◆読書日記.《池井戸潤『空飛ぶタイヤ』》
※本稿は某SNSに2020年2月23日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。
池井戸潤『空飛ぶタイヤ』読了。
本作は、ドラマ『半沢直樹』や『陸王』の原作者でも有名な、皆さんご存知の乱歩賞系のベストセラー作家・池井戸潤による1200枚レベルの企業小説ですよ。
《あらすじ》
走行中のトラックからタイヤが脱輪、勢いをつけて転がった重量トラックのタイヤは、歩道を歩いていた母子連れに激突。母親は即死、6歳になる息子が軽傷を負うという事故が発生した。
社員から「社長、すいません。事故してしまいました」と連絡を受けた赤松運送の社長、赤松徳郎は血の気が引いた。
赤松はすぐ謝罪のために被害者の通夜に訪れて遺族に謝罪に行った。母親が事故にあったとき、一緒に手をつないで歩いていた男の子は通夜で泣きじゃくっていた。
その日、何度「申し訳ございません」と口にしたか分からなかった。吹けば飛ぶような零細企業である。最悪の事故だった。
取引先からは今後の取引を断られた。
メインバンクのホープ銀行からも融資を渋られる事になった。
事故を起こしたトラックのメーカー、ホープ自動車の調査では「整備不良による脱輪」という結果が出ている。
神奈川県警からも家宅捜索が行われ、業務上過失致死で訴えられる可能性が濃厚にある。
このままでは倒産だった。
しかし、警察の家宅捜索後、一週間過ぎても警察の動きは鈍かった。何が起こったのか?
社内で行った調査でも、整備不良とはとても思えないほど十分に整備が出来ている事が判明した。過積載でもない。どう考えても、こちらの過失というのが考えられなかった。
そこで初めて赤松は疑問を抱いた。
本当にうちの整備不良なのか?そもそもメーカーの「整備不良による脱輪」という調査結果は、真実なのか?
――その頃、ホープ自動車のクレーム対応を行う部署のカスタマー戦略課長・沢田悠太は、赤松運送から事故車の調査部品を再調査、あるいは返却するように求められていた。
だが、社内の品質保証部から拒否するように依頼されていた。
赤松はどうせクレーマーだが、どうも品質保証部の動きが臭い。沢田は、品質保証部が何かを隠しているのではないかという疑惑を抱いていた。
事件の真相なんかには興味がない。沢田に興味があったのは、社内の政治的バランス関係だった。
品質保証部に何かしらのミスがあったとしたら、奴らの鼻っ柱を折ってやることができる。
日頃の憂さ晴らしだ。
沢田は社内で独自に動き始める――
また、赤松運送ともホープ自動車とも取引のあるホープ・グループ系列の銀行、ホープ銀行営業本部の井沢一亮は、経営状態が悪化しているにもかかわらず「融資して当然だろう?」という態度を崩さないホープ自動車の企業体質に辟易としていた。経営陣から担当者に至るまで、あまりに危機感が欠如しているのだ。
ホープ自動車はあまりに楽観的過ぎる業績予想のサマリーを提出し、二百億円のクレジットライン(いつでも借り入れできる枠)を要求してきた。
井沢は反対だったが、銀行の巻田常務は同じホープグループだからと言ってその申し出を受けるべきだと命じて来る。さて、どうするか。
そんな折、井沢の元に友人の大手マスコミ「潮流社」の社員でもある榎本が、ある話を持ってくる。
なんと、ホープ自動車の作ったトラックに構造的欠陥があるにも関わらず、その危険性を低く見積もって運輸省に報告した「リコール隠し」があるとの内部告発があったというのだ。
ホープ自動車は、既に過去リコール隠しをしてしまい、そのために業績が悪化していた。
この期に及んでまた今度もリコール隠しなどと言う事態となった場合には、融資どころの話ではない。
ホープ自動車の経営基盤が揺らぐほどのスキャンダルになる可能性があった。
事は遂に、財閥グループ系の巨大自動車メーカーの存続を揺るがす一大事件へと発展していくのであった。……というお話。
《感想》
実はぼくは池井戸潤さんの小説を読むのはこれが初めて。
軽いエンタテインメントかと思ったが、かなり綿密に取材されているうえにアクチュアルなテーマ性があってなかなか油断できない。
こういう「一般に広く知れ渡ってもらいたいテーマ」をエンタメ的な手法で料理するという方法はむしろ正しいのではないかと思えた。
本作は『半沢直樹』などでも見られる勧善懲悪もの、判官びいきもの、弱者がスジを通して巨悪に立ち向かう、というどの時代にも見られるありふれた構造を持った、むしろ「王道」とさえ呼べる物語だ。
だが、重要なのは、例えその「ありふれた枠組み」の中であっても、それを使って「何を表現するか」という所にある。
誰もが利益を奪い合って競争を繰り広げる資本主義的な世界では、もはや完璧な勧善懲悪的な物語などと言うものは「リアリティがない」と言っても過言ではないかもしれない。
だが「正直者が馬鹿を見る」という状況を耐えがたく思う心情がまだ多くの人々に残ってるからこそ、エンタメに勧善懲悪的な世界観はなくならないのだ。
結局「そんな勧善懲悪な世界なんて現実にはないよ」と言ってせせら笑うニヒリストこそが、そういった世の傲り高ぶった権力者たちの権力を力強く後押ししている原因の一つとなる。
そういう状況の具体例は、本書を見ればそこかしこに見られるのだ。
企業小説や権力者の悪を糾弾するタイプの作品には、しばしば「いやいや、そんなベタベタな悪い奴なんていないでしょ?そんなのリアリティがないよ!」と思えるほど「分かり易い悪役」というのが出て来る。
実をいうと、本書にもそういった「分かり易い悪役」といったキャラクターは何人か登場している。
だが、それを以てして本書の人物造形を「説得力がない」と言う人間は、現代の「企業人」というのが余り分かっていない人ではなかろうか。
ぼくでさえも実際にこの作品に出て来るような、あまりに分かり易くデタラメな倫理観の人が重役についていたり、横暴な人間が重役にいたのも実際に見た事はある。(昨今のデタラメな倫理観の政治家の言動を見てみてもじゅうぶん分かるのではなかろうか?)
