幸せな日常のための座談会(2022.10.26)

『幸せな日常のための同人誌』参加メムバーと「幸せな日常」とは何か考えた座談会の記録です。
メムバーが「幸せな日常」だと思う作品を選んで鑑賞し、それについて語ることで「幸せな日常」の輪郭に迫ります。
取り上げた作品は、
『ゆゆ式』三上小又
『貞久秀紀詩集』貞久秀紀
『青春の殺人者』長谷川和彦
『ぼちぼち銀河』柴田聡子
の四作。(都合により一部未公開の部分がありますが、準備でき次第公開します)

参加者(五十音順):織沢実、ことちら、古義人、佐藤智史、鯖、山中美容室

織沢 どうも、こんばんは。

佐藤 ちょっとゼリーを食ってるので、ゼリー食い終わったらマイクオンにします。

山中 もうゲームは始まってるなあ。

ことちら こういうバトルになるのか今日は。

織沢 因みに私もさっきまでロールケーキを食べてました。

ことちら なんで「11時からですよ」って言われてるのに、11時過ぎてからゼリー食べてるんだ。そんな不意にゼリーが舞い込んで来ることないだろ。

山中 佐藤くんてパフォーマティブだから。

ことちら サービス精神旺盛だな。

鯖 ちょっとゼリー食っただけなのに渾名がゼリー関連になっちゃうやつだ。

ことちら ゼリーくん。

織沢 どうするかな、ゼリー待ちしとくかな。

山中 ゼリー待ち。

織沢 今日、鯖さん来れるのかなって心配してたんですけど、無事来てくれて良かったんだけど、来てくれるだろうと思っていた古義人さんが体調崩されて……

鯖 みんな腹痛だよ。腹痛多くないですか? 気温の変化とかなんですかね。

織沢 コロナの後遺症なのではという説がありますけど。

ことちら コロナって胃腸まで来たっけ?

山中 僕は来なかったけど。

ことちら 俺もなかった。

山中 でもいろんなパターンありますからね。

織沢 コロナ初期に「お腹に来るぞ」っていうのを一瞬聞いたんだけど……。

山中 それただお腹壊しただけなんじゃ。

ことちら そう全然関係ないんだけど、3月くらいに腐ったキムチ食ってお腹壊して、ぶっ倒れたんですけど。熱が出て下痢が止まらなくなって。その時、喫煙を日常的に始めたてで、なんでお腹いつまで経っても良くならないのかなって思いながら煙草吸ってたんですけど、後で気がついたんだけど、煙草ってウンコを柔くする働きがあるから滅茶苦茶逆効果だったんですよね。

山中 そんな働きがあるんだ。

ことちら 同人誌の刊行準備座談会で、なんで俺のウンチが柔らかくなる話してるんだ。

山中 ゼリーとか食べてるからだよ。

ことちら ゼリー食べてるから柔らかくなっちゃうんじゃん。

織沢 これが「日ため」だから。

ことちら 本番はかっちり話したいですけどね。ウンコもかっちり。

山中 ゼリー長くないか?

ことちら どんなデカいゼリー? 欲張りゼリー君じゃん。

鯖 やめてあげなよ。

織沢 なにゼリーなのかな?

山中 こんなに時間掛かるってことはデカいやつですよね。

ことちら デカくて食べづらいやつ。

鯖 バケツプリンなのかな。

織沢 バケツプリンだったら「バケツプリン」って言いません?

鯖 佐藤くんって捻くれてる所あるから。

ことちら バケツプリン食ってる時にゼリーって言ってるやついたらヤバすぎる。

鯖 こんなことばっか話してて良いの?

織沢 良くない。

ことちら だって来ないんだもん。

織沢 始めておくか。

佐藤 戻りました。

織沢 良かった。

佐藤 ゼリーを食卓で食ってたら、おばあちゃんが今日見た歌舞伎の話をしてくれたので、遅くなりました。

織沢 どんなのやってたんですか?

佐藤 全然分かんなかったな。

ことちら ちゃんと聞いてないじゃん。

佐藤 歌舞伎座に行ったらしくて、古い駄菓子みたいなのくれて、これお腹空いたら食べなさいって言われたんだけど、ゼリー食べてたから要らないって断ってました。

織沢 じゃあ座談会の途中で歌舞伎座お菓子タイムがあるかも知れない。

織沢 幸せな日常のための同人誌(略して「日ため」)の刊行準備座談会を始めていきますよ。

ことちら 始めるザマスよ。

織沢 行くでガンス。

山中 フンガ-。
(間)
織沢 ここにかがみが居れば……。

ことちら やっぱ古義人さんが休んでるから。

山中 オタクコミュニティって、かがみが居ないのが問題ですね。

織沢 古義人さんが居ればねツッコンでくれたと思うんだけど……。
そう本来は古義人さんが要るんですが、今日は体調不良で寝込んでいるらしくて……。

山中 お手紙預かってるんですよね。

織沢 そう、古義人さんを欠いた状態でコメントだけ頂いてやって行きますよ。
まず「日ため」という同人誌のことから話すと、「幸せな日常」というものが近年軽んじられているのではないか。それは「感傷マゾ」とか藤本タツキとかが蔓延る形で見受けられると思うのですが。

佐藤 固有名詞出して大丈夫かな。不安だ。

ことちら いきなり敵を……。

織沢 「幸せな日常」を直視出来てないんじゃないかという所から、創作をする上でそういうことを考えていきましょうよ、というのが「日ため」の趣旨でありまして、この座談会は参加者が「幸せな日常」だと思う作品をそれぞれ鑑賞して、何故これが「幸せな日常」だと思うのかということを話しつつ、「幸せな日常」とはそもそも何なのかという所も話せたら良いなという所であります。

