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◆読書日記.《連城三紀彦『戻り川心中』》

※本稿は某SNSに2021年7月27日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。


 連城三紀彦初期の名作短編集『戻り川心中』読了。というか再々々々……読了くらいしているかな?。

連城三紀彦『戻り川心中』

 講談社版ハードカヴァー初版、ぼくが村上芳正の挿画を見たのはこれが初めてだったと思う。

 ぼくの学生時代、長らく文庫でさえも絶版状態にあった時期、このハードカヴァーの初版はぼくが当時確認した限りで最高額は1万円以上の古本値がついていたほどであった。これで署名入りともなれば、更に高値がついていただろう。

 これはぼくが見た中で最も美しいブックデザインを持ったミステリ本だったし、中身の内容についても稀有に美しい内容のミステリでもあった。

 デビュー間もない青年が書いたとは思えないほどの、人生の奥深い陰影が伺える文学的な物語であり、そして、その背後にある荒唐無稽とも言える常軌を逸したアイデアがその物語に奇跡的に融合した、まさに問答無用の傑作であった。

 学生時代は貪るようにして読んだという記憶がある。
 そして、まずこの文体――推理小説ばなれした耽美的な文体を、どうにしかして真似できないものかと何度もその感覚を脳裏にトレースし、原稿用紙に文体模写を繰り返したものだった。

 それほど熱中した一冊だったが、これを読み返すのは恐らく十数年ぶりだったかもしれない。

 名作というものは、読む時期ごとに印象が変わるものだ。

 学生時代はその雰囲気と文体、トリックなどが主に目についたものだったが、今読み返してみると、その発想の根本が何だったのか――また、その人生観――また、その物語構造――また、彼の得意とするテーマ性――また、その伏線の妙。そういったものに目が行き、久しぶりに、その精緻な作りにため息の出るような思いを味わった。

 学生時代に読んで「名作だ」と思ったものでも、大人になって再び読み返してみると、意外に稚拙な作りでガッカリしてしまうという事は稀な事ではない。
 本書を再読してみた感じ、確かに昔と読後の印象はかなり変わってしまっていたが、ぼくの中で評価が変わる事はなかった。
 各種ミステリベスト100を編む際は、必ずベスト10に入るほどの名作ミステリ。やはり、オールタイムベスト級の傑作推理小説は伊達ではなかった。

◆◆◆ 

 小説家の発想パターンであったり思考パターンであったりというものは、その人の作品を読んでいくたびに徐々分かっていくものである。
 というか、そういったものを読み取るのが「批評」の力のひとつというものではないだろうか。

 連城三紀彦の発想パターンというものは、ぼくの中では長年の謎であった。とにかく、常軌を逸した彼の発想パターンというのは、その作品群を読んでいくごとに謎が深まっていくたぐいのものであった。

 一端はわかっている。
 得意のパターンのひとつは「Aという動機のために、Bという事件を起こした」という因果関係を逆転する、という方法である。つまり――

 この事件の犯人は「Aという動機のために、Bという事件を起こした」のではなかったのだ。「Bという事件が必要だったために、Aという動機を作りだした」のだ……

 ――といったように「因果関係を逆転させる」のである。

 こういった逆転劇は表面的に見れば面白いだろうが、荒唐無稽な発想になるために、整合性を取るのが難しい。読者に「そんな事のためにこんな大それた事をしたの?」という、当然の疑問を起こさせてしまうからだ。
 だから、連城ミステリではこのパターンの事件を成立させるために、登場人物の生い立ちから性格、生育環境、人間関係、時代背景などを練り上げる事で、荒唐無稽なアイデアを荒唐無稽にしないだけのリアリティを作り上げていくのである。

 最初に解だけが判明していて、その解が成立する数式を後から作り上げるような作り方をしている――のが連城三紀彦の創作方法なのではないかとぼくは推測している。

 そして、こういった因果関係を逆転させるタイプのアイデアを使った短編が、この初期の名作である『戻り川心中』には散見されるのである。

 この『戻り川心中』は、連城の常軌を逸したアイデアを文学的な人生ドラマによって分厚く糊塗する事で、それが逆説的に他の作家では書けないような稀有に奇妙な人生ドラマと、不思議な運命を背負ってしまった人々の人生の悲劇という「芸術」を作り上げてしまってた。

 ――というのが、ぼくがこの『戻り川心中』に対して持っている、連城の創作姿勢も含めた発想法の解釈である。

◆◆◆

 もう一つ、連城三紀彦の作品によくみられる特徴を示そう。

 人間関係というものは、個人の人生の中にあって、常に大きな「謎」であり続けるものだ。

 あいつは昔、ぼくの事を〇〇といった風に言った事があるが、あれはいったいどういう意味だったのだろうか――?

