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告白 _『リファ』#25【小説】

 「えっ、ゆず茶で二軒目?」わけがわからなかった。

 「明日は有休を取ってあって。今夜、グランヴィアに泊まる。不妊治療で疲れたら、周辺のホテルに一泊して翌日スパでマッサージを受けてるんよ。京都の観光客が減って、宿泊施設がものすごく値段が下がっていてお得やで」

 京都で生まれ育った菜々実が、そうやってリフレッシュのためにホテルを活用しているとは。

 「克彦さんは先に部屋にいるの?」

 当然のように聞くと、菜々実は何も答えない。タクシーの外に目線を移した。狐につままれたような心持ちになる。次の言葉を思ってはいても、あのころのようにはぶつけられない。

 学生のとき、複数人とつき合う菜々実をなじったことがあった。「一人で足りない部分は、他の人で補えばいい」それは菜々実の理屈であって、相手はそれを知らない。不誠実さにしんどくならないの? 一人の人をちゃんと好きになることから逃げてるだけとちがう? 正論を振りかざしながら、恋人が途切れない菜々実への羨ましさもあった。

 道徳を説かれるなんてうんざりだという顔をして、「どうしようもないねん」と菜々実は言った。

 複数の恋人と関係することでしか解消されない淋しさが、あったのかもしれなかった。新卒で入った人材派遣会社で知り合った克彦と結婚し、今はその穴を何で埋めているのか。聞いたことはなかった。

 そこに菜々実にとっての正義が、きっとある。すべてを明け透けに話せる関係が善ではないと知る年齢にもなった。

 でも。

 今ならば、私は急に、言いたくなった。

 たった一つでも、人が意識的に隠していることがあると、小さなうそをつき続けなといけなくなる。「何代前から京都に住んでるの?」と聞かれ「祖父母の代から」と言い「その前は?」と聞かれて「大阪だったと思う」とうそをつく。かつての菜々実はいろんなことを話してくれたのに、私は言えなかった。

 他愛ない会話でつく塵のようなうそも、それが続くと自分は何者なのかが、どんどんぼやけていく。自分と外部を隔てる殻は厚くなり、閉じ込められる。孤立する。

 小さなうそを、もう増やしたくなかった。

 「自分は自分。他人からの承認はいらないし、他人の意見を変えるつもりもない」

 後部座席から、運転手の後頭部にふわりとボールを投げるように放った。私は、続けた。

 「でも、大切に想う人には知っていてほしい」

 「どうしたん?」

 外を向いていた菜々実の顔が、ゆっくりとこちらに戻った。私は目を合わせた。

 「伝えたから、知ってもらったから何がどうという話でもないんやけど……。でも、ずっと怖くて言えへんかった」

 菜々実は黙っている。

 「私さ、在日韓国人三世やねん。菜々実と出会った時はもう、日本国籍やったけどな」

 菜々実の顔が上下に動いた。暗い車内では、彼女がどんな顔をしているのかわからなかった。聞いてくれていることは、わかった。

 「私自身は深刻な差別を受けたことはない。在日韓国人三世であることで、私を見てほしくなかった。そこをもって語られたくなかった。それを超える自分があるし、つくってきた。けどやっぱり、折にふれて意識されて消えずに根を下ろしているような、私の一部やねん」

 一気に話しきった。とてつもなく長く感じた数秒の沈黙のあと、

 「うん」

 菜々実は、肯定とも否定ともわからない言葉だけを発した。「話してくれてありがとう」といった定型文も使わなかった。

 ただ、彼女の右手が私の左手を握ってきた。後部座席で、妙齢の女ふたりが手をつなぐ。菜々実はぎゅっと力を込める。温かかった。

 「手のひら、汗かきすぎやろ。ベタベタやで」

 照れ隠しだった。

 「からだを温めるものばかり飲み食いしてるからな」

  菜々実は、いたずらを見抜かれた子どものように言った。顔を合わせて、いひひひと笑う。昔から、笑いの勘どころが合う。

 「何気ない会話の中で、小さいうそをついたと思う。ごめんな」

 「なんで梨華が謝るのよ」

 菜々実が汗ばんだ手を、一層強く握った。

 「じゃあ、言わせてもらうけどな」

 私は、コミカルな空気を醸し出すように努め、続けた。

 「大学のとき、菜々実が日本的なものに出会うと言う、『日本人に生まれて良かった〜』に胸を締めつけられていた。私にとって『日本人』って言葉は、排除の意味を伴うからさ」