『ゆゆ式』三上小又

織沢 『ゆゆ式』は、ことちらさんの推薦なので、ことちらさんからお話をお願いします。

ことちら 『ゆゆ式』は、「まんがタイムきらら」の四コマ漫画なんですけど、僕は元々所謂きらら系、日常系みたいなアニメが結構好きで、そのなかでも特に自分が小説を書いていて参考になるものが多かったり、「まんがタイムきらら」の基礎的なお話の作り方とか枠組みみたいなものから意識的に離れている作品である所が面白いと思うので、今回とりあえず『ゆゆ式』の話はしたいということで挙げてます。
根本的な話で『ゆゆ式』が何故きらら系のなかで特異な位置を占めているかというと、「真に日常系をやっている」とか言われたりするんですけど、要はイベントがないマンガなんです。「まんがタイムきらら」のマンガって話の起伏はそんなにないので日常系と言われがちなんですけど、文化として固まっていくに連れて人物が要素の集積で出来てキャラクターが全体に濃くなっているんですよね。そのキャラクターを出す効果的な方法として毎回イベントが発生するのがお約束になっていると思うんです。例えば主要人物が誰かと喧嘩をしてしまうとか。一つの軸に合わせて各話全体で話が進んでいくというのが基本的だと思うんですけど、『ゆゆ式』にはその軸がないんですよね。ゆずこ、唯、縁の三人がダラダラ喋る。偶に情報処理部と言ってパソコンでいろいろ調べて、検索した内容について喋る。これを学校だったり溜まり場になってる唯の家で延々やってるというだけのマンガだから物語性が薄い。日常系のアニメ・マンガで一つ挙げるなら『ゆゆ式』だろうと思うのは定型から敢えて離れて、より日常に近い形で表現をやっているというのがあります。
常々、僕が言ってる『ゆゆ式』の大きな特徴って〝物語性に対する照れ″というものなんですよ。それは『ゆゆ式』全体のノリでもあるし、なにより唯、縁、ゆずこの三人の仲のノリでもあるんですよ。良い話っぽくなっちゃいそうだったら茶化すみたいなことが会話のなかでも行われているし、『ゆゆ式』のお話の作りのなかでも行われている。これが分かりやすいのがアニメとの違いなんです。
アニメの第三話最後のシーンで凄く印象的なシーンがあるんですけど、ゆずこと縁が自販機で買ったジュースを投げ合って、ワイワイ笑いながら帰るシーンがあるんですよね。これって凄く良いシーンなんだけど、『ゆゆ式』っぽくはないんですよ。エモすぎて。しかもアニメを三話まで見た人が、ゆずこと縁は唯が好きな二人で、唯を二人で弄りをやったりベタベタくっついたりするけど、唯との付き合いは縁の方が長いとか、ゆずこと縁で唯のツッコミの強さが違うみたいなところがあって、ゆずこと縁ってちゃんと仲が良いのかって不安に思うんですよね。で、それを払拭するかのように、このシーンがあるんです。でもそういうことを原作のマンガってしていないんですよ。だからゆずこと縁は本当に仲良いのか問題みたいなのは、「そりゃ仲良いっしょ」みたいな感じで放置されたまま、沢山読んでいくことで、みんな仲良しだよねっていうのが肌で分かっていくっていう風になっている。
物語性から逃げるみたいな方向性っていうのが『ゆゆ式』の連載初期は薄いんですよね。例えば、一巻一話のラスト。二人が唯のおさげを頭にのっけてニコニコしてて、唯が「コイツら可愛すぎるだろう」って終わるんですよ。これ今だったら絶対やらないんですよ。これがあることで最初のエピソードって、ちょっと「お話」っぽくまとまってるんですよ。こういうのが連載が続いていくことでなくなっていくんですよね。例えば、一日遊んで唯がベッドで「楽しかった」ってジタバタする所とか、ああいうのも今はないと思うんですよ。それはもうやり切ったということでもあると思うし、『ゆゆ式』のノリみたいなものが固まっていくに連れて三上小又の本来の意図みたいな所から遊離しつつあると思うんですよね。
もう一つだけ言うと、『ゆゆ式』って一巻はそんなに『ゆゆ式』っぽくない、「お話」に対する照れがない、みたいな話をしたんですけど、読み返してみると既に結構凄い。一巻の巻頭カラーって高校入学初日の話なんですよ。ゆずこ、縁、唯が初めて制服着て登校する途中で他の二人にあったらなんて言おうかなとか考えてるシーンなんですけど、結局会ってどういう話したとか、入学式どうだったとか特殊なエピソードが一話にないんですよ。すっ飛ばして描いている。この時点でイベントがあったら飛ばすというのをやっていて、これは初期から意識されていたことなんだなと思って面白かったですね。
日常をマンガだったり小説だったり映画だったりアニメだったりで描いていく時に結構重要な要素として、物語性からの退行みたいなことがあるんじゃないかなっていうのが『ゆゆ式』を通して言いたいことですね。

山中 一応、野暮なことではあるんですけど準備座談会って野暮なことをしなければならない場なので言っておかなきゃいけないと思うですけど、どうして物語性を回避することが幸福な日常なのか、みたいな疑問ってあると思っていて、いまから野暮な話をするんですけど、物語ってあらゆる出来事だったり物に意味があるので、その意味みたいなことから離れないと結局幸福な日常みたいな所に行きつかないみたいな意味に於いて物語性を避けるというのが幸福な日常なのではないか、という話に繋がっていく。

ことちら 明るくて軽い、というのが凄く大事で、やっぱり意味が含まれると重たくなっちゃう。例えば『ゆゆ式』でも重たくすることって可能だと思うんですよ、三人の関係をもっとドロドロっと書いたりとか受験の話をしたら暗くなると思うんですけど、そこをバサッと切ってる。物語性から離れることはお話を明るくするってことで、明るくて軽いから「日常」みたいなものが見えてくる。順序は分からないですけどね。

織沢 受験の話とか将来の話とかっていうことを縁、ゆずこ、唯が全く頭の外に追いやっているという訳ではなく、どこかにそれを思い浮かべていながら今の幸せなことを楽しめてる。例えば、五巻の84ページ。おかあさん(松本頼子先生)に、高校時代どんな感じでしたっていう質問をして、唯が先生に「高校時代の友達って今も会ったりするんですか」って聞いて「滅多に会わないですね」って言われていて、これだけだと切ない話になるんだけど、次のコマでゆずこが唯に「私に会えなくなるの辛いか?」とか言って茶化して、それに対して唯が「うっさい相撲とってろ」ってそのまえに相撲の話をしてたので相撲のツッコミをしてっていう風にずらしていく。そこがことちらさんの言う「照れ」だと思うんですけど、それが四コマという定型のなかで「最後のコマにオチが来る」という決まりがあるから、オチの笑いをやることで、どんどん話が深くなっていくのを回避していく形にもなっている。だからことちらさんが言ったように『ゆゆ式』が物語みたいにならない、エモくならないのって四コマという形式があるからなんじゃないか。普通のストーリーマンガのコマ割りになると見開きで物語の解放みたいなことが出来るから、そこで感動する場面を見せることが出来るんだけど、四コマだからそれが出来ないし、やらなくても良いという環境だからこそ、『ゆゆ式』がこういう作品になってるんじゃないかなと思うんですけど、その辺マンガを描いてる人にちょっと聞きたいと思ったんですよ。

山中 コマによる演出が使えないって話ですよね。コマを小さくしたり、捲りで見開きの前に無言で小さいコマを並べるとか、そういう演出が来ないという話だと思うんですけど、確かに四コマという元々の形式が固まっているから出て来れる作品なんだろうなという感じはしますね。

ことちら 『ゆゆ式』の話じゃないけど、マンガでも小説でも人間の記憶の在り方でもそうですけど、ある一瞬を特別視しないのって大事かも。特別な一瞬ってあるとは思うんですけど、それを記憶の中で大ゴマにしないみたいなのって「幸せな日常」みたいなのを掲げて何か創作する時に必要な意識だなって思いますね。

山中 それは本当に分かります。ある一瞬を特別視すると「それ以降の俺ら」みたいになっちゃう。

ことちら 新海メソッドですよね。ある一瞬の特別視って。『秒速五センチメートル』とかって完全にそういう話じゃないですか。

織沢 「日の出を眺める」みたいなことって古来から皆見ているじゃないですか。だから初日の出だろうが、普通の日の出だろうが、日の出っていうのは凄く重要なものではない。ただ陽が出てくることに感動しているという心の動きみたいなものは、その人個人のものだから大事だと思うんだけど、その日の出に向けてスマホを構えてフレームの中に入れて写真を撮ると自分が見ているものは、感動していることが前提になっているというか、靄が掛かるというか、「これはエモい場面です」という風に額縁をつけて飾るみたいになってしまうと思うんですよ。それって日常を大ゴマにするみたいなのと一緒で、どんどん過ぎ去っていくからその一瞬というのが尊いと言えると思うのだけど、でもそれが切り取られて保存出来てしまうということになると、過ぎ去っていくから自分の身体の中に蓄積されていくということがあると思うんだけど、写真を撮るってことをするとその一瞬が自分の中に溜められるんじゃなくて、グーグルとかアップルとかの巨大なサーバーに蓄積されるということで、思い出の保存を外注するみたいなことになっちゃうんじゃないかなってことを思っていて、だから最初に固有名詞を挙げて「幸せな日常」が軽んじられてるんじゃないか、みたいなことを言ったんですけど、写真を撮るということが日常的になってきたってことが日常の中で大ゴマを作るってことと重なっているのかなってことを思いましたね。

ことちら それはインスタエモ写真批判?

織沢 エモ写真批判というよりもエモの問題と言えると思うんですけど、エモって物語化ってことだと思うんですね。だから物語を避けていきたいっていう創作上の志向っていうのとエモを避けるっていうのは同じだよねって言うことだと思う。だからエモというものを掲げているインスタとか感傷マゾとかっていうものは我々の志向とは違ってくるよねっていう話で、良いかどうかは人それぞれなんですけど。

山中 だからこのパートの特権がどうのみたいなのは、この後の予告をしておくと多分『青春の殺人者』のパートでひっくり返るかなという感じがするのと、あと個人的な感情でちょっと話をすると、四コマじゃなく普通に見開きとかを使っても「幸福な日常」は出来るというのを黒田硫黄の『茄子』はやってるので、別に演出を効かせようが出来る。

織沢 『茄子』の話もちょっとして欲しいですね。

山中 いや、それはちょっと別の話になってしまうので。

織沢 佐藤さんどうですか、『ゆゆ式』は?

