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◆読書日記.《吉本隆明・梅原猛・中沢新一『日本人は思想したか』》

※本稿は某SNSに2019年2月7日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。


 吉本隆明、梅原猛、中沢新一の三名による対談集『日本人は思想したか』読了。

吉本隆明・梅原猛・中沢新一『日本人は思想したか』

 このところ日本の美意識や日本文化、日本の宗教などの本を読んでいたので、その関連で、ではそもそも日本の根本的な思想の根元はどこにあるのか、というのが気になったので今回はこの本にあたった。

 タイトルは簡単そうに思えるが、さすが碩学の三名。先日亡くなった日本文化研究の梅原猛、宗教学者の中沢新一、日本思想界の巨人・吉本隆明というそうそうたるメンツが揃えば、まあそりゃこうなるだろうな、と思わされる圧倒的情報量の対談集。

 同年代の梅原と吉本を、中沢が仲介役といったスタンスでくっつけていくという感じでスタートしたこの対談だが、まあ出てくるわ出てくるわ。

 最初は少々ぎこちないかな?ていう雰囲気もあったが、特に梅原さんなんかは嬉しそうに、普段書籍の中では書かなかった大胆な仮説を披露して場を活性化させていた。

 法然はデカルト的で、そう考えると親鸞はスピノザ的なのでは、とか『古事記』は神話をベースにした歌物語と解釈すると面白いとか、『古事記』は柿本人麻呂が篇/著としていて、最終編集者に藤原不比等がいるんじゃないかとか。
 梅原さんの魅力は、博覧強記な知識量だけではなく、こういった豊かな発想力にもあると思うのだ。

 しかし、畳みこむように出される博学な発想に吉本や中沢からも更に自分なりの考え方を出してきてぶつけるんで眩暈がするような対談になっている。
 この対談はディベート的に双方の意見をぶつけ合わせていると言うよりかは、他方に刺激されてもう他方からも様々な説が出てくるという終始わりと和やかな雰囲気であった。

 大陸から切り離された島国で、気候も大陸とは違っている独自の風土を持って進化してきた日本なのだから、当然独自の思想は醸成しただろうとは思うのだが、その根元がなかなか分からなかった。が、本書ではその根元の研究として梅原さんや吉本さんの縄文研究、アイヌ研究、沖縄研究の話が出てくる。

 人間、思想なんてなくても生きていけるのだが、これが様々な集団が生まれてそれが活性化してくると、どうしても考えなくちゃならない問題がいろいろと出てくる。

 例えば「死とどう付き合うか」「この集団の掟はどうするべきか」というのから宗教や法律なんかの「思想」を作らなくちゃならなくなる。

 特に宗教的な日本の根元はどこにあるか、と言う事で梅原さんが考えていたのは、中国文化に大きな影響を受ける前の原初的な日本の考え方を掘り下げていくと、それは縄文時代にあるんじゃないか、そして、その縄文時代の原初的な宗教意識は、沖縄文化やアイヌ文化から読み取れるんじゃないかと言う。

 この縄文文化に存在した原始神道的な宗教意識は、まず律令制時代によって国家主義化され、そして明治時代に入ってからもう一度国家主義化された。
 そこから考えれば明治以後の神道はもう既に神道なんて言えないんじゃないか、伝統の皮をかぶったプロイセン主義、ナポレオン主義なのではないか、と言う事。

 そう言えば仏教学者の鈴木大拙も神道は政治的な宗教だと主張していたのが気になっていたのだが、そういう意味だったのかとスッキリした。

 改めて、日本の神道というのもかなりヘンテコな宗教で、民間信仰としての神道と、国家神道との間には奇妙な「間」が存在している。その辺りも国家主義化した影響があるのだろう。

 その後に中国から仏教が入って来るが、日本は何故か中国の諸子百家のような哲学はあまり流行らなかった。
 日本は哲学的な考えは仏教や神道や儒教等の宗教的な枠組みを持って進展して、その考えを背景に、茶道とか華道とか能とかと言った、実践的で具体的なものと結びつく形でしか発展しなかったという特徴がある。

 こういうのは禅思想的な実践主義の考え方からの影響、と言うよりかはそもそも「考えるな、感じろ(ブルース・リー)」というがどこか日本的な意識にあって、それが禅思想を日本にフィットさせる要因になっているんじゃないかと思う。

 日本を代表する碩学らのぶつかり合いはなかなか知的な刺激に満ちたもので非常に満足した。
 しかし、日本的な思想や意識を考えるうえでは、やはり『古事記』や『日本書紀』なんかの古典を一度読んでおくべきかなあと言う自分への課題も生まれてしまった。精進は続く。


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