 喉の奥で絡まっていた痰を、吐き出した。菜々実は自身の記憶を辿るように、思い返しているようだった。

 私の正面に来るように全身を近づけた。目を見開いている。

 「ごめん、悪気はまったくなかった。自分で日本人という言葉をどうやって使っていたか。どう受け止める人がいるか。意識すらしたことがなかった」

 「ほとんどの偏見や差別って、するほうにその意図はない。自分はしたくないし、しない人間だと思い込んでいるからね」

 「過去までさかのぼって、自分が恥ずかしい」

 菜々実の声は小さくなった。

 「意図せず、そんなつもりはなかった、で私も誰かを貶めていることあると思ってるよ」

 「私も無邪気な顔で子どものことを聞いてくる人たちにしんどい思いをしているのに、想像力が働いてなかった」

 想像力。少しだけでもみんなが持ち寄れば、温もりがあるほうへ進んでいける。思いがけず相手を傷つけたとしても、生身の人間同士ならば回復していける。

 車窓から、暗闇にぽっかりと浮かび上がる赤と白の鉄塔が迫ってきた。二日前よりも、美しい。菜々実に伝えられたこと、心と心で深めていく話ができたこと。温かいものが広がっていた。喜びを伴った他者との関係は、世界の見え方を一変させてくれる。

 タクシー乗り場で菜々実と別れた。新幹線改札に向かって数歩進んだあと、振り返って、水たまりの集合体のような中から菜々実を探した。白いワンピースに、月明かりがスポットライトのように当たっている。たくさんの染みの中で一つ、星のように発光していた。

 ふと、『星の王子さま』の寓話を思い出す。星の王子さまと出会ったばかりのキツネは、こう言った。

「あんたは、まだ、いまじゃ、ほかの十万もの男の子と、べつに変わりない男の子なのさ。だから、おれは、あんたがいなくなっていいんだ。あんたもやっぱり、おれがいなくなっていいんだ。あんたの目から見ると、おれは十万ものキツネとおんなじなんだ。だけど、あんたがおれを<飼いならす(絆をつくる)>と、おれたちは、もう、おたがいに、はなれちゃいられなくなるよ。あんたは、おれにとって、この世でたった一人のひとになるし、おれは、あんたにとって、かけがえのないものになるんだよ……」

 仲良くならなければ、この地球上で似たり寄ったりのただの人にすぎない。絆ができれば、お互いにとって、この世に一人しかいない固有の存在になる。

 王子さまと友だちになったキツネが、何でもなかった麦畑を見て王子さまの金色の髪を想像するように、定番すぎて選ばなかったピンクベージュのマニュキュアを見たら、菜々実のことを私は想うだろう。ピンクベージュもいいなと、爪に塗るかもしれない。

 親友とは、理解したいと想い合い、影響し合う関係のこと。自分が相手の中に入っていくこと、相手が自分の中に入ってくることを受け入れること。自らを変えていけること。

 耳元で揺れる、小さなピアスに触れた。

 数時間前、「良いものやから。ひと月早いけど」と母が赤いリボンのついた小さな箱をくれた。母が学生のときに買ってもらったらしい、十八金のピアスが入っていた。

 二つの輪がねじれて伸びるように連なり、お互いの輪郭に作用したりしなかったりするデザインで、まるで私と菜々実のように思えた。

 表にルビーの指輪が描かれたメッセージカードには、「誕生日おめでとう。突き抜けて! 母より」と、青臭いメッセージが黒マジックで書かれていた。

 拠りどころにすべきは、自分にとって不可欠な他者の存在なのかもしれない。

 他者の中に、意味がある存在としての自分がいることで、この世にいる私を発見できる。同じように、自分にとって無視できない他者やその関係の集積として、私は確かに、この世界にいた。



つづく
◀︎1話から読む _#01最愛

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