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◆読書日記.《連城三紀彦『造花の蜜』》

※本稿は某SNSに2022年9月30日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。

 連城三紀彦『造花の蜜』読了。

連城三紀彦 造花の蜜

 ミステリ作家であり恋愛小説家でもある連城三紀彦が、2007年1月から2008年10月にかけて連載していた新聞小説を加筆修正し、2008年に単行本化した長編推理小説。

 オビ文によれば、本作は「『王様のブランチ(TBS系毎週土曜日 放映中)』で大絶賛!!」「『読売新聞』『週刊文春』他 各紙誌でも大反響の嵐!!」と評判が良かった作品らしい。
 ウィキペディアによれば、早川書房主催の年末ブックランキング『ミステリが読みたい!』2010年版で第1位にもなっているという。

 本作は連城三紀彦が生前に出版された単行本の中では最後の長編小説となった作品で、ぼくとしては2000年代に『白光』『人間動物園』『流れ星と遊んだころ』と矢継ぎ早に凄い長編を出していた連城三紀彦が今更になって世間一般に認知されたのか?……なんてモヤモヤ感を抱いたものだった。

 その後、亡くなるまで連城三紀彦の新作長編は発表されず、けっきょく本作が生前出版された最後の長編小説となった。

 ぼくとしては『白光』『人間動物園』『流れ星と遊んだころ』といった晩年の傑作群の印象が強かったので、この時期の連城の最後の長編を読み終えてしまう事に、躊躇してしまう部分があった。どこか、これで連城三紀彦の小説世界を永遠に完結させてしまうような、一抹の寂しさを感じていたのかもしれない。

 その後、連城三紀彦の亡くなった翌年に短編集『小さな異邦人』や長編『処刑までの十章』『女王』など、単行本化されていなかった作品が次々に刊行されていった事もあり、最近は「やっぱり連城三紀彦をもう一度読み直そう」といった気持ちもあったので、この「生前最後の作品」を読もうと思ったわけである。


<あらすじ>

 小川香奈子は息子の圭太を幼稚園に迎えに行った帰りに立ち寄ったスーパーで、「お父さん」を名乗る人物から誘拐されそうになった事を息子から知らされる。

 圭太は離婚した元夫の山路将彦から引き取ってきた子だ。
 それ以前から、小川家には無言電話がかかってきていたりと、不穏な事態が続いていたのだった。

 そんなある日、香奈子は幼稚園から圭太が蜂に刺されて病院に運ばれたと電話を受け、急いで病院に向かう。
 だがその車中、不審な点に気付いて幼稚園のほうに折り返し連絡をすると、圭太は「祖母が蜂にさされて危篤だから」と迎えに来た"両親"を名乗る人物らによって既に引き取られて連れていかれたという。

 圭太は誘拐されたのだ。
 香奈子は警察に連絡。すぐに警視庁から刑事が派遣されてくる。

 犯人からの連絡を待っていると、しばらく経ってから小川家に犯人と思われる人物から電話がかかってくる。

 犯人は圭太を電話に出して香奈子と話をさせる。圭太はこの男が預かっているらしいのである。

 香奈子は犯人と複数回にわたって電話のやりとりをする。

「俺は、お金なんて要求していないよ」

「お金を要求するなら、とっくに最初の電話で要求してたよ。お金だけじゃない、こっちからは何一つ要求するつもりはないね」

「ただ、そちらがお金を払いたいと言うなら別だよ。いや、払いたいんじゃなくて……こう、言い直そう。そちらがお金をくれると言うなら別だ」

 犯人とのやり取りは、最初から奇妙だった。

 そして、犯人が支持してきた身代金の受け渡し場所は――「昼の十二時半に渋谷駅前スクランブル交差点の真ん中」だと言う。

 そんな人ごみの真っただ中で、どうやって身代金を受け取ろうと言うのか?

 こうして最初から最後まで奇妙な事づくしの世にも奇妙な誘拐事件の幕は開くのだった――というお話。


<感想>

……という事で本作は晩年の連城ミステリとしてはかなり評判になった一作なのでけっこう期待して読んだのだが、確かにミステリとしては良く出来ていて連城三紀彦らしいどんでん返しの連続技が冴えていると言える。
「誘拐」というテーマを扱ったミステリとしては、同じく連城の晩年の『人間動物園』のほうに分があると感じるが、本作の着想もまた「誘拐」という考え方そのものを揺さぶるような様々な仕掛けが出てきてテーマの掘り下げが優れている。

 が、「小説」として見てみると、どこか連城のもう一つの特徴でもある文学性が薄く感じられ、中身がないように思えてしまう。

 本作は大まかに分けて3回、視点人物が変わる。

 最初は「誘拐」の被害者である小川香奈子。

 中盤では「犯人」の一人に焦点があたる。

 終盤、今度は別の「誘拐事件」が発生し、その「被害者」の視点で事件が描かれる事となる。

 香奈子と「犯人の一人」については、誘拐事件をその犯人と被害者という、裏と表から描写するためという事では必然性があるかもしれない。
 しかし、終盤の「別の誘拐事件」については、犯人が共通しているものの、最初の誘拐事件との関連性はほとんどなく、どこか蛇足めいて中途半端である。

 また、序盤の主人公である香奈子の描写も、いつもの連城ミステリに出てくる、「夫や恋人との関係性が不安定な女性」の典型例のようで特徴に乏しい。

 連城ミステリに「夫や恋人との関係性が不安定な女性」が頻出するのは、人間関係が「夫‐妻‐子供」という安定した「閉じた関係性」ではなく、妻が他の男性と関係を持っていたり、過去の男が現在の事件に関係してきたり、子供の本当の親が現在の夫とは別の男性だったり……と、「夫‐妻‐子供」という家族関係に別の人間関係が絡んでくる「開かれた関係性」となるからこそ、その複雑な関係性の中に「男女の愛憎」というテーマと有機的に繋がる「人間関係を逆手に取ったトリック」が仕掛けやすいという利点があった。

