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◆読書日記.《日影丈吉『応家の人々』》

※本稿は某SNSに2021年1月5日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。

 日影丈吉『応家の人々』読了。

日影丈吉『応家の人々』

 このところ毎年、年初めには敬愛する日影丈吉の未読作品を一冊ずつ読んでいく事が習慣となってしまっている。毎年、一冊ずつ未読の作品を消費していく作業。
 ぼくが敬愛する郷愁と幻想の異端作家との付き合い方というのは、こういう風なやり方が、案外あっているのかもしれない。


<あらすじ>

 ある日、在郷軍人会の集まりに呼ばれた久我は気まぐれに参加したが、すぐそれを後悔した。

 久我は途中で会を抜けて帰ろうとしたが、外に出た所で声をかけられた。
 戦中、久我が台湾総督府に所属していた頃、一時期上司だった安土という男だった。

 久我は安土に誘われ、行きつけのキャバレーに連れていかれる。
 キャバレーで彼とたわいのない話をしてしばらくすると、安土がトイレに行って戻ってこなくなってしまった。

 久我は気にせず帰ろうとするが、そのときキャバレーの小部屋から「あなた、お願いがあるの」と声をかけられる。ここのバンドで歌手をしていた呉馨芳という若い女だった。

「あたしを助けて、狙われてるの」

 どういう事か、久我が尋ねると、彼女は壁の衣装戸棚の中を見せる。

 中には、安土の死体が納まっていた。呉馨芳はピストルを取り出して「あたしを助けてくれるわね」と久我に迫る。
 彼は、成り行きから馨芳を助ける事にする。

 馨芳と一緒に車に乗りながら久我は、安土と会った、あの北回帰線の通る地方の事を思い出していた――

 昭和14年9月。まだ日本の領土だった台湾の首府、台北で久我は、安土と出会った。

 久我は一時、安土の指揮下に入るよう命じられる。久我は、大耳降街で発生した事件について調査するようにとの命令を受ける。

 大耳降では、街役場の吏員が警察署の書記を毒殺するという事件が発生していたのだ。

 この事件の原因は三角関係のもつれと考えられ、原因となったのはある台湾人の未亡人だった。名は珊希と言った。

 彼女の夫は大耳降署の保安課長をやっていた警部補で、この男は何者かに暗殺されていたのだ。

――彼女に近しい者が相次いで変死しているのである。治安問題か、市井の犯罪か。それを見極めよと言う命令だった……というお話。


<感想>

 本作は日影丈吉の作品の中でも『内部の真実』と並んで戦時中の台湾を舞台にして、著者の代表作と目される長編である。

 著者の作品は短編にこそその真価が発揮されるというのは衆目の一致した意見ではあるが、どうしてなかなか、長編も味わい深いものがある。

 著者は台湾を舞台にした作品を幾つか著しており、本作や『内部の真実』などの長編の他にも、短編集『華麗島志奇』に収録されている各短編などでもみられるが、いずれの作品も独特のエキゾティシズム溢れる味わい深い作品が多い。

 本書ではそんな著者による、戦前台湾の異国情緒をたっぷり楽しめる長編である。

 戦時中、日本が台湾総督府を置いていた頃の台湾の景色や人々や風俗などといった雰囲気をじっくり楽しめるという点、本作は『内部の真実』よりも腰を落ち着けてその部分に力を入れている感を受ける。

 主人公はこの複雑な事件の調査のために台湾各地を転々と移動していくのだが、その先々の風景がいちいち美しい。

 見た事も行った事も体験した事もない土地について説明した文章を読んで、その美しさに感じ入る等と言う事は、そんじょそこらの文章ではお目にはかかれない芸当だ。
 これは、しばしば「ミステリ作家離れした名文家」と呼ばれる著者の文章の名人芸があってこそ成立する、文字を使った風景画なのだ。

 著者は戦時中、本作の主人公と同じく台湾軍司令部所属の下士官であり、普通の兵隊と違って民間人とも交流があったそうなので、その頃の台湾の景色は懐かしいのだろう。
 著者お得意の郷愁ただよう抑制のきいた文章によって、あの頃の台湾を丸ごと保存したかったのかもしれない。それだけ雰囲気が濃厚なのだ。

 ネットで本作の数少ないレビューを見てみると、近頃のミステリ読みからすると本書はさほど評価はできないようである。評論家らの意見とは違うらしい。
 ぼくは、本作はミステリとして見てみても、日影作品の中でも特に歪な作品だと思っていて、その歪さが、ぼく好みで気に入った。

 実に抑制の効いた落ち着いた名文なので、この「ヘン」さに気付かない、あるいは理解できない読者も多いのではないだろうか。
 名文家・日影丈吉の作る推理小説――とくに長編小説は、いつもどこか「ヘン」なのだ。

 クイーン的でもクリスティ的でもカー的でもない――あえて言うならフランス・ミステリ的な、定型に納まりきらない独自の方法論があるようだ。

 著者のミステリはいつも、ちゃんとした端正な推理小説的なルールを踏襲してカッチリ作られているように見えるのだが、読み終わると、どこかキッチリと収まりきらない不穏な余剰を残している事に気が付く。
 事件は解決しているはずなのに、犯人も動機もちゃんと判明しているはずなのに――何かがおかしいのである。

