどといった犯罪行為までも擁護する気はない。
ぼくが嫌な点は、治や信代などのルーズな倫理観、子供にまで万引きをして生きていく方法を教えるという人間的な弱さ、だらしなさだ。
貧乏していてなお楽しく生きていかなければならないのは厳しいし、辛いだろうし、必ずしも全員が清貧に生きていけるというわけではない。
実際いまもアフリカでは犯罪をしなければ生きていけないような治安情勢だったり凄まじい貧困だったりが蔓延する社会も存在する。そういう人たちのことも含めて考えてみても、全員が全員「清貧・潔癖であれ」とはとても言えない。
だが、この映画を見ると、どうしてもどこか歯がゆい思いが湧き出てきてしまうのだ。
両親から激しい虐待を受けていながら、世間がその事に気付かず孤立して内向していく少女ゆりについても、パチンコ屋の駐車場でサウナ状態の車の中に一人で放置されていた祥太についても、もっとまともな倫理観を働かせるべきだったのではないかと思ってしまう。
あれでは、彼らは戸籍を消失した状態で生活しなければならず、そのせいもあって祥太は学校にも通えなかったではないか。その挙句に万引きで生活していく方法を教えると言う緩んだ倫理観しかないのだったら、彼の人生を引き受ける資格があるとは思えない。
祥太は、例え子供の時に蒸し風呂状態の車の中での死を免れていたとしても、そういう親元にいたのならば何らかの別の要因でけっきょく死んでいたかもしれないし、そういう親元で育つことが必ずしも幸せになる道だとは限らないだろう。だが、治と信代の「万引き家族」の中にいる祥太も「車の中で死ぬ運命より多生マシ」な状態になったに過ぎない。
最後に信代が治に言ったように「あたしらじゃダメなんだよ」と気付いたのは、せめてもの救いだったと思いたい。
本作の「万引き家族」というコミュニティは、社会からドロップアウトしたり見放されたりした人たちが集まってできた「反社会的集団」とも言えるだろう。
そういう見方をすれば何のことはない、こういったものが大規模に組織化されていくと「マフィア」になっていくのではないか。マフィアもそういう人たちが集まって「ファミリー」となっているではないか。
こういった集団は、世間の正道を外れて生きていくしかない者たちが集まって、他に行くべきところがないからこそ、絆が深くなるのではなかったか。
今年放映していたアニメ『ジョジョの奇妙な冒険 黄金の風』をイメージすると分かり易いだろう。ブチャラティと組んでいる仲間たちも「万引き家族」と同じ社会からのドロップアウト組だった。
日本の暴力団もそれに近い反社会的集団と言える。だから暴力団も「疑似家族」となる。「親分」と呼び、「子分」「弟分」と呼び、「オジキ」と呼び、「姐さん」と呼ぶ。
そういう見方で考えてみれば、家族や社会から虐げられドロップアウトしてしまった人たちが集まってできたコミュニティが、反社会化するロジックというものの一端が映画『万引き家族』には見られるのかもしれない。
最近読んだ本で感心した意見がある。精神科医/作家のなだいなだの著作の『民族という名の宗教』で主張されている考え方で、「家族」というものをある種の「人をまとめて、集団として結束を固めるためのイデオロギー」であると説明しているのだ。
人間はどこの誰とも知らない赤の他人とは、結束して集団になる事はない。
「個人」が「集団」となるためには、何かしら「人がまとまる原理」が必要になる。その一つの原理が「家族」であると、なだは説明するのだ。
(因みに、集団同士が争い合う中で人員が数百人、数千人、数万人……と膨れ上がり、その規模の人々をまとめ上げるには「家族」という原理ではとてもまとめきれなってくるので、権力者たちが新たに利用し始めた「人をまとめる原理」が、「国家」とか「宗教」とか「民族」というイデオロギーだった……というのが『民族という名の宗教』の主張だった)
「集団の中の人間」というのは、つまりは「赤の他人ではない」と言う事を意味する。
『万引き家族』の劇中で集まったこの疑似家族は、世間からドロップアウトしたり、自分の所属する集団から疎ましがられたり、何かしら世間に対して馴染めない人々だった。
集団の特徴というのは「人がまとまる原理」が働くと同時に「自分の集団以外の人間を"赤の他人"だとして排除する」という原理も生み出されてしまう。
世間に対して馴染めないものを感じていた人々が集まったこの「万引き家族」は、彼ら以外の一般世間を「赤の他人」だと認識するのである。だからこそ、万引きをしても車上荒らしをしても、彼らには大した「罪」の意識が発生しないのだ。集団としての仲間意識は、この疑似家族の中で完結してしまっているのである。