 あの子は常にぼくに対してグチグチと酷い事ばかり言っていたが、ぼくと最後にあったあの時、珍しく好意的に「〇〇〇〇〇〇」と言ったのだが、あれは何だったのか――?

 ぼくがたいへんお世話になったあの先輩は、普段優しいのに何故あの時に限って人が変わったかのように攻撃的な態度をとったのだろう――?

 ――と言ったように、皆様もこういった「謎」は、人生の折々で発生しているはずなのである。

 最近つくづく感じるのだが、過去に経験した事について、年月を経てから「あれ?あれって、もしかして〇〇だったんじゃないかしらん?」と急に「答え」に気が付く事が多くなってきた。

 人生経験を積むという事は、きっとそういう事なのかもしれない。

「あいつとはいつも仲良くしていたんだけど、もしかしてあいつは最初からぼくの事を、ずっと嫉妬していたんじゃないか?……そう考えれば、あの事も、あの時のあれも、全部つじつまがあうじゃないか……!」

「え?あれってもしかして……あの子のあの言葉って、まるでぼくに対する告白そのものじゃない?だったらそれまでぼくに酷い言い方をしていたのって実はその裏返しか?まさか、いや…………そう考えれば、あの事も、あの時のあれも、全部つじつまがあう……」

 そう、「つじつまがあう」としか、言いようがないのである。
 ぼくは30代を過ぎてから、自分の過去を思い出していて突然こういった事に思い至る事が急に増えていた。
(ぼくの場合は、人間関係についてはできる限り深く考えないようにしようという意識が何故か昔から強かったという部分もあるが、自己評価が低いために嫉妬や好意といったものには更にニブいというのがある。そりゃ自分が嫉妬や好意に値する人間じゃないと思い込んでいたら、鈍くもなるでしょう。だが、過去の自分の事については幾分、そういった性格を棚上げして客観的に状況を振り返る事ができるからこそ、その当時のその場での感じ方とはまた別の「裏」まで想像が働くようになるのだろう)

 他人の言った「謎の言葉」であったり、「謎の行為」であったり……人生には「謎」が多い。その「謎」が、ふとした事で「〇〇だったのではないか?」と唐突に「解決」する事がある。パズルのピースが全てピタっとあるべき位置に収まるかのように、彼ら、彼女らの言動の「謎」が、ある解釈をすることで、全て「つじつま」があってしまう。全ての伏線が回収されてしまう。

 そう。まるで、推理小説のように。

 『戻り川心中』では、そういった人生の「謎」について、その「意味」が分かった時の登場人物たちの驚愕を、読者たちが追体験させられるのである。

 そういう物語形式だからこそ『戻り川心中』は、否応なく「推理小説」であると同時に、否応なく「人生ドラマ」なのである。
 そういった意味で、本作は文学的な芸術性と推理小説を融合する事に成功している――と、少なくともぼくはそう思っているのだ。かの「探偵小説芸術論」者たちが夢見たように。

◆◆◆

 随分と赤裸々な話をしてしまったかもしれない。
 さて、以下はネタバレも含めて、本書に収録されている5編の短編それぞれの内容について論じていきたいと思う。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆ 以下ネタバレあり ◆ ◆ ◆◆ ◆ ◆ ◆

