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ジェンダーフリーという名の不自由

1.はじめに

 私は子どもの頃は、「かっこいい女の子」になりたかった。どちらかといえば女児向けより男児向けのものが好きでした。女児向けの変身ステッキのおもちゃも好きだったけれど、男児向けのものもとても憧れた。一度頼んでみたら「男の子のだから」と断られたので諦めましたが…。
小学校中学年の頃までは背の高さが男女合わせても1番後ろで、当時は背が高かった。そのため男子にも負けないというプライドがあり、プロレスごっこで喧嘩をしたり、時には男の子を負かして男勝りでみんなを引っ張って頼られる女でいることが、かっこいいと思っていました。でも親からしたら「かわいい」女の子らしい装いでいてほしくて髪型を決められたり、リボンが溢れる服を着せられた時はどうしても嫌だった。でも成長するにつれて生理がきて、身長も止まって、胸も膨らんで「女らしさ」を身に纏い、これまでの自分とは同じではないなと感じて、“自分らしい”とは何だろうかと疑問に思いました。一周回ってというか、大人になった今では今度はピンクが好きになっています。でも自分で選ぶからであって、他人に選ばされたものでは意味がない。

しかし、ジェンダーという言葉に囚われて過敏になりすぎ、いつのまにかジェンダーステレオタイプの表現は悪のように捉えて排除しようとする動きや意見も目立つようになってきました。そのため、ジェンダー形成の歴史やアニメ・玩具の自由さについて考察していきます。

2.ジェンダーとは何か

 ジェンダーという言葉が日本に登場したのは、1980年前後のことです。背景には、女性解放運動や女性学の発展があります。性別でひと括りにされ、差別や社会的排除をうけた当事者達にとって「ジェンダー」という考え方は重要な意味をもっていた。性差別の多くはジェンダーに由来すると考えられているからです。

反対に、男性もまたジェンダーに縛られることで無理を強いられて窮屈な状態におかれているという指摘もあります。男だからと弱音を吐かず、仕事中心の生き方の中で競争に追い込まれるという状況があると言われています。 

「男はこうするべき」「女はこうあるべき」というのが、ジェンダー規範として存在する。
それは、人が生まれた瞬間からジェンダー体験は始まっており、社会の中で女の子は女の子として、男の子は男の子として育てることによって。 名前が与えられることも、ジェンダー体験の1つで私達にジェンダーが与えられる瞬間といえます。

歴史家のジャアン・スコットは、ジェンダーを「性差に関する知」であるといっています。(『性差の社会的組織化』という言葉でも表されています)

私達は言語、つまり知によって世界を秩序化し、儀礼や慣習、社会関係、制度や構造によって社会システムを作り上げている。つまり、男と女という性別カテゴリーに2つの人間集団をわけていくやり方は、男と女はどうあるべきかを決定する。例えば、教室という空間の中で男女をわけることやはそれ自体は小さな習慣でも、男女は違うという意識の再生産がされていくという主張です。

ジェンダーという当初の考え方は、セックスは差生物学的性差で、ジェンダーは社会的・文化的性差という説明だった。この考え方を広めたのは、ジョン・マネーです。マネーによると、「自分は男だ」とか「私は女だ」という意識を性自認・性同一性(ジェンダー・アイデンティティ)という。

また、このジェンダー・アイデンティティに基づいて女であるとか男であるとかいう自己意識を表現しているものを、性役割(ジェンダー・ロール)と呼びます。
さらに、「女はこうあるべき」「男はこうあるべき」といった性に関する人々が共有している約束事のことを、性規範(ジェンダー・ノーム)といいます。マネーによれば、人間らしいが性自認、わ学ぶのは言語によってであり、2〜3歳頃だといいます。しかし、その頃までは、性自認の「門は開いている」という。つまり、自分が男だと思うか、女だと思うかは、子どものうちなら変えられるが大人になったら変えられないと考えたのです。

このようなマネーのジェンダー論を批判し、もう一歩先に進めた人物が、先ほど述べたジョアン・スコットや、ジュディス・バトラーがいます。

バトラーは「ジェンダーが構築されるだけではなく、セックスもまた構築されるのだから、セックスもジェンダーも、実はジェンダーなのだ」と主張しています。つまり「男」や「女」という言葉には「男の中の男」や「女の腐ったようなやつ」などの様々なイメージがすでにつきまとっていて、男とは何か、女とは何かを言語を通じて常に確認しあっているというのです。

3.ジェンダー・フリーとおもちゃ


 ジェンダー・フリー教育は「男らしさ・女らしさ」が子どもの生き方や個性を疎外するような社会システムを作り出していることに着目し、それを改善しようとするものです。
子どもひとりひとりの特質・個性を尊重し、それらを充分伸ばしていけるような教育を目指している。例えば、女の子はピンク/男の子はブルーの色でわけることについてもジェンダーフリーでは疑問視されます。