この意識が強く働いている象徴的な出来事は、祖母である"初枝"が亡くなったときのエピソードに現れているのではなかろうか。
家族の人間が亡くなった場合、どうしなければならないのかと言う問題に直面する事で、この家族はある種の倒錯心理を露わにしてしまう。
"初枝"が亡くなれば、彼らは一般世間と否応なく関係を迫られてしまう。
"初枝"の葬式をすれば、彼女の本当の親族を集めなければならなくなり、"初枝"の本当の家族と対話をせずにはいられまい。"初枝"の年金を生活資金に使う事はできなくなるし、この疑似家族についても世間の視線にさらされなければならなくなる恐れがあった。
「万引き家族」たちは、自分達の事情にそういった「赤の他人」である一般世間の介入を許す事よりも、"初枝"の亡骸を自分達で始末する事を選ぶのである。
彼ら「万引き家族」は、自分達を排除してきた「他者」である一般世間が、自分達「家族」の中に侵入してくる事を許容できなかったのではないだろうか。
これは、自分達「疑似家族」の結束を守り、一般世間を排除する「集団という名の原理」が、彼らに働いていたと言う事を意味しているのではなかろうか。
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さて、お気づきの方も多いと思うが、この映画は近年日本で実際に起きた社会問題をいくつも下地にして作られている。
両親から虐待を受けて真冬の夜中にベランダに出され凍えていた少女ゆりのモデルは、記憶にも新しい2009年に発覚した「西淀川区女児虐待死事件」の被害者だと思って間違いあるまい。
少女の母親とDVを行っていた男性が、虐待の末おしおきとして少女をベランダに締め出したところ、少女が衰弱死してしまったので遺体を奈良県に埋めた、という痛ましい事件だった。
幼い頃、パチンコ屋の駐車場でサウナ状態の車の中に一人で放置され、熱中症でグッタリしていたところを発見した治と信代に助けられ、以後彼らの息子として育つことになる少年・祥太のモデルは、2017年に静岡県湖西市のパチンコ店の駐車場に止めた自動車の車内で熱中症にかかって死亡した男児――父親は車にこの1歳の男の子を置いてパチンコをしていた――であろう。
その後、奈良県で駐車場の車内に放置された9歳の男の子が死亡、山口県でもパチンコ屋の駐車場で生後2か月の乳児が死亡するという、同様の事件が続いた。
『万引き家族』で描かれるゆりと祥太という二人の子供は、ひょっとすると死亡する運命にあった子供たちが、何かのきっかけで「治と信代に拾われた」というパラレル・ワールドに分岐した姿だったのかもしれない。
身勝手な大人たちのために死んでしまった子供たちを思うと、祈りに似た感情も込めて、そんな想像をしてしまう。
信代はホステス時代、夫のDVにあい、正当防衛の元に治と一緒に夫を刺し殺している。これもどこかにモデルとなる事件がありそうだが、ぼくは寡聞にして知らない。
初枝が亡くなったさい、葬式代も出せない治らは初枝が亡くなったことを「なかったこと」にして家の下に埋めてしまい、初枝が生きているものとして年金を不正受給していた。これは2010年に東京都足立区の民家で戸籍上「111歳」の男性の遺体が見つかり、その子供らが年金を不正受給したとして詐欺容疑で逮捕された事件が元となっている。
亜紀が通っていた風俗は、2018年に一斉検挙されたマジックミラー越しに女性が下着を見せる「女子高生見学クラブ」事件が元ネタだろう。
こうして見てみると良くわかるように、この映画で身を寄せ合っている5人は全員、現実で社会問題となった実在の事件がモデルとなったエピソードを抱えているのである。
彼らは、実際に起きた現実の日本の社会問題の集合体なのである。
主要登場人物に全員、日本で近年センセーショナルに取り上げられた社会問題が付いて回っているというこの設定は、冷静に見ると若干フィクショナルに思えてしまう。
だが、ぼくはこの映画は、どこかそういう実際に不幸な出来事に見舞われた人たちがパラレル・ワールドに迷い込んで一つの家に集まり、世間には知られずに寄り添い「現実よりもちょっとだけマシだった人生」を演じているかのように見えて、とても悲しくなってしまうのだ。
彼らはいずれも誰かに見捨てられたり虐げられたりして人生の正道からも社会の正道からも逸れてしまった人たちで、それが奇妙な縁で一つ屋根の下に集まった奇妙な家族なのである。