《注:以下、連城三紀彦『戻り川心中』の中核的なアイデアに触れるレビューとなっています》

◆ ◆ ◆ ◆ ◆ 以下ネタバレあり ◆ ◆ ◆◆ ◆ ◆ ◆


●『藤の香』

 文学的な香りが濃厚な一編だが、ミステリ的な多重の仕掛けは非常に巧妙に仕掛けられている一編。
 主人公が囲っている女・縫の亭主が生きているのか死んでいるのか――という点について二転、三転とする。
 また、巷で起こっている連続殺人事件について、代書屋が疑われ逮捕されたが、この真犯人についても、主人公が「縫が犯人ではないか?」「いや、やはり代書屋が犯人に違いない」等と二転三転する。
 多重解決ものである。
 ただ、このように本作の真相が二転三転するのは、主人公にとって愛人の「縫」とその亭主の関係性が「謎」だからに他ならない。
 「縫」には、主人公との愛人関係と、亭主との夫婦関係という、二重の関係性が存在しているのである。主人公からしてみれば縫と亭主との夫婦関係は「謎」だからこそ、ある時「縫」の不思議な言動によって主人公の心は簡単に乱され「疑い」を持つようになる。
 こういった重複するあいまいな関係性が、真相を複雑にしてしまうといった物語構造を持った作品は、連城の小説にはしばしば見られる特徴でもある。


●『桔梗の宿』

 男女にとって、「恋」の絡む関係と言うのは、永遠に深い「謎」である。
 「あいつ、ぜったい俺に惚れてるだろ?」というのが全くの的外れである場合もあるし、「あのつれない態度ときたら……ぜったいあの子に嫌われたよなぁ」というのも全くの的外れである場合もある。
 特にたいていの男は、奥ゆかしい女の子のほのかな恋心を正確に察知する能力に欠けているものである。

 この物語も、全くそんな素振りのない幼い娼婦が実は、主人公に対して明らかに気を惹こうとするための行動を起こしている。
 だが、「この些細な行為」の意味に気づいた男性が、いったいどれほどいただろうか?(ぼくは、全くわからなかった)
 娼家の近くで起きた殺人事件について、その幼い娼婦「鈴絵」の元に個人的に聞き込みに行く主人公は、彼女の心情を全く理解できない。この子は何を考えているのだろう。何を考えて、自分が訪ねていく時つねに不思議な言動をするのか――?

 「鈴絵」の言動のいっさいの「謎」について、すべての「つじつま」があった時――主人公の驚愕を、読者も追体験する事となるのである。
 それはまさしく、推理小説ばりにすべてのパズルのピースが、ピタリと嵌った瞬間であった。
 その時の事を、主人公はどう考えたのか――考えるだに、そこはかとない人生の哀切が切々と読者の胸に迫ってくるのである。


●『桐の柩』

 この話は、上述した「因果の逆転」という発想が、実に効果的に物語に嵌っている名品だと言えるだろう。
 主人公・次雄の兄貴分である柾は、何故彼に対して「全く憎んでいない親父」を殺させたのか?――というのが、この作品の大きな「謎」であった。
 かくて、萱場組組長である親父は、大切にしていた桐の柩に入れられて火葬に付された。
 だが、これが逆の発想であった。

 「親父が死んだから、柩に入れられ火葬された」
 のではなく、
 「柩を燃やす必要があったから、親父を殺した」
 なのだ。

 こんな突拍子もない話があるのか?こういった荒唐無稽なアイデアを成立させんがために、連城三紀彦は昭和初期という時代を選んだし、ヤクザという舞台装置を選んだのだ。そして、このアイデアに説得力が生まれるよう各々の登場人物の人生を練り上げ、文学的なテーマを入れ込み、否応なく「人を殺してでも、この柩を燃やさねばならない」という状況を作り上げたのである。
 そんな複雑な状況を成立させるために出来上がったのが、このヤクザな者たちのねじ曲がった渡世の悲劇という人間ドラマなのである。

 柾の右手の指が1本しかない、という事が「この柩を燃やさねばならない」という動機の堂々たる伏線になっており、それが同時に主人公と、主人公が岡惚れしている姉さんとの恋愛ドラマにつながる架け橋になっているという整合性の取り方も絶妙である。
 アイデア自体は強引極まりないのに、成立したドラマが奥深い味わいになっている所が奇跡的なバランスのとり方だと思わざるをえない。 

(しかしこの作品、警察捜査的な観点からすれば疑問がなくもない。柾は自分の指紋を隠滅するために、凶器のほうの指紋痕ではなく、自分の指のほうを全て処分する事で証拠隠滅をしようとした。が、左手の指が残っていても問題はなかったのだろうか? 右手がなくなったとしても、左手の指紋さえあれば、右手の指紋痕と照合は可能なのではないだろうか。指紋照合は全ての指が揃っていないとできないのだろうか?「柾が勝手にそう思い込んでいただけ」という風に解釈できないこともないが)