佐藤 僕の『ゆゆ式』の印象だとアニメの一話の警報機に引っ掛かっちゃうシーンあるじゃないですか。

ことちら 本屋のね。

佐藤 そう、あのシーンが『ゆゆ式』のなかで一番印象に残っていて一番好きなシーンでもあるんだけど、ああいう警報機に引っ掛かって吃驚するみたいなことがことが普通にあり得ることなんだけど『ゆゆ式』では四コマの起承転結の転に当たっていて、切り取るのが上手いなぁっていうのが僕の印象ですね。その他の話だと……難しいですね思ったより難しい話が展開されたから色々考えたんだけど、物語から抵抗っていうのだと現状答えが出ないですね。僕は物語必要だと思ってて……俺追い出されるかも知れないな、この話したら。

山中 今回の座談会の目的って、それぞれの日常観をぶつけ合うみたいな所なんで、違う方が良いから、違ったら違ったで「自分はこう思いますね」みたいなのがあると良いですよね。

佐藤 なるほど、じゃあ織沢さんに俺が追い出される前提で話をすると、さっき綺麗な景色を撮って写真にすることでエモいっていうフィルターを掛けてある種の物語化されるみたいな話があったと思うんですけど、僕はそれを特別な一瞬を物語化することは僕は良いというか寧ろ「幸せな日常」ってものを考えるには、それしかないと思っていて、というのも僕らが『ゆゆ式』みたいな本当に幸せな生活を送れたら良いんですけど、そうじゃないじゃないですか。幸せな日常を本来的に一部の隙もなく送れている人なら良いんだけど、多くの人は幸せじゃない日常を送っている訳ですよ。人間っていうのは。だから基本的に自分の生活っていうのを全然肯定できなくて、日常の何気ない一瞬も別に分からない訳じゃないですか。基本的に不満を抱えて生きている訳なので、それがばっと綺麗になる奇跡も起きない訳ですよ現実に生きている訳だから。でも一瞬の綺麗な景色とか人と会話していて一瞬物語的に驚くような錯覚みたいなものが、例えそれが錯覚だとしても綺麗な景色を見てそれを写真に収めて物語化することで、その一点から見た場合に不幸せだった日常が幸せだった日常に変貌すると思うんですよね。だからそういう意味でそれが錯覚だとしても自分に起きた一瞬を奇跡と解釈することによって翻って自分の日常は幸せだったっていうことが、僕は幸せな日常を生きる唯一の方法だと思うんですよ。不幸せな日常しか生きられない僕ら人間にとって。ここで僕が言いたいのは奇跡ってのは起きないんだけど、解釈次第によっては一瞬の錯覚を奇跡と捉えて自分の人生全体をみた時に幸せだったっていうことが出来ると思うんですよね。だから僕はエモい写真を撮って物語化することも全然良いと思うし、得てしてそういうものなんじゃないかなって僕は思っていますね。だからこそ僕は所謂「日常系」作品よりもファンタジーとかの方が日常を感じるんですよ。エヴァとかkey作品とか。僕はノベルゲームが好きだからそっちのフィールドになってしまうんですけど、あれって最後に悲劇が起こるんですよ。日常に於いて全部が台無しになっちゃうような悲劇が起きて、その人生ってのは不幸せだったんだけど何か一点ヒロインと心が通じ合った瞬間そこで生まれた輝きが不幸せだった日常を逆照射して幸せにする訳ですから物語ってのは必要だと思うんですよね。物語化も良いと思うんですよ。

山中 過去を解釈して幸せにするみたいな話を佐藤くんがしていたと思うんですけど、それはその通りで、僕が思っているのは過去を解釈して幸せに思うみたいなことを現在でも出来るんじゃないかっていうことを考えているんですよね。起こっていることは変わらないんだけど、(すごいスピリチュアルな感じになっちゃうんだけど)ただ今あることを幸せだと受け取ることは可能だと思うんです。物語性が危険だと思うのは、もちろん物語って良いものでもあるんだけど、一方で過去に特権性を与えてしまう危険があるって話なんですよ。本当は現在があって、過去があって、未来があって、それらは等しく大事なものなんですけど、物語というものに捉われていくと過去が特権的になっていって、そうなると「幸せな日常」から離れていくんじゃないかと僕は思っている。もちろん物語は全部だめだって訳じゃないんですけど、本当に危ないのは特権性ですね。

ことちら 『ゆゆ式』を褒めっぱなしだと話が進まないので、一つ課題みたいなのをふと思ったのは、ある一瞬の切り取りみたいなものが、僕とか織沢さんとかが考える「幸福な日常」の表現から遠いっていう話をしたんですけど、『ゆゆ式』も切り取りをやっているんですよね。例えば『ゆゆ式』って時系列が特殊で、一年生の四月から三月をやった後に二年生の四月から三月をやって、つぎ三年生の四月から三月に行かずに一年生の四月のまた別の日に戻るんですよ。こういう風に三年生を頑なに避けていたりとか楽しいイベントも悲しいイベントもぶった切ってたりとかして「幸せな日常」めいた部分を切り取ってマンガにしている。これは三上小又が意識的に切り取ってると思うんですよ。外部もあるんだけどこういう楽しい日常だけを切り取って描いている意識があると思うんですよね。そういう幸せな部分の切り取りって意味のあることだと思うんですけど、上手く説明できない。結局或る一瞬を特権的に見ることと或る期間とか或る一定の条件下で起こる出来事を切り取って幸せに描くことの違いを上手く説明できない。たぶん手掛かりになるのは他者の日常に対する想像力だと思うんですけど、でも『ゆゆ式』が良いからといって『ゆゆ式』をやったら良いかというと、それは違うなっていうのは僕の思っている所ですね。『ゆゆ式』的に日常を描くことの意味を一回問い直さないといけないと思ってます。

織沢 『ゆゆ式』と同じことをすることが即ち「幸福な日常」であるということではない。

佐藤 ちょっと聞きたいことがあるんですけど、山中君が過去の特権化が良くないっていう「過去の特権化」って所謂ノスタルジーに浸るとか過去の思い出を反芻していくみたいなことに対してですか?

山中 そうですね。

織沢 その話聞いていた時に思ったのが、尾崎世界観が『ナイト・オン・ザ・プラネット』を一回しか観てないって話なんですけど。

ことちら 俺キレてた話。

織沢 そうそう。

ことちら 俺の好きな映画をお前の思い出にするなっていう。必ずしもじゃないけど、自分の体験ひとつを特権化することって、それを表現することで傲慢になりかねないって言うか、「お前の物にするな」みたいな気持ちが生まれやすい。

佐藤 でもそれは、そう思いたくないですか? 「お前の物じゃない」っていうのは正しいんですよ。だってお前の物じゃないから。「お前の物じゃないよ」で済むんだけど。でも自分がそう思うことは正しいというか、例えば音楽を聴いて「これは俺の曲だ」って思うことは誰しもにあった訳じゃないですか。で、曲に自分の実存を重ね合わせることは良いことだと思うから、「お前の物じゃないよ」っていうのは正しいんだけど「俺の物だ」って思うことは否定するべきじゃないと思う。

ことちら 一生活者としてそういうことをしていくのは良いと思うんだけど、表現する時──特に日常性を志向する場合に避けていかないといけないじゃないかなっていう話ですね。

佐藤 それは分ります。

山中 あと本当に正しい距離感で特権化出来るなら良いと思うんですけど、特権化って凄い難しいからバランスを崩しちゃうことってよくある気がして、バランスを崩すと良くない。幸せって僕は現在に耐えることから始まると思っているんですね。というのも僕は戦争とか震災とかの良くないなって思うところは、「以前・以降」みたいな分断を作ることだと思っていて、そこでくっきり自分のなかで「その前・あの後」が分かれてしまうと「その前」に心が残ってしまう人が一定数出てきちゃうんだけど、本当は「その前」に心を残すっていうのは、正しい距離がとれたら良いと思うんですけど、正しい距離って難しいから「今」に気持ちを向けた方が良い。