それを踏まえて、この番組の特集を見てください。

『性別に関わらず楽しめるおもちゃの世界 おもちゃのジェンダーフリー特集』として紹介されています。

「からかい」を避けるために、手にとりやすくするための工夫や親しみやすさを込めて作ることや、おもちゃの多様性が増えることはとても素晴らしいと思います。
しかし、『ジェンダーフリー』なのかと言われると疑問なのです。

おもちゃにしても、大人たちが勝手に「女の子」用と「男の子」用とわけているにすぎません。

保育園や幼稚園に入園し集団生活を始めると、男女別に分けられた世界に触れる機会が高まり、子ども同士で仲間わけの確認作業が行われる。自分が誰であるかという自己アイデンティティの構築には必ず他者の存在が必要だからです。

人は常に一貫したアイデンティティを持っているというよりは、周囲にどんな他者がいるかに応じて自己の演出が変えているものです。子どもなりにも「キャラ作り」といえるような自己演出をはじめているのです。

この集団生活における仲間わけの確認作業によって、ピアグループ(仲間集団)からの圧力は男子同士や女子同士の間でも発生する「からかい」や「仲間はずれ」という行為に繋がります。

一方、ジェンダーフリーを推し進める中で、現場での男女分けは園児の把握や指導のしやすさもある。トイレの指導や男女の傾向の差はわかりやすく便宜上使いやすい側面ある点も留意したいです。

4.先入観に囚われているのは?


 わたし自身の仕事柄、子どもに関わる機会が多いのですが性別問わず幼児に人気があるのが『すみっコぐらし』です。王道の『アンパンマン』を卒業した頃ですね。

『すみっコぐらし』は、女の子だけでなく男の子にも人気にも関わらず、それでも「これは女の子のものなのに!」と言う女児がいう場面がありました。その背景を見ると、母親が「これは男の子がすること」「女の子は…」と、よく口にしてることが多かったです。

他にもあるのは、『プリキュア』シリーズは女の子のものだから、見せるのはいいけどおもちゃやグッズを買うのは恥ずかしい…という親の話です。

「恥ずかしい」というのは一体誰でしょう。

…………まず親なんですよ。

こちらのエッセイ漫画でも、子どもより大人、親の方が気にしていたとあります。楽しそうでとてもいいです。
もし推しを否定されたら…その辛さは、大人だってわかりますよね。

子どもに与える服装や玩具、これは親の好みが反映されることも多く、これまでのジェンダーロールに拒否感がある親が選べるためという側面もあります。気にしているのは大人の方なんです。子どもにピンクやキャラものを与えるのは嫌だ、カラフルは嫌だと親の好みを押し付けて行き着くのはインスタ映えのためのようなモノクロトーンで統一された部屋や玩具です。プラレールも白で統一する親もいます。

それが巡り巡って、負のスパイラルによって子どもが性別違和や嗜好の反動を抱きやすい。

「リボンやレース、人形遊び、女子っぽいかわいいものが好きな男っておかしい…?」

…もしかしたら自分は男じゃなくて、女の子なのかも。

そうやって思い悩んだエピソードもよく見かけます。
でも、「女の子が好むものが好きな男子」のままだって、それもいいと思いませんか?

女の子向けのを好む男子だから、LGBTのマイノリティ属性なんだ!と親が思い込み、スカートをはかせたがり髪をのばして女らしさを押し付ける親も、昨今では問題視されています。

ジェンダーとは少しそれますが、水族館へでかけた時の話をします。展示の紹介でカエル見て「気持ち悪い」と大人が言うのを子どもが聞いて、その言葉によって「気持ち悪い」ものだと認識する。だから、どうか気持ち悪いと言わないでくださいという案内を見かけたことがあります。

それと同じで、親が「恥ずかしいことだ」と言うことで、子どもが「恥ずかしい」ことだと覚えて、友達をからかう場合もあります。

新しいものを作るのも素晴らしいですが、今あるものを否定せず、そのままでも性別関わらず誰でも楽しめるようにすることだって、大事ではないでしょうか。

『トクサツガガガ』第1巻

お子様セットについてくる男の子向け女の子向けという区分、これも親が「こうしなさい」と選ばせるのも、「不似合いだから」とやめさせるのも望ましさの押し付けであり、好きなものを取り上げる必要はありません。

特撮が好きな女子も、男の子向けに作られたもののまま楽しみたいことだってありますし、女児向けの変身ものも、男の子が見るものじゃないと好きなものを否定することも違います。

子どもの時にハマっていたからといって、ずっと好きかどうかは別であり、抑圧するほうがむしろ反動がくる場合もあります。禁止しすぎた反動で自由になってから熱中するものはアニメやゲームだけでなくファッションや食事にも関わります。

結局は、一番身近なジェンダー形成をする場の家族である親が、「これは男の子」「これは女の子」と決めつけて取り上げてしまったりしないことや、まずは否定をしないことがジェンダーフリーの一歩です。

