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暇を持て余したOLによるながいも収穫思考録

朝5時、夜明け前だ。太陽が上がる前に起きたのはいつぶりだろうか。

時間とお金の交換。基本的にアルバイトはそれと同義だと感じる。コロナ禍で時間が有り余っていたにもかかわらず、特にそれをしなかったのは、社会人のまとまった休み、にはかけがえのない価値があったからだ。例えどこにも行かなくても。

ただそんな生活を4月から続けると、余暇の価値も魅力もわたしの中では半減していた。

転職費用も稼ぎたいと思い、わたしは人材派遣に登録した。するとちょうど長芋収穫の季節。募集はそれなりにあったので、勤務希望を出した。

           ◇

仕事の内容は掘られた長芋の泥を払い、製品になるものとそうでないものをしわけ、コンテナに運び入れることである。

長芋を運ぶだけ、と思っていたが非常に重たい。
土も固く、払うのにも腕力がいった。

2時間ごとに休憩をもらうのだが、時計がないため、時間もよくわからない中で働くのはしんどかった。

それでも、優しい農家の方々に仕事を教えてもらったり、同じアルバイトで来た人たちと励ましあいながらなんとか長芋とも仲良くなれたかな・・と思う。

お昼には温かい豚汁を出していただき、朝と夕方に畑にコンテナを椅子代わりにお菓子タイムがあったりと、辛いながらも畑仕事の楽しさも味わえた怒涛の4日間だった。

                 ◇

そんな4日間の間、疲れすぎて意識が飛んだ際の思考も書き留めておこうと思う。

長芋の泥をひたすら落とし、製品にできるものと製品にできないもの(ハネ)とに分けていく。

製品にできるものはスーパーに並んでいるようなものだが、できないものはハート形が多かった。コブが付いたものもあり、そういったものは製品にはできないという。

なんだか社会の構図みたいだな、とも思った。きっと長芋も変わった形もあって味も悪くないよ、と気づきはじめたのが今の社会。だから「昔はそんなのなかったから誰かが創作したんだろう」とか言い出す人もいるんだろうな、きっと昔からハート形の長芋はあったのにね、とぼんやり思った。長芋だってそんな思考を重ねられても迷惑だっただろうに。申し訳ない。ごめんよ長芋。

形が変わっていてもおいしいのよ、と農家のおばさんも言っていたし。

              ◇

それにしても農家の方々は本当にすごい、と思った。

結構なご年配の方もいたが、重たい荷物も軽々運んでいたし、絶え間なく無駄のない動きで長芋を収穫していった。生きるために必要な体力っていろいろあると思うが、そのうちの一つが全く衰えていない感じが、神々しかった。

また家族経営の農家に限った話なのかもしれないが、親戚や知り合いが絶え間なくお手伝いに来ていた。わたしみたいにバックグラウンドが異なる派遣の人たちもたくさんいた。

まず自分だったら家族で働く、なんて無理だ。絶対どこかで喧嘩する。し、家族に他の人と話している自分を見られるのがとても嫌なので、そんな環境下で働くとなると、どうしても寡黙になってしまう気がする。
あと、知り合いや親戚が来てくれるってすごいことだ。実際に働いてみて思うが7:00-16:00までずっと外で結構な重労働だ。近隣に農家がある地域では助け合いは当たり前なのだろうか。どちらにせよ、人付き合いが重要であることに変わりない。


人付きあいが生活の一部と考えると、人と話すのがめんどくさい、なんてこと、思わないのだろうか。いや、そんなことはない、と思う。
              ◇

時計がないので、最初はいつ休憩になるのかもわからず、ゴールが見えないマラソンのようでとても辛かった。
ただ4日間繰り返すと「これくらい収穫したからもう30分くらい経ったかな」と肌感覚でわかるようになった。


終わる時間が知りたい時は、空を見上げる。15時のおやつどきの休憩が終われば、空の色は緩やかに地平線から変化していく。

澄んだブルーからゆったりとオレンジに染まっていく。長芋の泥を払いながらそのグラデーションをなぞるように見つめるのがわたしは好きだ。  

そんなこんなで4日間、お世話になった。お給料と、廃棄になる予定の長芋を両手でいっぱいにいただいた。溶かすように過ごしていた時間が、形になったうれしさも胸をいっぱいにした。

パソコンやスマホ、書類に触れず果たした仕事を通して自分の知らなかった世界を覗き見れた気がした。

この経験を通して、自分の知らない世界がまだあるということと、この年になると筋肉痛は遅れてやってくる、ということを知った。

さて、土まみれの洗濯物はどうしようかな。

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