そんなダメな人が大企業の重役になれるはずがない、というのは「企業の論理」を知らない思い込みでしかない。
東芝の粉飾決算(大鹿靖明『東芝の悲劇』、今沢真『東芝 終わりなき危機』等)、JALの経営破綻等の原因を追ったルポルタージュ(森功『腐った翼―JAL消滅への60年』)等々、そういった「ダメな企業人」が重役に居座り、それが原因となって企業を蝕んで、様々な問題を起こしていたというケースを取材した書籍も多く出版されている。
本当に、呆れるほど人間的にも倫理的にも仕事人としても「ダメな人」が、ただただ競争によって役職を確保し、企業をダメにしているケースはいくらでもある。
例えば――以下「全ての企業がそうではないが」という前提で、想定ケースを書かせていただこう。
大企業は役職が上がっていくに従って「椅子取りゲーム」になるので、組織が大きければ大きいほど露骨なポリティカル・ゲームになる事が多い。
そういう政治闘争の場合、評価されるのは必ずしも仕事ができる人でも頭がいい人でもない。
逆に、頭のいい人や仕事のできる人ほど、自分のミスは正直に認める。
何故かと言うと、ミスがあった場合は隠すよりも、それを正直に認めて今後の対応策や再発防止策を練ったほうが長期的に役に立つという事が分かっているからだ。
だから、頭のいい人、仕事のできる人、そして正義感の強い人ほど自分のミスは潔く認める。
それに対して「政治屋」タイプの人間は、他人のミスは厳しく追及し、大きく喧伝して問題を大きく見せようとする。
そして、自分のミスについては何が何でも認めず、小さく見せようとしたり他に責任を擦り付けようとする。
そのうえ自分が成功したことについてはなるべく大きくアピールするようにするので組織の中でも目立つのだ。
と言う感じで「椅子取りゲーム」が激しい企業ほど「頭のいい人、仕事のできる人、そして正義感の強い人」が潔く責任を取って競争から脱落し、自分のミスを認めない「政治屋」タイプの人間がのらりくらりと問題をすり抜けて「結局ミスが少なくて無難なのはこの人」といった評価におちついてしまうこととなる。
経営陣がそういった「政治的評価」を安易に認めてしまうと、「政治屋」タイプの人間による大々的なミス隠しが会社の方針として蔓延してくることとなる……というのは、割と良く見かけるパターンの「大企業病」と呼ばれるヤツだ。
こういう経緯をたどると、大企業の重役にもデタラメな倫理観の人間が出て来る事となる。
本作の「人身事故が起きて人が死んでいるにも関わらず、自社のミスを認めず中小企業に責任を押し付けようとする大企業の重役」というのは、何ら荒唐無稽な人物造形ではないのだ。
実際、本作は一から考えたフィクションではなく、あの有名な「三菱リコール隠し事件」を下地にして作っているのでリアリティもある。(※この件は詳しくはウィキペディアの「三菱リコール隠し」を参照の事)
本作は山崎豊子『沈まぬ太陽』のような現実に起きた事件に極めて近い形態で書かれたフィクションではなく、あくまでこの「三菱リコール隠し事件」を下地にして、かなり分かり易いエンターテイメント作品にアレンジした小説だが、それでも事件の核はほぼ一緒だ。
実際は2002年に横浜市の中原街道で三菱トラックの左前輪が外れ、ベビーカーを押して歩道を歩いていた母子をタイヤが襲ったという事件が起こっている。
当時29歳の母親は、本作と同じようにタイヤが激突して即死した。
この時も三菱自動車は、本作と同じように「ユーザー側の整備不良が原因だ」と主張した。
死亡事故が起こったというのに、自分たち企業の利益を優先して、トラックを運転していた運送会社に責任を擦り付けようとしたのである。
勿論、全ての大企業の中でこういった病理が蔓延しているとは言わないし、海外の企業とではまた文化も違うだろう。
だが、本作で描かれる企業病理というのは、「こんなの、所詮はフィクションだよ」等と言って一笑に付すことなどできないだけの事実に裏打ちされたフィクションなのだ。
こういったフィクションはこの時代にある問題や社会病理をしっかりと記録し、一般人にも周知したいという動機もあるからこそ、文学的重みを出すよりもエンタメ的手法がとられたのだろう。
という事でぼく的に本作は、現代的なテーマを持ったホットな作品であり、また『水戸黄門』のような「王道」の勧善懲悪的企業小説として評価できる作品だと思った。
このような作品がヒットして評価されているということの意味する所は、重く大きいと思いたい。
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