販売する側からしたら、『男子用/女子用』というより、『男子向け/女子向け』といったターゲティングであり、特にねらいを向けるのも自由であると考えます。

シルバニアファミリーシリーズで、先入観をもたないキャラクターづくりとしてお母さんに家事という象徴になるからとエプロンを外しましたという話もあります。しかし、実際には「家事をするお母さん」はいるのに、わざわざ無くす必要まではあるのか?と疑問にも思います。新しく選択肢を増やすことでいいのに、と。家事をするお母さんという存在やステレオタイプ像そのものが悪い存在ではないですから。

子供向け番組の『プリキュア』が好きな男子のために、メインの変身するキャラクターを男女平等にします!『仮面ライダー』好きの女子のために登場するライダーを半分は女子にしよう!
例えばこんな風になったら…。女の子/男の子向けの中の世界観が好きだったのに、となりませんか?もちろん、製作側が新しいものを作るのは自由ですが、子どものために作るべきだと第三者が言い出せば、誰のためになのか?ねらいはズレていないのか?と考えなければなりません。


少女漫画も女子にとっても、少年漫画にしても、それぞれ都合のいい理想像がフィクションとして存在しますし、ジェンダーバイアスを助長するといって排除するのも違います。

それぞれの考えや生き方、“好き”を尊重するのが 重要です。

5.おわりに


 「ジェンダーフリーおもちゃ」といいつつ、「女の子っぽさ」、「男の子っぽさ」のあるジェンダーステレオタイプの溢れるおもちゃはジェンダーフリーとは別物です。

男の子向け女の子向け表記は意味あるのかな?とは思っています。幼児の遊びを見ていると、幼児は女児も男児もおままごとしたり、車や電車も遊ぶ。ただ、傾向としてどっちが好きか別れやすいものはあります。

おもちゃ自体は色んな多様性があっていいですし、新しい需要を開拓することも自由です。

しかし、これまで女児用とされてきたものを男児向けに変えることではなく、女児も男児も性別を誰も気にせず本人が好きなことが選択できるのかいいと考えます。

「ジェンダーフリー」という言葉に縛られる余り、ステレオタイプ叩きになる例の1つが、「ピンク好きの女子の否定」です。

ピンク好きな女の子は古くさい、ジェンダーバイアスに囚われているとなるのが、とても嫌です。ピンク好きな女子が、ジェンダーバイアスの助長になるからといってピンク以外を選ばされるのは、むしろ「女の子だから」ピンクが駄目というジェンダーに囚われてしまっているから。実際にそれを好きな人がいるのに、好きなものを否定して選ばせるのは押し付けです。

誰が何を好きでもいい。好きをまず否定しないこと。

繰り返しになりますが、男の子用・女の子用だからとか『ジェンダーフリー』という言葉に、大人自身が囚われないのが大事です。

これは、子どもだけの話だけに限った話ではありません。

大人も同じなのです。

自分らしい表現を主体的にする中で、男女問わず好まれるものもあっていいし、異性に受ける要素を好むことも、どちらもあっていいんです。

「男らしい肉体美」「女らしい仕草」などの“らしさ”の否定もせず、らしさを楽しむことだっていい。

ステレオタイプゴリゴリの表現だって、そのまま残ってもいいし、新しい表現が作られても、これまでの既存の表現物が排除される必要は無いと考えます。

性別からの意識開放を目指して、異性のためではなく自分目線になろうという呼びかけもあります。しかし…

行き過ぎると、「男目線のためにやっているに違いない」とか「男媚び」という性別に囚われた目的でしか他者を見れなくなり、相手の意思や存在を否定します。

さらに…

新しい価値観こそが正しいとされると、「望ましい女性像/男性像」から外れたものは排除され、一方的に「正しい」「望ましい」とされる規範への同調行動が促されてしまうのです。

男っぽいもの、女っぽいもの、今ある価値観やそれを好むのは駄目という否定…。新しいジェンダー規範を作ってそれに同調しなさいという圧力。自分達こそアップデートされた側ですすんでいると思い込む。

こういうのは、むしろ相手への先入観がきてしまい、思い込みから決めつけられがちになります。
しかし、逆に自分には目的や意図を決めつけるな、差別するなと怒るパターンもありジェンダーに囚われています。

また、「みんなで女らしさを捨てよう!」と女性らしさのあるオシャレをやめるように促して『脱コルセット』させながら、逆に男らしさを目指すのはジェンダー開放とは別と同じです。「女らしさ」を嫌悪して、みんなで「男らしさ」を目指せばいいわけでもない。

男女関係なく、皆が自分の好きなものを好きと言ったり、自己表現が出来て他人の好きなものに難癖をつけない社会が生きやすくないかな?と思います。

感想や表現は自由でも、排除までいくのは違います。むしろ不自由になっていきます。

それぞれ尊重して、そのうえで自分のしたいことや相手の考えに寄り添うことが「望ましさ」ではないでしょうか。


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