佐藤 山中くんの言ってる現在を志向するっていうのは一番健康的でそれが一番幸せなんだと思うんだけど、そこに至るために何か挟む必要があると思うんですよね。

山中 それはそうかも知れないですね。

佐藤 そういう経験から立ち直るためには、ある種のセラピー的な体験が必要だと思っていて、物凄いショックなことがあった時に過去に自閉するのは本能的に当たり前の行動じゃないですか。例えば親しい人が亡くなった時にその人がいた記憶を反芻するのって当り前じゃないですか。それを否定することは出来ないじゃないですか。けどそれは余りにも健康じゃないから、そこから脱する必要があるんだけど、それを乗り越えるために必要なのが物語なんじゃないかな。

山中 そうだと思います。僕も物語化することは健康的ではないと思うけど、物語を契機に回復することはそうだと思います。

織沢 誰かがいなくなるとかショッキングなことが起こると「過去・現在・未来」の「現在」が凄く重たくなる。そこで三つのバランスを保つために「過去」のウェイトを重くするというか、過去を反芻することでバランスをとるってことだと思います。

山中 そもそも僕がこういう風に考え始めたきっかけって、ウィリアム・トレヴァーのテニスの短篇を読んだからなんですけどね。

ことちら ちょっと個人的な話なんだけど、『ゆゆ式』を挙げている自分の欠陥というか、このあいだチェーホフの小説を読んでいて、あれって日常が辛い話なんですよね。労働が延々あって、色々なしがらみがあって。佐藤くんの言っている物語性が生活者として必要とされているのって、そういう所を踏まえた話だと思うんですよ。僕に限らず日常系みたいなものを志向した時に陥りやすい問題として「苦しみの連続として日常を捉える」という視点が欠落しやすい。そこを踏まえた上で日常を幸せに良く書きたい。
ただ幸せさの一個のモデルとして『ゆゆ式』って結構有用というか、大事なんじゃないかなって思いますね。

佐藤 そう『ゆゆ式』って本当に理想なんですよね。だからこそ、それを直接模倣するんじゃなくて、そこに至るまでに何か生まないといけないと思うんですよ。

ことちら 『ゆゆ式』よりも重たいものを背負った上で『ゆゆ式』くらいふんわり飛べるってことが必要だと思う。

佐藤 うろ覚えで申し訳ないんですけど、『ゆゆ式』で「今が一番楽しい」ってシーンがあったじゃないですか。(4巻p64~p65)あれに至るのって超人というか。普通はあんな境地に至れない訳じゃないですか。あの台詞言うまでに何かしらあったとおもうんですよ、彼女にも。それをやらなきゃいけないと思うんですよ。何があったのか分からないんだけど。

ことちら 結構日常系と言われた時にパッと想像しやすいものとして選んでいるから、ここを理想としながら色々踏んでまた戻ってくるっていう手続きが出来ると良い。

山中 幸せな日常はあるっていうのが良いみたいな感じに考え方をチェンジしないといけないと思っていて、それって『ゆゆ式』の場合だと唯ちゃんがいることで「幸せな日常」が全てにあるんですよ、彼女らにとっては。で、唯ちゃんにとっても二人がいることで全てが良しとされるから、人間関係によってそこが乗り越えられているだろうなという感じが僕はしてましたね。

佐藤 そうすると「唯ちゃんを見つけなければならない」みたいな話になってきてしまうんじゃ。

山中 いやそれは色々な乗り越え方があって、人じゃなくても良い。

ことちら 或いは日常のなかでふと感じる感覚みたいなものを手掛かりにしても良くて、その写生を凄いやっているのが貞久秀紀なんですよね。

佐藤 うわ! うま今の。上手すぎ。回し上手過ぎる。

『貞久秀紀詩集』貞久秀紀

織沢 という訳で貞久秀紀の話に移りましょう。
これを選んでくれたのは古義人さんなんですが、古義人さんは今日体調不良なので、コメントを貰っています。

古義人 僕が幸福な日常という題を貰ったときに、貞久を挙げたのは、日常のふとした一瞬によって、今ここにある自分が少しだけふわっと離陸するからです。例えば

「空へ/ゆるやかに近づくにつれてわたしを/拝むすがたに組みあげてゆく」(「遠近会話法」)

といった詩行など。
このように言うと、幸福な日常といいつつ、脱日常的な神秘体験を祝いでいるのではないかという疑問が湧きます。
しかし、貞久はあくまでも、「今ここ」に根ざしているからこそ重要なのだと思います。

聴き入る、と出ていってしまうのですね。世界/ のそとへ//「といってもここのことですがね」」(「渦」)

貞久は自身の詩を「いきいきとした停滞」と述べている。幸福な日常とは、まさにそのようなものではないか。停滞とはネガティブに捉えられがちだが、今ここにありながら、少しだけ離陸する(それは、人との出会い、フィクションとの遭遇かもしれない。)。そしてまた帰ってくる。その往還に積極的な意義を見いだすことを、貞久の詩は教えてくれる。

織沢 というコメントを貰っていて、ここからお話を進めていきたいと思うんですが、どないでしたか? 鯖さんとか。

鯖 僕は最初の詩集『ここからここへ』ってやつ、あれを読んで「世界がわっと立体になる。」とか「等高線のしわをのばし」とか他の詩でもホクロがあって、そのホクロの外に自分の身体があって、その外に町があって、それが全て収縮してホクロに戻っていってホクロが消えるみたいな詩があったと思うんですけど、そういう世界の外にあるのかないのかみたいな、これが良いなと思うし、折りたたまれてく感、好こなんだけど、何を言えば良いのか分からないな。
ちょっと今話していて思ったのは田久保英夫の『海図』。『海図』って奥さんの父親がいて、奥さんがいて、主人公がいるんですね。奥さんの父親がセーリングをやっていて船の旗を作ったりしてるんですけど、昔海軍にいたから海図を持ってるんですよ。自分たちの生活もこの海図に似てくるみたいな話をするんですよ。というのも、抽象を重ねたもの、味気のない海図を頼りにしているみたいな話だったと思うんだけど。その前にゼロがどうとか抽象的な話をしていて、抽象とか観念とかそういうものと……あーでもよく分かんなくなってきちゃったな。海図。そう、海図なぁ。えー難しい話分かんねぇ。

織沢 貞久秀紀を読んで、田久保英夫の『海図』を想起したんですね。

鯖 貞久秀紀のというか、詩の読み方があんまりよく分からなくて。僕はめっちゃ改行されてるやつより、後半に入ってる余り改行されてないやつの方が好き。

ことちら 俺もそう。

佐藤 僕、詩より最後に入ってる散文の方が好きというか。詩論なんですけど、貞久秀紀は「理論と実践」の作家という印象があって、後半に入ってる詩論を詩で実践してるから散文を読んでから詩を読むと大分意図してることが分かりやすい感じでしたね。

ことちら 「明示法について」すごかったですね。

佐藤 いやあれ凄いというか、僕がさっき言いたかったのは「明示法について」のことなんですよね。

山中 ちなみにザッと話すとどんな感じなんですか?

佐藤 「明示法」は貞久秀紀本人の解説によると「ある文によって暗示されることがらがすでにその文に明示されている」っていうのが明示法らしいんですけど。例えば「枝が風にうごき、そのうごきにあわせてゆれる」という文章の場合、「うごき」と「ゆれる」というのは同じじゃないですか。「枝がうごいてゆれる」といった場合、「うごき」と「ゆれる」は同じ現象を指しているんだけど、「うごき」と「ゆれる」が敢えて分けて書いてあることによって、その「ゆれる」は何かを暗示してるんじゃないかっていう錯覚になるんですね。けど「ゆれる」というのが何を暗示しているのかっていうと、枝がうごいている動きそのものなんですよ。だから暗示しているものが、そのまま文章に現れているというのが明示法なんです。
僕がさっき言った、日常というのは一転によって翻って解釈されるものでしかないっていうのは正にこういうことで、「幸せな日常」というのは明示法的にしか理解できないと思うんですよ。例えば、実際の人生というのがあった場合とその解釈(自分がその人生をどう解釈するか)というのは、正に「枝がうごく」と「枝がゆれる」の対応関係になってると思うんですね。だから一個の解釈と実際の行動を擦り合わせることによって、「幸せな日常」が何を暗示しているのか──それは自分の人生だった。そういう風に解釈できると思うんですよ。

