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物の価値と評価基準が多様化している話。

久々に小説でも読むかと思い、Kindleで「小説」と検索して羅列された作品の中に、朝井リョウさんの著者、『スター』という作品を発見した。

せっかくなので、この作品を読み終えてばかりの今の気持ちを文字に起こしていこうかな。

スターに憧れる人とインフルエンサーの存在

何者かになりたかった自分にとって、不特定多数の人から評価されているスターのような状態とはまさに理想の姿であり羨望する対象である。

今は国民総発信時代とも言えるくらい、数々のSNSで気軽に発信・表現できるようになった。その延長線上で、それまでごくごく普通の人が多くの分野で「影響力」を持つことはもはや珍しくなくない。
そんな時代背景もあって、具体的な中身(理念や明確なビジョン)とかはないけど、とにかく有名になりたいという目的を叶える手段としてSNS発信に力を入れる人たちもかなり多い。

この影響力という抽象的な力は、少し前までごく限られた一部の「正真正銘のスター」にしかなかった力だ。
でも今は誰もが「インフルエンサー」という存在になれる可能性があり、どんな人でもスター性を手に入れることが可能になっている、といえる。誰もが何かしらのスターになれるチャンスに溢れている世の中なのだ。

その点何かしらの分野で「本物」になりたいクリエイターやプロにとっては、複雑な想いを抱える人もいておかしくない。
その分野を深く学び突き詰めている人から見れば、知識も浅く実力が伴っていないような作品や商品が、単に『インフルエンサー』ってだけでその人の「ファン」にとっては価値のあるものとなり、たくさん売れたり観られたりすることに納得がいかない場合もありえるからだ。

本物を突き詰める人やビジネスの在り方に理念や想いを重視する人にとって、そのやり方で成功している人たちに対して、何かしら思うことがあっても不思議ではない。

何にこだわったりどうやって作ったか、ということ以上に「誰が」考えたり作ったかのほうが世間に認知されやすく評価されるきっかけにも繋がりやすい今の世間の仕組みは、物の価値や評価を決める上で間違っているのだろうか。

好きって人が現れたらそこに価値が生まれる社会

自分はこれまで発信という活動を通して、自分の考えなどを表現した経験が少なからずある。
その経験の中で多くのフォロワーを抱えて、一時的にその分野において多少なりとも影響力を持っていた時期があった。
その経験を通して感じたことが、自分を長くフォローしてくれている人や癖のある発信した内容に対して「考え方やキャラクターが好き」と言ってくれる傾向はあったように思う。

文章の質としては本屋に並んでいる物書きの人とかに比べたら、文章自体国語的な正しい表現ではない。誤字も多くてボキャブラリーも乏しい。自分としても「多めに見てね」と言い訳したくなるクオリティーだったが、それでも「好き」と言ってくれる人もいることはなんとも嬉しかった。

自分が1人の消費者としての立場のときを思い返してみても、自分が好きな人の発信や作品などは良くも悪くも尖っていたりするのでが強い。
そういう癖を好む自分がいる一方で、なんか無理だと思う人もいるし、否定的な意見もよく目にしたりする。

自分は今住んでる大家さんが個人経営しているカフェがすごい好きである。それは出てくるコーヒーや料理、カフェの雰囲気全体が自分好みだからだ。でもそのカフェを彼女の親は「想いが重くてなんか苦手」だと言っていた。つまり彼女のお母さんの好みや感性にはしっくりこなかったのだ。

服だってそう。
自分はヴィンテージ系の少し黄ばんだような薄汚れたようなデニムアイテムがかっこいいと思うのだが、彼女は良いじゃんと言ってくれたものの、反応から鑑みるに好みではないんだろうと感じたのだ。

好みなんて人それぞれとはまさにこんな感じなんだろう。

きっと、人の数だけ価値が生まれる。

本でも映像でも音楽でも食料でも物作りでも、人にとってこれが正解という価値はもう必要ないのかもね。

『スター』という作品は物の価値や評価基準についてを今一度考えさせてくれるものだった。




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