そんな不幸な人たちがささやかながらも海水浴に行って、まるで本当の家族であるかのように仲良く遊んでいるシーンを見せられてしまっては、そのあと映画の後半に続く「万引き家族」らをバッシングする様々な「社会正義の人たち」の「とげとげしい正論」というのは、いったい何のための正論なのだろう、いったい、何のための社会正義なのだろう、と混乱させられてしまうのだ。
だが、このように視聴者の「正義の感覚」を揺らがせる強烈な爆弾が仕掛けられていたところに、この映画の本当の真骨頂があったとも思えるのだ。
◆◆◆
ぼくは過去、犯罪学関連の本を読んだときのレビューなどでしばしば「犯罪者になるかならないかの差は、"巡り合わせ"の差でしかないのではないか」と発言している。
例え、極めて強い攻撃性パーソナリティを持っている人でも、例え悪意の塊のような性格をしている人でも、犯罪者にならずに普通の社会人として生活をし、あまつさえ社会に大きな貢献をする人も存在している。
どんなに精神的に重度の障害を持っている人でも、どんなに性格的に問題のある人物でも、犯罪をしない人は一切犯罪にかかわらずに人生を送っている。
犯罪者になる人間というのは、遺伝や性格などであらかじめ決まっているわけではない。そんな単純な事で人間は、犯罪を起こすものではない。ましてや「生まれながらの犯罪者」なんてのもいない。
犯罪は生活環境や育成環境、生活習慣、家族や友人知人などのコミュニティ関係、性格、周囲の治安状況、その他の様々な悪い要因が複数重なり合って、初めて行われると言われている。
逆に、心理学の「ミルグラムのアイヒマン実験」や「スタンフォード監獄実験」でも実証されている通り、どんなに人が良くて悪意のない人物でも、巡り合わせによっては残酷な犯罪に手を貸してしまう事となる。
繰り返し言うが、犯罪というのは「犯罪するような性格の人だから犯罪をする」といった単純な問題ではない。
だからぼくは思うのだ。
犯罪の被害者になることも、犯罪の加害者になることも、すべては巡り合わせが悪かった、としか言いようがないのではないかと。
「絶対に犯罪の加害者にはならない」という人など、本当にいるのだろうか? ぼくには、そうは思えないのだ。
だからこそぼくは、この人生でたまたま犯罪の被害者となってしまった罪のない人たちを可哀そうだと思うのと同じように、この人生でたまたま犯罪の加害者という巡り合わせになって罪を犯してしまった人たちに対しても、哀れみを感じるのだ。
「正義」の側から、この映画の「万引き家族」をバッシングするのは簡単だろう。
実際に、この映画と同様の事件が起こってニュース等で報道されれば、たちまちSNSやらTwitter界隈ではこういった犯罪者を「クズ」やら「死刑にしろ」やら罵倒する「正義の人」たちで溢れ返るだろうことは容易に想像できる。
彼らは「明日は我が身かもれない」という可能性を考えたことが、少しでもあるのだろうか?
「万引き家族」にも、それぞれ事情があるということにまで想像が及ぶ人が、いったいどれほどいるのだろうか?
信代と治は、虐待された少女ゆりを保護するために、悪意もなく「誘拐」という犯罪によって救済しようとした。
そして、そういった悪意のない犯罪者に対して、マスコミは正義の名の元に悪意をむき出しにして、理解できない犯罪を犯した者を糾弾する。
この映画の視聴者は「万引き家族」の内部の事情を見てきているからこそ、この「正義」の糾弾に違和感を覚えるに違いない。上述したように、それが我々の「正義の感覚」を揺さぶっているということに他ならない。
ここでも分かるように、我々はこういった事件について「犯罪を犯した奴は悪い」といったような単純な理解や単純な正義感だけで終らせてはならないと思うのだ。
何でもかんでも安易に問題を単純で分かり易い構図に収めて理解しようとしてはいけないのではないか。
逆に言うと、犯罪に関してこういった複雑な状況を理解しようとせず、「単純な理解や単純な正義感」だけしか持っていないタイプの人こそが、こういった犯罪に対して遠慮会釈なく罵倒することができるのではないだろうか。
◆◆◆
以上のように、本作の主要登場人物である「万引き家族」たちは、倫理的に考えれば非難すべき点もあれば擁護すべき点も存在している。
つまりは、「万引き家族」らの姿勢を、"単純に"正しいと考える人にも、"単純に"正しくないと考える人にも、それぞれ同様に考えを改めるべきポイントがあるということを示しているのではないかと思うのだ。
そもそも「正義」とはいったい何なのか、「犯罪」とはいったい何なのか、「家族」とはいったい何なのか。
こういった問題は、様々な要素が複数絡んで出来ている事なのだから、簡単に白黒分けて単純化させることなんかできない話ですよ。そして、世の中の犯罪にはそういう複雑な構図が絡んでいることが多くあるものですよ。そういった複雑な構図の問題から逃げることなく「自らの頭」でちゃんと考えなさいよ。