山中 なるほど。で、僕が言いたいのは、それを現在にも照射できるみたいな話ですね。

ことちら 俺が「明示法について」で凄く良いなと思ったのは、例えが良いですよね。「枝が風にうごき、そのうごきにあわせてゆれる」凄く普通というか。そういう風に見えることって幾らでもあり得ると思うんですよ。俺は貞久秀紀が書いているような、ふとした時に発生する特殊な感覚みたいなものが日常の描写に於いて大事だと思うけど、それが何故大事かというと、そういう特別な瞬間が無限に発生し得るからなんですよね。枝なんか無限に見るし。
佐藤 詩の方で凄く面白かったのが、明示法の実践的にも面白かったのが「飴鳥」という詩。僕これが一番好きだったんだけど、音読しようかな。

飴をしゃぶりながら/父はおだやかに叱り/叱りにくいので吐きだすか/嚙みくだくか/迷っているのが察せられた/庭には割られた鉢がならべられ/石つぶてがころがっており/わたしはおびえながらも/叱るかしゃぶるか/どちらかにすればよいのにと思っていると/鳥がするどく啼き/植え込みから/冬へ/実をくわえとびたった/父はそれから/割れたもののことを/わたしにあやまらせることなく/鳥の名の由来をかたり/飴がなくなりくらくなるまで/鉢ではなく/かつて/救おうとしてすくえなかった/鳥について/叱るよりおだやかに/わたしにしゃぶりつづけた

最後の一文で「喋る」と「しゃぶる」がごっちゃになっちゃってるじゃないですか。これ吉本新喜劇みたいだなと思って。新喜劇の「乳首ドリルすな」みたいなのあるじゃないですか。なんかそれみたいだなと思って。叱るかしゃぶるかどっちかにせい、と思ってたら、お父さんにしゃぶられちゃったっていう。滅茶苦茶おもしろくて好きなんですよね。

山中 僕もこれに付箋貼ってるんですけど、同じところに。僕は詩がどういう風に評価されるのか分からないんですけど、付箋貼って後から見返した時に、これだけ上手くしようとし過ぎてる感じがして。詩の評価ってどうやってされるのか全く分からないから何も言えない。確かに面白いなと思って付箋貼ったんだけど、どうなんだろうと引っ掛かりもしますね。

ことちら さっきの話の続きをちょっとすると、貞久秀紀の書いてるようなシチュエーションって無限に発生し得るじゃないですか。で、それを感じ取れるタイミングってものは限られてると思うんです。本人のコンディションとか、本人が持ってる言語的なセンスとか、いろいろ。ただそういう瞬間が無限に発生し得る場として日常を捉え直すことが出来るという意味で、ありふれた所から特別な感覚を得るってことの描写は、日常そのものを──ただ日常であるというだけで幸福なものだとして──認識することには欠かせない気がしている。

山中 これから話すのは「幸せな日常」というよりは、「幸せな日常」のための創作パートなんだけど、理論と実作があった時に、理論みたいなものをガッチリ当てはめたものが本当に良いものなのか僕はちょっと「どうなのかな?」と考える所がありますね。面白さみたいなものが理に落ちてしまうじゃないですか。僕は理に落ちると余り良くないんじゃないかなと思う所がある。それなら理論の方が面白いから。その理論を超えて欲しさが実作にはありますね。

佐藤 確かにそうですね。理論が見え透いてしまうのは、その作家の腕の足りなさの気もするけど。

ことちら でも貞久秀紀の詩は理論で作っていても日常に根差していることによってゴロッとした異物感がちゃんと残る気がしますね。

山中 そうですね。今の言い方だと貞久秀紀に対して「こうだ」って言ったみたいになっちゃってた気がしたんですけど、全体でいうと全然そんなことなくて、寧ろこの中でも一番上手くなってる「飴鳥」だけだとダメって話ですね。「飴鳥」は一つあるから良いんだけど、「飴鳥」みたいな詩が続くとたぶん良くないんだろうなと思う。

ことちら 理論の方が面白いみたいなことから、日常に根差すことで避けられる気がしますよね。日常を感じた時にそれは実物として浮かび上がってくるというか。それって日常を描写することを志向するってことじゃなくて、単純にリアリティの問題だと思うんですけどね。リアリティの水準が高いというだけの話なので、日常を書こうとした時にそういうリアリティの水準を高く保ちやすいとかそういうことじゃない。日常を書いてない作品はリアリティが低くなるとかいうことじゃないですけど。単純に水準の問題なので。そこには因果じゃなくても何かしらの繋がりがあるな。

山中 理に落ちてしまうという話で少し展開すると、僕の中で「それは理なんじゃないか」と思ってる作家が宮崎夏次系で、一作目読んだ時凄く面白かったんですよ。あの面白さって貞久秀紀の詩でいうと「飴鳥」みたいな面白さなんですよ。「飴鳥」みたいな面白さ上手さがあって、それは良かったんだけど、数重ねていくと彼女のなかの理論がだんだん見えてきて──それが見えた時に面白くなる作品は存在すると思うけど──その時、宮崎夏次系は(僕の中では)理に落ちてしまう作家だなという印象だったんですよね。

佐藤 難しいよな。理に落ちないように無理やり変えることによって逆に理が見えてくる作家とかもいないですか? 僕は西村ツチカとか読んでて、これ敢えてズラしたってことが見え透いてるように思うんですよね。ちゃぶ台返しのためのちゃぶ台返しになってることを分かってしまうというか。

山中 そうですね。そこら辺は難しい。

『青春の殺人者』長谷川和彦

鯖 口べたなんであんまり、みなさんみたいにうまくしゃべれないと思うんだけど。『青春の殺人者』を幸せの日常っぽい作品として挙げるのってちょっと異質というか。普通にそのまま幸せな日常って聞いて多くの人が思い浮かべるのが『青春の殺人者』みたいな作品じゃないっていうのは思ってて。でぼくが一緒に挙げたのが、『紅い高粱』と『拳闘士の休息』。その二つも結構荒れ狂っていうか荒ぶってるっていうかそういう作風なわけですよ。ぜんぜん、『ゆゆ式』っぽくはない。

ことちら そうですね。

鯖 で、『青春の殺人者』をぼくが選んだのは、異常な……めちゃめちゃ大変な日常の中の、一瞬? 人生とか生活とか日常とかまあ、それっぽい言葉のどれを当てはめてもいいんだけど、そういうのは、本当にすごい個人的な話をすると堪え忍ぶしかないみたいな感じがして、いつ終わらせてもいいみたいなところもあるし、すごく耐え難いものでもあるんですよね。だからこう、すごく写実的に描いたときにそれは幸せになりようもないみたいな、でも幸せな瞬間っていうのはたしかに存在していて、、、これ話しうまくまとまんのかわかんないけど。めちゃめちゃ異常な、苦しいところの、深みにあるきらめきみたいなものが、ぼくにとっての幸せな日常のシンボルなのかな、みたいなことは思ったりして。それで青春の殺人者を選んだのかな。あそことかね、アイスキャンディ食べてるところとか。

織沢・ことちら あーはいはい!

鯖 あそことかは幸せな日常だね。

織沢 うんうん。

鯖 ぼく一人語りだとこれくらいです。もうちょっとなんか、カンバセイション・ピースしましょう。

ことちら ぼくが激烈に日常を感じたのは、市原悦子の演技ですね、やっぱ。

鯖 市原悦子ってどこの誰ですか?