 本作は、そういった日影丈吉ミステリの特徴が最も大胆に表れている作品ではなかろうか。
 これは奇妙に聞こえるかもしれないが――本作で出て来る魅惑の未亡人、応氏珊希の周囲に発生する殺人事件は、ちゃんとした解決を見る。犯人もちゃんと判明するし、動機も分かる。殺害方法も全て久我が説明してくれる。だが――それでも、本作の「ある部分」については、全く決定的な決着がつかないのである。
 幾つかの手がかりのみを残して、本作は「ある問題」については、まったくの未解決のままにして終了させてしまうのである。

 こういうおかしな事ができるのは、端的に言えば本作が多重構造を成しているからであろう。

 物語の多重構造は、近年の新本格ムーヴメントで折原一が徹底的に叙述トリックを追求していった結果「多重構造は叙述トリックを非常に利用しやすい」という事が知れ渡り、叙述トリック専用の構造になったしまった感が否めない。
『殺戮に至る病』『十角館の殺人』『沈黙の教室』『慟哭』等々、といった有名な叙述トリックもののミステリの多くが多重構造を成している。

 だが、本作で使われている多重構造は叙述トリックを仕掛けるために利用されているのではない。
 あえて言うならば、メインとなる端正な推理小説部分を「すべて台無しにしてしまう」ために利用されている、とでも言えば良いか。

 そういう「歪」な使われ方をしているのに、本書はエンタメ作品のようにその特別な仕掛けを仰々しく強調せず、例によってノスタルジックで、落ち着いた語り口で、それを淡々と提示するのである。

 正直言うとぼくは、本書を読み終わって「えっ!?」とかなり驚いたのだ。これけっこう大変な事してない!?

 さらりとさりげなくこういう事をしているが、日影丈吉という人は、こういう事をナチュラルにやっているのではないかと思わせられる。

 推理小説的な骨法は自家薬籠中の物としているにもかかわらず、それをしっかりと成立させながらも、著者の見ている所、やろうとしている所は、もう「そこ」にはないのである。

 いくらそれが"現実にはそういうもの"だからといって「この事件は迷宮入りしました」では、推理小説は成立しない。そもそも推理小説の眼目は、そのリアルさにはないからである。

 だが、日影丈吉が書くと、不思議と事件が迷宮入りしても、犯人が動機を告白しなくても、妙な謎が一部残っていても、それが魅力となる。

 日本で長く正統派本格推理小説を作り続けていた重鎮・土屋隆夫はかつて『天狗の面』にて「事件÷推理=解決」という明確な方程式を提示した。
 カーやクイーン流の流れをくむ「本格推理」には、割り算の剰余があってはならないのである。それが理知の文学でありロジックの芸術である推理小説の暗黙のルールだった。

 だが、そこから否応なくはみ出してしまう者がいるのである。

 本格推理のルールをナチュラルに守っていながら、そこからどうしても外れてしまう者――それを称して「異端作家」と言う。
 澁澤龍彦や中井英夫が、夢野久作や小栗虫太郎や久生十蘭といった推理作家を「異端作家」として再評価を行ったように、日影丈吉も澁澤らから「異端作家」として評価されたのも故あっての事だ。

 良く知られているように、日影丈吉が単に「ミステリ作家離れした名文家」でしかなかったとしたら、これを称して「異端」と称される事もないのである。

 思うに、ぼくは日影丈吉はミステリ作家だという自覚はあれども、さほど「本格推理」という枠組みには執着していなかったのではないか。
 本格推理は、日影丈吉にとっては、彼の表現したい「あるもの」を実現するための、ある種の道具にすぎなかったのではないかと思うのだ。

 これは、他の所謂「異端作家」にも言える事である。

 夢野久作にしても小栗虫太郎にしても自分の表現した「あるもの」が実現するならば、利用する文芸ジャンルなどはどれでも良かったのだろう。
 それを表現し易いジャンルが、たまたま新しい現代文芸ジャンルである推理小説だったという事でしかない。

 事実、描くテーマによって彼らは平気で推理小説というジャンルを捨て、他の形式の文学を書いているのである。

 探偵小説の鬼であった小栗虫太郎でさえも時折『人外魔境』のような秘教探偵小説のようなものも書いたし、夢野久作はそもそもスンナリと「本格推理」と呼べるもののほうが少ないかもしれない。

 そう考えれば「ミステリ作家」とか「SF作家」とか「純文学作家」等と言うくくりは、単なるレッテルでしかないのだろう。

 日影丈吉も「ミステリ作家」とは呼ばれているものの、作品によってはSFもあるし謀略小説的なものもあるし、怪奇小説的なものもあれば、幻想小説を書く事もあった。

 本作はそんな日影丈吉の、一定の枠組みには収まりきらない、この作家の独自性が他の推理小説よりも色濃く出ている作品なのではなかろうか。
 一般的には本作は『内部の真実』と並び賞される台湾の異国情緒が濃厚に描かれたノスタルジックな本格推理という評価があるので、そのオリジナリティが目立たないのではないか。

 読了したいま、本書のヘンテコさ、歪さというのに、ぼくは少々驚いている。
 これを何故誰も指摘していないのだろう? これを通常の「本格推理」だと思い込んで読むと、確かに強引な所もムリヤリな所も簡単に指摘する事ができるだろう。
 だが、著者の眼目はおそらく、そんな所にはないのではないか。

 日影丈吉の視点は多分、「事件」ではなく「人」にあるのだろうし、そこの不気味さが、読み終わってから後々まで余韻を引く。
 こういったものは、例えば短編の代表作である『かむなぎうた』でも『狐の鶏』でも濃厚に表れている。ぼくは日影丈吉の、この単純に割り切れない不気味な余剰に、魅惑されているのかもしれない。


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