●『白蓮の寺』

 この物語はある種「記憶の謎」を追ったミステリであり、人生ドラマであるといえよう。
 ここでも連城三紀彦は、「顔の見えない男を殺した母、を自分が見ていた記憶」と、「父親がほかの男を殺したのを息子が見ていた」という実際の事件の顛末の不整合の「謎」をどう解決するか、という問題から様々な舞台設定や登場人物の人生を練り上げている。

 本作も基本的には『藤の香』と同じく、父・智周と母・すゑの夫婦関係と、居候していた夫婦の夫・満吉とすゑとの不倫関係、という二重の関係性によって真相が二転三転するわけである。

 この話の面白い点は、「顔の見えない男を殺した母、を自分が見ていた記憶」も「父親がほかの男を殺したのを息子が見ていた」という実際に起こった事の顛末も、どちらも「正しかった」という点にあるのだろう。
 AであればBではない。BであればAではない。……という互いに排他的な事象だと思われていたものが、実はAもBも両方成立していた……という状況を作り出したというわけである。

(しかし、本作も考えてみれば法医学的に問題はありそうである。いくら焼死体になっているとはいえ、刺し傷の痕というものは残るのだから、法医学者が見ずとも刑事が遺体を確認しただけで他殺だとわかるのではないだろうか?)


●『戻り川心中』

 本書の表題作。おそらく、本作が最も推理小説らしい外見を持っているかもしれない。
 そして、本作が最も本書の中で「Aという動機のために、Bという事件を起こした」という因果の逆転現象がハッキリと表れている一編だと言えるだろう。

 本作では「心中未遂事件を起こしてしまったがために、その経験を短歌にしたためて歌集を作り上げた」という通常考えられる因果が劇的に逆転する。

 この劇的な逆転劇が起こった後の風景は――前半の「情死事件」の雰囲気がガラリと一変し――「美と共に死ね!」という赤江瀑的なテーマであった。
 ミステリ的などんでん返しの後に、隠された赤江瀑的な構図が現れるというのが全くもってこの作品の美しくも優れた点だと思う。

 ぼくは何故だか、この作の主人公・苑田岳葉の作風が、どこか連城三紀彦自身の創作スタンスに似たものを感じてしまうのである。
 苑田は、技巧に走りすぎて血の通っていない自らの作品に血を巡らせるために、後付けで自分の「人生」を演じて人生ドラマを作り上げていった人であった。

 それに対して連城三紀彦は――ぼくの想像する彼の創作スタンスでは――、荒唐無稽なアイデアを使い、更には「人工的なドラマだ」とされ文学ではないと揶揄される本格推理という形式に「生きた人間の血を巡らせる」ために、後付けで文学的な人生模様を練り上げ、血の通った登場人物たちの人生やその悲哀を掘り下げていく事によって「血の通った人間ドラマとしての本格推理」に作り上げていこうとしていた人だったのではないかと思うのである。

 人工的な文学形式を使いながら、極度に荒唐無稽で人工的なアイデアを使いながら、――それらに何とかして人間的な血を通わせるために様々に自らの文学的素養をつぎ込んだ。――それが、連城三紀彦の文学スタイルだったのではないだろうか。

 連城三紀彦は、後に「ぼくはもう推理小説は書きません」と宣言し、以後恋愛小説を専門に書くようになり『恋文』で直木賞、 『隠れ菊』で柴田錬三郎賞、といったように本当に推理小説以外で身を立てるようになっていく。
 だが――多くの人が指摘しているように、彼は推理小説を書く時も、恋愛小説を書く時でも、スタンスはあまり変わっていなかったのである。
 劇的な構造の反転劇、因果の逆転、人間の「謎」とその衝撃的な真相――。
 「推理小説は書かない」と言っておきながらも、そういう、彼の推理小説的な作劇方法は、恋愛小説でもあまり変わっていなかったのである。

 晩年、連城は再び推理小説を書くようになるという事実も考えてみれば、連城はけっして推理小説というジャンルに拒否感は抱いていなかったのだろう。
 それどころか――「推理小説は書きません」という宣言自体が、彼が「推理作家」であるという自分の本質を隠し、文学方面に潜入するための、自らの人生を使ったお得意の「トリック」だったのではないか?
 ――そう考えると、何もかも「つじつま」があう。今ではぼくは、彼についてはそう確信しているのである。


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