ことちら お母さんですね。

鯖 あー

ことちら 脇毛が生えてるじゃないですか。すごいなあと思って……。ああそうか刃物振りかぶると脇毛見えるんだなっていうのが、リアリティだなあって。

庶民 そうそうそうそう。

ことちら 台詞もすごいじゃないですか、『これでもう働かずにすむ』とか。完全にさっき言ったチェーホフの側、堪え忍ぶほうの日常を生きてる。

織沢 うんうん。

ことちら 俺とかは日常を堪え忍ぶものとして認識してないんですよ。実生活の話じゃなくて、創作物の中で日常を苦しいものとして描くことにそこまでの必然性を感じない。そういう考え方をあんまり内面化はできないんだけど、でもやっぱり……。あのシーンって、まず父親が死ぬことで日常が一度ぶっ壊れて、母親はそれを再建しようとするじゃないですか。もう一回一緒に暮らそう、あんな女とは別れて、大学に行きなさいとか言って、一旦は安心を得ようとする。でもそれが反転して錯乱して、息子を殺そうとする。で殺されて、よかったこれでもう働かずにすむ、って言うのはすごい。そこまでに送られてきた苦しい日常だったりとか、輝かしい理想を抱えながら生きてきた時間の、厚みみたいなものが詰まってるじゃないですか。それってもうそれ自体でむちゃくちゃいいなって思って。

鯖 うーん。俺はなんか、日常ってのがいつでも台無しになるものだと思ってるので。そういうのがこう、トリガーみたいな。枝が揺れてて、そんなのいっぱいあることだけど、それがきれいだなあみたいな、それと同じくらい、人生なんかどうにでもなれーみたいな感じがするし、どうにでもなっちゃうし。俺が好きな台詞で、全部壊れろみたいなのが会ったと思うんだよね。

織沢 ああ、めちゃくちゃにしてくれみたいな。

鯖 そうそう。主人公が経営してるスナックで喧嘩みたいになって、たくさんの人に殴られるのを楽しんでるみたいなシーンがあると思うんだけど。あそことか、ときたま自分を重ねてしまうな。最後の火事のところまでいくと、そこもすばらしいんだけど……。どっちかっていうと、バーを急に閉めるって言って喧嘩になるみたいなのって、日常茶飯事というか……。なんか、最悪やなあみたいな感じです。

庶民 あはは。そうですねえ……ぼくが見てて思ったのは……。さっきぼくは幸せな日常っていうのは現在に耐えるみたいなところから始まるって話をしたと思うんですけど。お母さんってお父さんが死んだ後に、めちゃくちゃ素早く現在に耐えるじゃないですか。死んじゃったもんは仕方ないわみたいな感じで、急に。あれをあの時間でやったらもはや病的というか、この作品の場合はギャグというか笑いになってると思うんですけど。そこらへんは見ててすごいおもしろいなと思うところでしたね。

ことちら うんうん。

庶民 あといちいち台詞がいいですね、最初の方から。お父さん海好きだろうから、海に捨てて上げて大丈夫よ、とか。

ことちら あそこめちゃくちゃすごい。

庶民 そんなわけないのに(笑)

ことちら そのあと、風呂場で急に父親との思い出を振り返ってぼそぼそしゃべるところとかすごいいいですよね。それから、中盤に父親との回想が入るじゃないですか、スナックをやるやらないみたいな問答のシーン。あそことかも良く撮ってるじゃないですか。あれでも性格悪い演出に留まってないと思うんですよ。本当に良いから。

鯖 なんだっけ、そこらへんとかでリフレインされるのが、奪うなら最初から与えるなよみたいな話しあるじゃないですか。あれそうだなあと思って。喪失やなあと思った。

ことちら うーん。お話はいくらでも掘りようがあると思うけど、表現の方法としては、リアリティの水準の高さが日常性というか、普通の言い方すれば時間の厚みですよね。その背後にある時間の厚みをいちいち出してるから、映画の中で日常が破壊されたっていうことの重たさが増してる。

鯖 ナマの生が押し迫ってきている感じがして、好きなんですよね。

ことちら そう、でそれがなんでそうなるかっていうと時間の厚みが出てるからだと思うんですよ。

織沢 うんうん。

ことちら たぶんそれを志向しているわけじゃないんだけど、そういう場合でも結果として日常性があらわれうる、ということの例としてすごくいい。だから三番目にしゃべるのにめっちゃいいなって。

一同 笑い

ことちら さっきちらっとしゃべることメモしてるとき、ああこれ三番目に『青春の殺人者』きて、最後『ぼちぼち銀河』なの完璧すぎるって思ってしまった。

佐藤 『ぼちぼち銀河』へのつなぎも用意してんのかと思った。

ことちら してない、してないよ。やめてよ。

庶民 ぼちぼち銀河から同人誌に行く流れも完璧に用意してるでしょ。

佐藤 番宣までやるんだ。

ことちら 織沢さんがやってください、そういうのは。

織沢 (笑)。ぜんぜん考えずに当日になってしまった。

ことちら (青春の殺人者を)今日見てるし!

織沢 そう(笑)

鯖 織沢さんとかどうでした?

織沢 『青春の殺人者』、すごいなあって思ったんですけど。やっぱり、市原悦子の『もう働かなくてすむ』っていう台詞とか、すごいなあって思ったし。あと、全体通して振り返ると、結局なんだ? みたいな話じゃないですか。サスペンスドラマとして撮るんだったら、親を殺した青年がいて、それを追いかける警察がいてみたいな話にする方がドラマチックで面白くなると思うんだけど。
鯖 うん。

織沢 でもそうじゃなくて。その親を殺した青年が、何をしてるかもよくわかんないんですよね。逃げてるわけでもないし。

鯖 なんか走ってるみたいな。

織沢 そう、走ってるみたいな。

ことちら あと、こういう話として特異なのは、解放感がなくないですか。

織沢 うんうん、たしかに。

鯖 いっときの息継ぎみたいな解放感だけでやりくりしてるのが、日常やなあみたいな感じがする。

ことちら あれリアリティっすよね。

織沢 あと、死体を海に捨てた後に、桟橋を戻ってくるじゃないですか。

ことちら ああ、はいはいはい! 急いで逃げてくるっていう。

織沢 あそこの戻り方がすごいわかる。最初ゆっくり歩いてきてだんだんすっごいスピードで帰ってくるっていうのは、すっごいわかる。

ことちら そうそう、わかる。なんかそういう細部の分厚さって、……大事だなあって(笑)。シンプルにリアリティの話なんだけど、そういう、『こういう時はこういう風に感じるなあ』っていうことの蓄積がめっちゃ効いてる。こういう小さいことをちゃんとおぼえて小説書かないといけないなあって思いますね。

織沢 うんうん。……その、最初普通の速度で歩いてるのがだんだん速くなって去る、っていうのって、最初は自分がしていることで精一杯というか、今ということに根ざしているというか、そういうことだと思うんだけど、それがだんだん埠頭の先が遠くなるにつれて急速に過去になっていくから、今までおこなわれてきた殺人事件とかいうことと、自分の体験が並列に並べられるようになっていって、それでだんだん怖くなっていくんだと思うんですよ。だから、徐々に走り始めるんだと思うんだけど。でもその風景は、『今』ですよね、日常っていうか。日常的に、劇的な事件を経験していない私たちでもわかる感覚。

ことちら うんうん。

織沢 だから、その人の中で行われていく非日常化みたいなことと、日常っていうことが、表裏一体というか、同時に行われていくっていうことがあるなあって。

ことちら そうそう、ほんとうに日常的な思考で錯乱し続けているから、よそ事じゃなく観れるっていう。

織沢 そうそう。

ことちら だからこの作品において日常性みたいな話をすると、クオリティに対する誉め言葉になるんですよ……俺はそう思う。で、鯖さんとかからすると、ああいうあり方こそが日常だっていうのが、こういう座談会する意義っていうか、おもしろいところですよね。

鯖 そうっすね。

庶民 あと同人誌の話からちょっとそれちゃうかもしれないですけど、あの映画って段階的に、ここが最高みたいなことを思うところが人によって違う気がしていて。それこそ僕は最後の燃やすまでくるとちょっと引いちゃうと言うか、そこまでやらんでいいって思うんだけど。

ことちら ああ。

庶民 鯖くんの場合は燃やしていいねってなってるわけで。そこらへんはみんなどんな感じなのかなっていいうのをちょろっとだけ聞いてみたいなって。

鯖 全部……みんな違うんだなあなんか。たしかに殺人とかって前半で済んじゃってますよね。

織沢 そうなんですよ。最初の一時間で終わってる。

鯖 僕はなんか、ずっと別々のいろんな楽しみというか。

ことちら ふーん。

鯖 いろんなものを見る……、こういうないまぜの、ごちゃごちゃの海みたいなものが日常だよなあというか。

庶民 放火以前以後でけっこう明確に別れるところって、どうにでもなりそう感が、放火したことで芋蔓式にすべてがバレるなあって感じになるじゃないですか。そこで未来がある程度定まってしまうから。あそこで、あーやめてくれー、俺の殺人を知らないでくれー、って思っちゃうんですよね。

ことちら あ、satooくんは青春の殺人者どこがよかったっすか。……satooくん?