是枝監督は、そういったメッセージを我々に訴えかけてきているようにも思えるのだ。
さて、本作は以上述べてきたように、地味ではあるが視聴者を混乱させ、自省を促す様々な工夫が施されているのではないかと思う。
例えばテクニカルな方法で話すと、本作の構造はこの「万引き家族」という奇妙なコミュニティが成立したそもそものきっかけを描いていない、という点にも特徴があるのではないかと思う。
この映画の前半部分を見ているときは「実際の家族」であるかのように思っていたものが、次第に「この家族の関係性、どこか変だぞ?」という風に見る側の考えを誘導する。次第にこの家族が「疑似家族」であることが徐々に分かっていくという構成。
しかも本作は具体的な過去をフラッシュ・バック手法では描かず、誰かの伝聞によって、間接的に彼らの過去が匂わされるだけなのだ。
だから視聴者は常に頭を働かせていないと、彼らの過去に何があったのか理解できないままラストを迎えてしまう事になる。
そしてラスト。彼らの物語はハッピー・エンドを迎えず、かといって決定的な破局を迎えるわけでもなく、「このあと彼らの人生、どうなっちゃうの?」と思わせるところで切り上げられてしまう。
信代は拘留されたまま。治も将来どうなるかわからない。ゆりは虐待していた両親の元に戻ってしまって、この先ちゃんとやっていけるのかどうか分からない。祥太は果たして元の実の両親に会いに行くのだろうか。彼は心中で信代と治のことを、どう整理するのだろう。祥太と治は元のような関係に戻るだろうか。それともこのまま決別することになるのだろうか。……こういった気になる問題を残したまま、決着を付けずに映画は終了を迎えてしまう。
つまり本作は「万引き家族」たちの過去のエピソードと未来のエピソード、その両方を大胆に切り捨ててしまっているのである。
これによって本作は、視聴者に「作者からの答え」を与えずに物語を終了させてしまう。
様々な空白のあるストーリーを見ながら、視聴者はこの空白を埋めるために様々な推論を働かせなければならない。「過去、何があったのか?」そして「未来、どうなるのか?」。視聴者は、考えなければスッキリしない。
例えば、本作で「万引き家族」の未来を描いていたらどうなっていただろう。
将来全員がもう一度再開して、もう一度一緒に疑似家族として暮らして、今度こそ本当の倖せを掴もうじゃないか、ということでみんな幸せに暮らしました、となると作者は「この『疑似家族』は、けっきょく正しかったのだ」というテーゼを主張しているように見えてしまうかもしれない。
逆に、全員が不幸になっていたとしたら「この『疑似家族』は、結局正しくなかったのだ」と是枝監督は言いたかったのだろうな、と視聴者が判断してしまうこともあるだろう。
そういう「単純な話」だったら、この映画の視聴者はその答えに対して「良い」とも「悪い」とも、ハッキリとした感想が言えたかもしれない。
だが、本作はそんな簡単な感想では許してもらえず、視聴者に対して与えられるのは「作者からの簡単な答え」ではなく「作者からの難しい問題」なのだ。
だから、投げかけられた難問から逃げ出す者は単純に「つまらない」と言うだろうし、それ以外の人についても何かしらモヤモヤとしてものを抱えて色々と考えさせられるのではなかろうか。
ということで、本作はとにかく何も考えずに見ていても何にもならないし、それでは意味がわからないだろうし、面白いとも感じられないだろう。
見たあとは何かしらのもやもやが残り、そのもやもやの正体が何なのか、各人いっしょうけんめい整理したり想像を補って考える必要が出て来る。
そういった効果があると言う意味で考えれば、是枝監督がこの家族の未来を描かずにバッサリとカットしたのは正解だったと思うのだ。
重要なのは、作者がハッキリとした答えを出して白黒つけて、それを視聴者に提示することだけではない。
ハッキリとどちらかに決定することが難しい問題なのだから、視聴者は安易に作者の答えにありつくのではダメで、しっかりと自分の頭で考えなければならない。考えてましたか?考えなきゃ、ダメでしょう。我々自身と関係のない問題じゃないのですから。
是枝監督はこの作品を通じて、視聴者に厳しく思考を促す。
是枝監督が「『万引き家族』のひとびとの未来を描かなかった」ということは、きっとそういうことなのだろうと思うのだ。
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