 小川香奈子は、そんな連城ミステリの中では特にこれといった特徴を持っていないように思える。
 連城ミステリでは、人間関係の複雑さがそのまま人間心理の複雑さに繋がってきた部分もあるのだが、本作ではそれがイマイチ上手く機能しているという気がしない。

 この一作でじっくりと香奈子の内面を掘り下げて行けばまだ良かったのかもしれないが、本作では中盤からほとんど香奈子は登場しなくなってしまう。

 視点は完全に、中盤の「犯人の一人」に移ってしまうのである。

 そのために、香奈子の人生や心理描写というものは序盤で打ち切られてしまう。
 それだけでなく、序盤で扱われる誘拐事件の展開についても非常に複雑に紆余曲折するために、それほど香奈子ひとりに集中して話が展開している訳でもない。

 かくて「けっきょく香奈子はこの事件を通してどうなったのか、何を考えたのか、彼女の人間関係にはどういう変化が訪れたのか、その後の圭太はどうなったのか」といった問題が置き去りにされたまま終了してしまう。

 そして物語は完全に「犯人」の側に移ってしまう。

 香奈子という人物については、この事件を通して最後まで語られる事がないのである。そういう所に、どこか中途半端で掘り下げ不足の感が出てきてしまうのかもしれない。

 しかし、中盤の最初のどんでん返しの一つは「この事件の『本当の主人公』は香奈子ではなく、そこで語られる『犯人の一人』にあったのだ」という所にあるだろう。
 こういう事情があったからこそ、香奈子の件は最期まで語られずに打ち切られてしまったのかもしれない。

 このように、どこか「物語を転がすために、興味が次々に移り変わっていってしまう」という落ち着きのなさが、この物語が「新聞連載」という形式らしいと言えなくもないと思えてしまう。

 中盤の「犯人の一人」の人物像についても、これも連城ミステリには良く出てくる「ある女性に反発心と同時に恋心を抱いて両極端に揺れ動く若者」という設定となっている。

 この人物が、恋と反発心を両方抱いている人物こそがこの物語の本当の黒幕なのだが、けっきょくこの黒幕の正体もその本心についても、最後まで謎のまま終わってしまう(こういう、若者を虜にして様々に翻弄するが、最後までその本音はわからないある種のリドルストーリーのようなスタイルは同じく晩年の長編『処刑までの十章』と似ているかもしれない。「延々に分からない女の本心」といのは魅力的なテーマだが、不思議な事に本作も『処刑までの十章』も、どこか中途半端な読後感になってしまっている)。

 このように連城ミステリのキャラクターの特徴の一つには、「マージナル(境界にあるさま)」というものがあるのかもしれない。

 香奈子のように「夫や恋人との関係性が不安定な女性」であったり、中盤に出てくる「犯人の一人」の「ある女性に反発心と同時に恋心を抱いて両極端に揺れ動く若者」であったり。

 これらの人物は、例えば「夫-妻」という愛情や信頼で繋がっている「安定的な閉じた関係性」ではなく、不倫をし、夫以外の人物に心惹かれ、夫に愛情と憎悪の両方を持っているからこそ、「夫-妻‐他の男」という両者の中間で揺れ動いて安定しない「開かれた関係性」にあるからマージナルなのである。

 このようにキーとなる登場人物が様々な人間関係の境界線上に位置するからこそ、連城ミステリは愛情関係が敵対関係に、敵対関係が愛情関係に、という「どんでん返し」が起こる。

 この登場人物のマージナルな性格が、そのまま「人間心理の多面性の不思議」に繋がっているから、連城三紀彦の作品はミステリ的な仕掛けがそのまま人間心理の奥深さにも連結するのだ。

 そういった「人間関係を使ったトリック」が本作にも使われているので連城ミステリに典型的な登場人物を登場させたのだろう、が、それが本作では少々見え透いていたのが頂けなかった。

 その上、上にも書いたように彼らの物語は話が進むごとに、どこか中途半端に打ち切られてしまうのである。

 それは終盤――第7章にあたる「最後で最大の事件」で語られる「もう一つの誘拐事件」についても、同様であった。

 しかし、この「最後で最大の事件」はどうにも違和感が残る。
 本作の序盤で起こる「誘拐事件」は、ほぼこの章の前段である、例の「犯人の一人」の物語が終了した時点で、いったん収束するのである。

 その上で、何故この章を追加する必要があったのか? 何故新たに「誘拐事件」を発生させる必要があったのか?
 これが、何かしら前の誘拐事件との有機的な関連性があれば文句もないのだが、そういった関連性はかなり薄い。「犯人」が同一人物であるといったくらいの関連性だ。

 まるで、長編が終わってから、新たにそのスピンオフ短編をボーナス・トラックとして末尾に付け加えたかのような違和感なのである。
 これはもしや「新聞連載」という制約から発生した、嵩増しの蛇足だったのか?……とも疑ってしまうような歪さである。

 このように、本作は「ミステリ」としては連城三紀彦作品の中でも水準レベルに切れ味鋭く、アイデアも優れている作品ではあるものの、「小説」として、「ドラマ」として見るならば中途半端さは否めず、長編と言う形としてもどこかしら治まりの悪い「妙な瑕疵」の目立つミステリだったという印象である。


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