織沢 あ、リスナーに落ちてる。

ことちら またゼリー食ってる?

織沢 あはは。いや、歌舞伎座菓子かも。

庶民 スピーカーになってますけどね、僕のほうだと。

ことちら あ、スピーカーって書いてるけど。

織沢 私の方ではリスナーになってる。

ことちら このままだと俺が繋いじゃうぞ。

織沢 つないじゃうおじさん。

ことちら どんどんつなげちゃおうねって。

庶民 つなげちゃうおじさんだとちょっと違いますね。しまっちゃうおじさんってすごい絶妙なんだな。

ことちら しまわれたくないもんな。

織沢 しまわれるってわかるけど、つながれるだと違う意味になっちゃう。

ことちら 繋がれるおじさんってふつうにインターネットだ。

織沢 私は捕まったのかなって。

庶民 僕はムカデ人間的なの想像してた。

ことちら 俺はなんか、意識の接続かと思ってた。そのへんの蜂とかとつなげられて、おはな〜! みたいなことずっと考えないといけない。

庶民 いやすぎる。

織沢 つながれるおじさんも人によって解釈が違うんですね。

ことちら あ、スマホ落ちちゃってパソコンから入ってるんで続けちゃってくださいって。

織沢 はーい。
ことちら ……でもあれですね。日常を堪え忍ぶものとして書くって言うのを、本当におれは落としがちだから。今回書くときめちゃくちゃ気をつけなきゃいけないなって。

庶民 それは僕も今回話を聞いてて思いますね。

織沢 そこはひとつ「幸せな日常のための同人誌」の、課題として残しておくっていうか。

ことちら そうですね。

庶民 いろんなアプローチがあった方がいいと思うから。ことちらさん個人の課題として、そういうこと考えるのは良いと思う。

ことちら やっぱねえ、前提が2コあるなあっていうのはみんなの話きいてて思いましたね。日常自体を寿ぐみたいなのって、共通じゃないんだなって、ここでも。
庶民 そうっすね。
織沢 『ゆゆ式』とか、日常が幸せなものだと思ってる人、まあ私とか、が読むと、いやその通りだよな! って思うんだけど。言ってくれてありがとう、じゃん。

鯖 正直、ゆゆ式は無邪気すぎると思う(笑)

ことちら そう、今回しゃべってて、そうだなあって。でもただ無邪気じゃないのが、切り取りの意識がちゃんとあるっていうとこですね。三年生の話はしてないし、イベントはやってないし。

織沢 ただそれってあんまり前面化してこないですよね。

ことちら そう、あくまで表層はやっぱり無邪気ではあるし。

織沢 深く深くゆゆ式につきあってる人は、いやこういうところがっていう風に言えるけど、っていうことですよね。でも表層的には……っていう。

庶民 一話見たらだって、こいつら、かわいすぎるだろ〜!って。

鯖 そりゃゆゆシコbotも出てきますよ。

ことちら なんかでも、そこを片手落ちにしたくないですよね。日常を無条件に肯定するところもみんなあっていいと思うし。で日常を続けることの苦しみに対する意識も、みんなあってよくて……そのバランスは各々だけど。……で、青春の殺人者のお話の話をしていいのかな。佐藤くん落ちちゃってるらしいから。

織沢 いいと思う。

ことちら 終盤、自分の日常の外部の世界が広すぎて絶望するっていう話があるじゃないですか。自分が両親を殺しても、同級生の結婚も変わらない。で、機動隊に俺が両親を殺したって言っても信じてもらえなくて、勝手に殺してくれって言われたりする、それは、さっき言った他者の生活に対する想像力が裏返ってるみたいなことだと思うんですよ。たとえば、それこそ『ゆゆ式』のおもしろさって他者の生活についての想像ですよね。ああこの子たちはずっとこういう話して高校生活過ごしてんだなって。そういう事柄が、自分の日常からは遠いんだけど、確かに在るものとして認識されたときに、視野が広がるというか、世界の奥行きが出るというか……。そういう他者の生活とか習慣に意識が向くときの、広がりの感覚みたいなものが日常の描写では重要だと思うんです。で、『青春の殺人者』はそこがひっくり返ってるんですよ。自分の日常はぶっ壊れたのに、それで世界全体が壊れないなんて思ってもみなかったわけじゃないですか。純ちゃんは最初、殺人なんかしたら警察や国が放ってはおかないはずだって前提で動く。でも警察は動かないし、なんか逃げ切れちゃってるし、どういうことなんだ! っていう。それは、広がりが絶望を生んでるんだなって。

織沢 海に死体なんか捨てたら竜巻でも起こると思ったって台詞がありますけど。

ことちら ああそう、まさにそれですね。

鯖 他者の想像力っていうと、僕はそれがなくてよく問題を起こすんだけど。他者って言うものがよくわかんない現象としてそこにあるみたいな認識があって。だから、習慣とか知識とかでなんとなくこの人がこうだってのはわかるんだけど、結局なにがなんだかよくわかんない。今起こってることと過去起こったことがどう関係するのかあんまよくわかってなかったりする。全部こう、自分対世界みたいになっちゃうというか。そこに埋没していくなあみたいな。

ことちら でもそういう閉息感から出る一歩目としてあると思うんですよ、この人も暮らしているんだなっていう実感って。

鯖 ああでもね、また個人的な話なんだけど。今仲良くしている女性がいて。『わたし鯖くんみたいに、いろんな話ができる手紙書けないよ、きっと使ってるシャンプーがどうとか、なに食べたとか、そういう手紙しか書けないと思う』って言われて、でもそういう手紙うれしいなって。だから今おれは、そういう手紙が送られてくるのを待ってる。

庶民 そういえば、貞久秀紀からの手紙で「あそこの駅のドラッグストアにある人体模型がすごくいいのでおすすめです」みたいな手紙が送られてきたとか解説で書いてる人がいて、良い手紙だなあって思ったんですけど。

ことちら いいなあ。

鯖 ぼくの中だと、無名の人間が親しくしてると固有名が与えられるみたいなことがあるかも。それから親しくなって心を開いていくと楽しくなっていくんだけど、それまでがだるいし、結構多くの人は無名だし……

庶民 あー、それだとぼくは無名の人間がなんかやってるのがおもろいみたいなのがありますね。無名の人間のくせになんかやってるのすご〜、みたいな。

ことちら そうそう! で、そういう気づきって無限にありえるんですよ、さっきの感覚の話とつながるんですけど……。結局そういう気づきがもたらす広がりだと思うんですよね、日常の中で幸福に感じる瞬間って。やっぱ生活は繰り返しだし、自分ひとりだったり家族数人だったりで、構成員も少ないじゃないですか。自閉していく。

織沢 うんうん。

ことちら だけどそういう自閉的なループが、他者、それも自分が存在すら知らないような他者にもあるっていうこととか、そのループの中に思いがけない豊かさが本当は無限にあって、それを無限に見逃し続けているんだってこととか。そういうことに気づいたときに、そのループがより深く、分厚く、大きくなるというか。そういう瞬間が幸福な日常ってことだと思う。

鯖 へー。なんとなくわかるけど実感はできないかもしれない。

ことちら そう、いや、ここは違って良いと思う、各々の生活者としての実感だから。で、俺はそう思ってて。ここにこの人も住んでるんだなみたいなのを……あれですね、だから……(笑)

織沢 ええ(笑)

鯖 くるか!

