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せせらぎ _『リファ』#22【小説】

 地下鉄四条烏丸駅を降りて、四条大宮方面に向かって室町通りを上がった。約束まで時間があり、周辺を歩く。来月になればこの一帯は祇園祭の山と鉾が立ち並び、異世界に変容する。

 “動く美術館”と呼ばれ、きらびやかな山と鉾が巡行する祇園祭の本番は、コロナで中止が発表されていた。

 ただ京都に暮らす者は、山鉾巡行よりも、京都の繁華街に現れる山車たちの景色のほうを、祇園祭だと認識している。時期になれば奥ゆかしいコンチキチンの祇園囃子の音も街中に鳴り、いつもの街が祭りに飲み込まれるほど、幻想的な世界に一変する。

 燦然とする宵山や宵々山(前夜、前々夜)に、ほとんどの京都の学生たちは出かけるのだ。10代にとっては一千年近く前から始まった祭礼よりも、祭りの高揚感やナンパ目的なのだが。

 記憶から引き出した祇園囃子を耳で奏でながら、姉小路通に入って、新町を下がる。まだ陽の高いなか目的もなくぐるぐるしていたら、ぎゃ!と前を歩いていたカップルの女性が叫び、飛び跳ねた。うつむいてきょろきょろと頭を動かす女性の、目線の先を追う。

 ゴキブリがいた。

 どこかの飲食店から出たのか、街中で遭遇するとは逞しい。「ほんと、気持ちわるい」と女性は連れの腕にしなだれかかる。神出鬼没のアイツは、虫離れした猛スピードで走り去っていった。

 あの時も、急に遭遇した。

 「わ、せせらぎ!」

 恵比寿にあるスペインバルのカウンターで、肩を並べていた。この日で二度目のデートながら、賑やかなバルの喧噪とカウンター席の距離、ワインによる酔いの高揚、そして、ニンニクがぷんぷん香るアヒージョをシェアし合っている事実が、ふたりの距離を近づけていた。

 白ワインが喉を通ったそのとき、太一と私の足元に黒光りするアイツがいた。その存在に先に気づいた太一が、声を上げたのだった。せせらぎ、と。

 「好きなんですか?」

 分身に出会えたようなうれしさで、私は心を弾ませながら聞いた。

 「好きな人なんているんですかね、人類以前から繫栄し続けるアイツらを」

 「そうじゃなくて。伊坂幸太郎。『魔王』ですよね?」

 私は身を乗り出していた。

 伊坂幸太郎の小説『魔王』は、大きな全体の流れの中で、個人が個人的に抗うという話。政治を直視して考えすぎる兄と、隣人や小さな平和を愛し続ける弟というふたりが描かれる。真逆の方法で、大きいものへの孤独な戦いを続けているその兄弟のことが好きだった。自分と地続きの世界にいる知り合いのように感じてもいる。

 その兄弟は、ゴキブリが嫌われるのは名前のせいだと主張した。ゴとブと、濁音が二つもある。名前を変えれば印象は変わると、ふたりは“せせらぎ”と呼んだ。

 「そう『魔王』! ちょうど読み返していたから、影響されたみたいです。よく気づいたね」

 太一は、少し照れた。

 「でたらめでもいいから、自分の考えを信じて、対決していけば」

 私は、『魔王』の中で書かれる印象的なセリフを諳んじた。

 「大事なことは二度か三度書くよね、伊坂幸太郎はいつも」

 伊坂幸太郎の作品の中で、一番に『魔王』を挙げる人はいない。ほかも読んでいるだろうと予想していたら、その通りだった。さらに前のめりになる。

 「セリフがオシャレで、ちょっと現実感ないやつでしょ」

「それこそが良さなんだよ。サカナクションが何を歌ってもサカナクションの曲であるように、何を描いても伊坂幸太郎」

 私は、内容について、太一ともっと話したかった。

 「兄のほうがさ、バーのマスターとファシズムについて議論する場面あるじゃない? 『全員が結束し、意識を合わせ、キャンドルに火を点すのは、ファシズムではないのか?』という問い。自分以外の何かのために祈り、キャンドルを灯す集団は、ファシズムと批判すべきかどうかっていう」

 「あるよね。緊張の場面」

 太一も、自分が読んでいる小説について話せることがうれしそうだ。

 「人口の半数以上が誰かのために祈ったら、世の中は平和になる。でもその統一された行動もファシズムなのかって、どう思う?」聞いた。太一はうーんと少し見上げて、「オレもわかんないだけど」と続けた。

 「考えろ、自分の頭で考えろって、いつも伊坂幸太郎は書いてる」

 「うん」

 敬語だったやりとりは、自然と崩れていた。

 「考え続けるプロセスこそ重要だって、言ってるんじゃない?」

 質問を疑問で返された時のような、もやもやが内側で広がる。

 知りたい答えではなかった。ただ、太一への好感度は爆上がりしていた。伊坂幸太郎好きに、悪人はいない。

 一昨日の昼まで、太一への不信に押しつぶされそうだった。なのに、愉しい記憶が蘇る。不思議なものだ。

 え? 私の視界が斜めになる。トントンと肩を叩かれて振り返ると、右頬にぷにゅーと指が食い込んでいた。

 八重歯を覗かせてふふふと笑う、菜々実が立っている。両膝のうしろを突かれる膝カックンと、肩を叩かれて振り向くと頬に指が刺さる原始的ないたずらをされたらしかった。

 「久しぶり、無防備すぎやろ」

 腕を組んだ菜々実が言った。白いマキシ丈のワンピースに、ラメの入った細いヒールのサンダル。女王様然とする立つ姿に、既視感がある。懐かしさが戻ってくる。口調はさばけているが、この女は蠱惑的な魅力が昔からあった。



つづく


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