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違和感

例えば、道にマスクが落ちてたとして、これはいつどういう経緯で誰が落としたのか容易に想像がつく。ハンカチや、片耳だけのイヤホンも、もしかしたら、とんでもないドラマがあったのかもしれないけど、それでもだいたい予想はできる。
落し物の多いこの街で、私が求めてるのはハートの5。あの日横断歩道に落ちていたトランプの違和感だ。

信号は赤に変わったばかり。電車が遅れていたため駆け足でバイト先に向かっていた。ふざけんなよ、電車。と規模の大きすぎる怒りを覚える。雲はどんよりと厚く、気分のいい天気とは言えない。
遅れるかもしれない、と十分すぎるほど申し訳なさそうに連絡を入れたものの、できることなら迷惑はかけたくない。手元のスマートフォンで時刻を確認する、出勤時間まであと10分ぴったり。普段のペースで歩けばバイト先はここから10分ほど。間に合わない。となると走らなければならない。最悪だ。こんな天気の日に走りたい人間がどこにいるんだ。どうにか歩調を早めるためにハイテンポの曲をかける。
あと少しで信号は青に変わる。後、9分。焦りと苛立ちが私の中で喧嘩する。2人は仲がとんでもなく悪いのにいつも一緒にいる。わけがわからない。なんとも無駄に真面目な人間なので、できることならば1分たりとも遅れたくは無い。そんなことを考えながら視線を落とすと、その先には5つのハートが落ちていた。そう、トランプのハートの5。なぜこんな所に、と思った。
その違和感に気がついた途端、苛立ちや焦りはたちまち消え、ハートの5に心を奪われる。誰が、どういう経緯でここにハートの5のみを落としたんだろう。ばらまいたのであれば、複数のトランプが落ちているだろうし、これだけ拾い忘れたのか、あるいは何か故意的に落としたものなのか。犯行予告かもしれない。裏をめくれば、怪盗からのメッセージが、凶悪犯の殺害予告が書いてあるのかもしれない。
思考はどこまでも飛躍する。信号が青に変わる。私は思わずトランプの写真を撮った。ハイテンポな曲に合わせ、ほぼ走っているほどの速度で歩く。何故、あんなところにトランプが。マジシャンの落し物なのか。そもそも、道でトランプなんて取り出さないし、たまたまカバンに入っていたトランプが何かの拍子に落ちたのか。にしてもなぜ。たまたまトランプがカバンの中に入っている、なんてこと人生でなかなか無いしなあ。
止まらない妄想と進んでいく時間。考えながら、走っているうちにバイト先には着いていた。10時ぴったり打刻、セーフ。違和感の経緯を考える私の顔はよっぽど険しかったのか、パートのお姉さんが「そんなに急がなくても大丈夫だったのに〜」と笑いながら言う。
その日は一日、なぜ、あんな場所にトランプが落ちていたのかと考えた。考えれば考えるほど楽しかった。一般的に考えれば、それはきっとなんてことない、ふとした拍子に落とされたものなのだろうけど、都会のビル群の中、横断歩道に1枚落ちたそのトランプは私の心を奪った。その、違和感に惹かれたのだ。
次の日の朝、少し早めに駅に着きすぎた私は何気なく昨日トランプがあった場所を見る。無い。車にでも飛ばされてしまったのだろうか。肩を落として歩く。渡りきる前、横断歩道残り3分の1程度のところで、昨日と同じ違和感を見つけた。そこには、斜め半分に切られたスペードの1。昨日よりひと手間加えられた違和感に片側の口角が上がる。そしてまた、なんとも奇妙で魅力的な違和感の経緯を考える一日が始まった。

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