ことちら 柴田聡子の、夕日って曲が一番好きなんですけど、あれで言ってたなあって……

鯖 なんか下手だな。笑いすぎて。

ことちら おもしろくなっちゃって……。一発ギャグだこれ。

庶民 繋ぐっていうギャグ(笑)

『ぼちぼち銀河』柴田聡子

山中 一応「ぼちぼち銀河」を挙げたのは僕なので僕から話すと……。正直「ぼちぼち銀河」じゃなくてもよかったんですけど……。さっきから僕は繰り返し「現在に耐える」みたいな話をしてるんですけど──それはまあ批評好みしそうな言葉ですが──もっと平たく言うと、「今に気持ちをとどめる」みたいなところが「幸せな日常」の出発点だと思っていて。じゃあ具体的に、今に気持ちをとどめるってどういうことなのかと考えると、この世に在るということそのものに喜びを感じることなんですよね。僕はけっこうそういう作品が好きで。たとえば黒田硫黄「茄子」であったり、磯﨑憲一郎の小説だったり。彼らの作品では、悪いことが起きてもそれを全面的に悪いことだとは思ってないというか。悪いことを書いたとしても、もっとデカい意味で「こういうことあってオモロいよね」みたいな肯定があるんですよ。最近だと僕は『西行花伝』とかが特にそうだと思ったんですけど。そんななかで、座談会の題材として音楽を挙げたいとなったときに、僕はあまり音楽に詳しくないんで、僕の知ってる中でそういう「この世に在る」ということに歓びを感じている音楽の一つに柴田聡子の「ぼちぼち銀河」があるんじゃないかなあと思って選びました。

織沢 うんうん。

山中 僕はあんまり音楽についてどういうふうに話せばいいかわからないんですけど……。あのアルバムの中では、「雑感」って曲が大事になってくると思うんですけど。すごく好きなところがあって。「どこにだってあるものでもこことそこじゃ違うので/ここにないからどこかにあると思って来ただけです」。これって、僕なんか、ブックオフなんですよ。旅行先のブックオフってこれなんですよね。

織沢 わはは。

山中 あと、歌に関して語るときに歌詞だけを取り上げて話すのって無粋なので音についてもちょっと言いたくて。「旅行」っていう曲はこう、ビヨヨヨーンみたいなイントロで始まるんですけど、うちの洗濯機の音にめっちゃ似てるんですよ。洗濯機回すと「柴田聡子の「旅行」がかかりそうな感じだなあ」と思うんですよね。その感じで、日常だなあと思って聴いてるアルバムですね。

織沢 わはは。いい話だなあ。

山中 あと歌詞についてももっと話したいんですけど。「旅行」の中でも好きな歌詞が、「観光地の手すり 売店 着ぐるみ/旅館で聴くサンバ ボサノヴァ/一瞬だけ月」ってところがあって。ここも「特権が……」みたいな話に繋げれそうなので繋げて話してみるんですけど、音とか見るものとかに対する特権みたいなものがすべて取り払われているような感じがするんですよね。ボサノヴァとかサンバを聴いていて、それは音を聞いているんだけど、どちらかというと「そこの場にいる」っていう意識の方が強くて。だからそこから自然に「一瞬だけ月」みたいな。月は聴くものではないと思うんだけど。すべての感覚がひとつなんですよね、切り離されていない感じがあって。そういうところとか良いなあと。ほかの人の感想も聴いてみたいですね。

ことちら 俺は「夕日」の歌詞が好きで。知り合いが住んでたところを回っていく話で。これこそ俺が思う日常性というか。日常の中でぐわっと開けてくる瞬間に近いなあと。なんなら柴崎友香っぽいんですよね。『その街の今は』『わたしがいなかった街で』とかってそういう話じゃないですか。ここに私がいたかもしれないし、いなかったかもしれないし、ある人がそこにいたっていう事実が──それを思い出せるとかイメージできるとかいうことと関係なく──ただそういう事実があるっていうことが良い、というか。……良いとしか言えないんですけど。

山中 わかりますね。

ことちら ただ日常をダラダラ書くだけで良い、っていうのは無邪気な方法だと思うんですよ。それはもう使えなくて、じゃあどうするかっていうとこういう、視界が開けるような瞬間を書きたい。「夕日」で歌われている、ここに知り合いが住んでたんだと思ったらその街が急に身近に感じられる、というような感覚はまさしくそうだと思うんです。

山中 うんうん。

ことちら あと同じ曲の歌詞で好きなのが、「どこで適当に聴いても泣けてた曲/レコード買って聴いて そうじゃなくても宝物」ってところ。飾ってないなあっていう、スタンスとしてのかっこよさもあるんだけど、これってこんなにゴチャゴチャ書かなくてもいいじゃないですか。作り事で歌詞書いてるなら、レコード買って聴いたんだっていうストーリーをそのまま書けばいい。でも柴田聡子はここで、自分にとって大事な曲っていうのは、そういうストーリーが仮になかったとしても宝物だったろうなって思ってる。こんな風に、作り事じゃないから整理されていないっていう感じが、柴田聡子の歌詞ってそこここに残ってるんですよ。

山中 やっぱ全体的にごちゃごちゃしてますよね。

ことちら こんなに整理されてない歌詞はないだろうという。

山中 「旅行」でも、「気づいた? 今は牧場走ってるのに気づいた? 気づいた?」って終わる。

鯖 僕は「ようこそ」っていう最初の歌が好きで。歌詞をあんまり気にしないからあまりよくわかってないんだけど……。この曲の音は、南国風っていうのか、変な音ですよね。

山中 柴田聡子が「ぼちぼち銀河」でやっていることって、「案外王道をやっても大丈夫だな」みたいな安心からきてるらしいんですよ。今の音楽の流行とはズレたセンスを持っているからこそ、王道のものをやったとてどうせズレるし、自分のものにできる、っていう自信でできたアルバムらしいんですね。

ことちら 関係ないけど、歌い方が多彩でいいですよね。「サイレント・ホーリー・マッドネス・オールナイト」の語尾を丸めた歌い方とか、英語みたいに聞こえる耳障りの良さとか。その一方で譜割に違和感のあるところもあって、それもおもしろい。

山中 けっこう歌詞見たら、「こんなこと言ってたんだ?」って箇所ありますよね。

ことちら 「ぼちぼち銀河」の、「話し合いに化かし合いに大笑いに泣き」ってところとか、「話し合いに化かし 愛にお笑いに泣き」って聞こえたり、みたいな、……同人誌に還元しづらい話なんだけど。スムーズに音として流れるために、意味の通りをぽんと投げてるところがあって、そことかおもしろいですね。

山中 お、音楽代表、「俺こそがぼっち・ざ・ろっく!だ」佐藤が帰ってきましたね。

ことちら おまえマジで悪いな。

佐藤 抜けて良いですか、そんな説明されてさあ。抜けようかな。いや遅くなりました。スマホの充電がなくなっちゃったんで、充電してる間におやつ食ってました。

織沢 お、歌舞伎座のおやつですか?

佐藤 いや、ふつうにメロンパン食いました。

ことちら 締まらんなあ、伏線張ってたのに。

佐藤 歌舞伎座のおやつ食おうと思ったんだけど、絶対歌舞伎座のおやつ食うって思われてんだろうなと思って、あえてメロンパン食いました。

織沢 佐藤さんらしいなあ。

山中 どうですか、聴きました?

佐藤 聴きました。僕は一曲目の「ようこそ」が良かったですね。あれって田舎に行く曲じゃないですか。「高速も通ってなくて電車も週に1本2本/ロイホにもスシローにも一苦労」って。でも「ようこそ」と、この街に来てすごい楽しんでますと。それから「ひとりぼっちのふりしてたけれど/そんなことはただの一度もなかったんだけど」って歌詞がめちゃくちゃ良くって。これってアンチ「ぼっち・ざ・ろっく!」じゃんと思ってめちゃくちゃテンション上がったんだよな。

ことちら そうかなあ。

山中 ぼっちざろっくの話だったんだ。

佐藤 ぼっちざろっくのオープニング曲のカップリングで、「ひとりぼっち東京」って曲があって。よくある上京したナイーブな若者の曲なんだけど、ああいう曲を聴くたびに「世間ってもっと優しいよ」って思うんですよね。柴田聡子はそういう世間の優しさみたいなものを信じてると思うんですよ。「田舎にようこそ」って言ってるけど、柴田聡子は田舎も都会もどっち好きだと思うんですよね。だからこそ「旅行」では、田舎にない魅力、みたいなことも言っていて。それでも、自分の街とそのほかの街、全体を含んだでっかい生活の話をしているわけだから。こういう柴田聡子的な価値観っていいですよね。

(続きは随時更新します)

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