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◆読書日記.《塚本邦雄『百句燦燦』》

※本稿は某SNSに2022年5月8日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。

 塚本邦雄『百句燦燦』読了。

塚本邦雄『百句燦燦』

 現代短歌運動の先導者・塚本邦雄による、現代俳人69名の内より選んだ秀句100句を塚本の独自の美意識的観点から解説する評釈集。

 昨年から毎日数句ずつ読み進めて遂に読了した。
 毎日のように塚本の美意識を自らの内に通す業でもある読書であった。

◆◆◆

 最近、毎日放送で放映中の『プレバト!』の俳句コーナーも、夏井いつき先生のYoutubeチャンネルも見ている関係で、本書の俳句に対するスタンスと夏井先生のスタンスとが良い内容のコントラストとなっていて自分としても勉強になったと感じる。

 夏井先生の俳句のスタンスは、ぼくからしたら非常に王道に沿って真面目な指導をしていると思える。
 まあ、素人やアマチュアの人を相手に俳句の才能査定を行っているのだから、それも当然そうなるのは当然だとは言えるだろう。
 俳句の基礎をやるというのに、あまりに個性的で偏ったスタンスを押し付けるというのも問題がある。

 だが、塚本の評釈のほうは、それに対して「個性的で偏ったスタンス」のほうを意図的に推し進めているという印象がある。

 これはどちらがあっているとか間違っているとかいう事ではない。俳句に対するそもそものスタンスが違うのだから。

 だが、塚本のスタンスについては、夏井先生が指導している王道で基礎的な俳句講座のスタンスから見てみると、かなり高度な事をやっているというイメージがある。

 俳句は作者の「心情」を書くものではなく、「絵」を描写する事によって作者の心情を表現するものだというのは、俳句の初心者はよく言われる事ではないだろうか。
 夏井先生も、基本的に俳句を作る時にはあまり「我」は出さないと言ったような事を言っていた。

 塚本もこれと同じことを本書で書いている。

 短詩型に哀歓の直接表現は半ば禁断となっている。特に悲哀は歓喜よりも厳しい忌み言葉とされ、私は初学の昔からほぼ十五年ばかりは自分の短歌に決してこれを用いることはなかった。

本書P.218より引用

 ――とさえ言っているのである。これは短歌だけの話でなく、俳句ではより厳しく「禁断」となっていると思って良かろう。

 しかし、これをあえて使っている句を本書では紹介しているのである。――例えば本郷昭雄の一句「かなしみさだか濃紅葉に墨滲むごと」等。

 この句の評釈として、塚本は上に引用した前置きをした上でこの句の巧さを解説している。
 夏井先生が指導している「禁断」をあえて破った上での秀句である。
 俳句初心者からしてみれば、きっと本書に取り上げられている秀句の難解さを見ていずれも「ややっ!?」と一驚を禁じ得ない事であろう。

 前衛俳句あり、自由律あり、多行形式あり……いずれも何をどう解釈すれば良いのかさえ迷うような難物なものばかりである。

 それに塚本の評釈が付されれば、果たしてそれらの俳句は「分かり易いもの」になるのか?……少なくとも「分かり易いもの」になるかと言われれば疑問がなくもない。

 というのも、塚本は俳句を解説する場合「ただ単にその句の内容を分かり易い形に言い換えた」といった方法ではダメだと考えているからである。

 そもそもポエムというものは、そういうものなのだ。

 以前レビューでご紹介した尾崎まゆみも、塚本邦雄の短歌評釈集『レダの靴を履いて 塚本邦雄の歌と歩く』にてほぼ同じ事を言っている。

 短歌の言葉に寄り添った解釈には、この歌を読んだときの魂を素手で掴まれたような感覚は反映されていません。というよりもその感覚の源は『言葉の意味に沿った正しい解釈』の中にはないといっても良いでしょう。

尾崎まゆみも『レダの靴を履いて 塚本邦雄の歌と歩く』より引用

 短歌を言葉通りに解釈しても、その後に更に「ポエム」としての解釈が必要になるというもう一つのハードルが控えている。これは俳句でも同じ事なのだ。

 そして、塚本が本書で扱っている「秀句」は、いずれも「読めば誰でもすんなりと意味が分かる」といったようなものなど一句もない。

 いずれも現代俳人の一癖も二癖もある難解極まりない俳句を、塚本なりの美意識で「更に謎を深める」かのように解釈する。その、何と豊かな解説の仕方よ。

 ここで注意したいのは、「更に謎を深める」からといって、余計分からなくなるという事ではないという事だ。

 つまり、意味の一意性を排し、句の意味の多義性に注目するような、読者をその秀句の秀句たるゆえんの豊かさ(多義性)の中に引き入れるような解釈の仕方をするのである。
 それが、塚本評釈の巧み極まりない所なのである。

 さて、そんな、元々現代短歌の世界の人である塚本が、何故わざわざ俳句メインの評釈集を作ろうと思ったのか?

「和歌と境を接し血を交えつつ異次元の巨花を開いた俳諧に私はかねてから羨望と畏怖をこもごも覚えていた」と塚本は言う。
 また、塚本にとって俳句は「言葉の師であり朋であり同時に敵であった」のだという。

 俳諧の心を識らずして和歌を説くことは無暴であろうし俳句に背を向けて短歌を論ずるのも虚妄に類しよう。この後とも私はこの稀有の最短詩型を最愛の敵として、その一挙手一投足を凝視し続けるだろう。

本書P.240より引用

 ……何の事はない。これも塚本が短歌を現代に蘇らせるための熾烈な闘争の一つだったのだ。

 塚本は、かつてこれまで日本の伝統に燦然と輝いていた中世の和歌の世界に挑戦状を叩きつけ、果敢な戦いを続けてきた。

 その一つの成果が、以前もご紹介した『新選小倉百人一首』である。
 ――藤原定家・選『小倉百人一首』は凡庸である。中世の超絶技巧の歌人・藤原定家を美的に葬送するために『新選小倉百人一首』は編まれた。

「現代短歌」を誰の目にも完璧に蘇生させたと見せるためには、周辺ジャンルにも越境し侵略せなばならぬほど、その戦いは苛烈を極めていたのである。
 この塚本の激甚な美意識の追求は、そのまま赤江瀑的なテーマを思わせる。美を極めるためには、塚本は断固として、妥協しないのである。


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