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ヨンエの価値 _『リファ』#10【小説】

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 「淡路島ポークのロースト レモンソース」
 「真鯛と季節野菜のオーブン焼き ラビゴットソース」
 「牛タンのミルク煮込み イタリアのパンチェッタ巻き」

 黒板に書かれたセコンドピアットを見て、口の中の唾液が増える。真鯛かな、胸の内で決めて扉を開けると、奥の席にヨンエさんが座っていた。

 待ち合わせに遅刻したことがない彼女を待たせてはいけない。10分近く前に到着したが、今日も先を越されていた。

 ゆったりとした白いサマーニットが、白い陶器のようにつるりとしてきめ細いヨンエさんの肌を引き立てている。細く長い指先は、文庫本を開いていた。

 移動中や待ち時間に文庫本を読む人の姿を、最近見なくなった。懐かしさが込み上げる。

 背表紙を覗くと、彼女が好む詩集だった。

 「また読んでるんですか?」

 あいさつを兼ねて声をかけて、目の前の席に座る。

 ヨンエさんは出会った時から、茨木のり子の詩集を好んでいた。

 私もヨンエさんを通じて茨木の詩にいくつか触れた。

 ナイーヴな感受性と共にある意志の強さに気後れしたというか、あまりにもストイックに感じて、彼女の世界を深く知ろうとしなかったが、ヨンエさんは、茨木が73歳で刊行し、詩集としては異例の十万部超のベストセラーになった『寄りかからず』の表題作を繰り返し読んでいた。

寄りかからず/茨木のり子

もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ

 ヨンエさんを描写しているのかと思うほど、彼女の姿勢そのもののような詩だった。

 今年三十九歳になるはずの彼女は、何者にも心を許していないと感じる。修行僧のような高潔な孤高さもあるし、ヤクザの若頭のような影もある。

 恋人がいるのかいたことがあるのか、そのたぐいの会話をしたことがない。二十代のころから、彼女とはチャラい話を避けているところもある。

 長く仕事を共にし、数ヵ月に一度こうやって食事をする仲ではあるし、気のおけない友人だ。私は彼女のことを、どこまで知っているのだろうか。

 彼女が傾倒する茨木のり子は、夫を早くに亡くしたあと、五十歳から韓国語を習い始め、韓国の現代詩を紹介することにも尽力する。日本と朝鮮半島に縁があるところも、ヨンエさんが茨木を好む理由と関係するのだろうか。

 ヨンエさんは、私の問いかけには反応せず、文庫をカバンのなかに閉まった。

 「ひさしぶり。一年近く会ってなかった」

 「コロナで一変しちゃいましたよね」

 あいさつを交わしながら、互いの近況を報告する。

 飲み物のオーダーを聞かれた。ヨンエさんはスパークリングワインを、私はクラフトビールを頼む。食事後も仕事を控えているだろうに、迷わずアルコールを注文するところは、同僚だった時から彼女に親近感を抱いているところだ。

 予約していたシェフのおまかせコースから、入り口に掲げられてメインディッシュを選んだ。

 ヨンエさんは、先日依頼をもらった企画について、改めて説明をしてくれた。

 これまでの家族や家族観では語りきれない人たちにスポット当てることで、違う人同士が共生する世の中が当たり前の風景になったらいいなと思ってる。そう企画の背景にあるものも語った。

 飲み物と、前菜の枝豆とじゃがいものパルミジャーノ和えが運ばれてもきた。

 「私がイチ企画で叫んだところで、明日から社会が変わるなんて魔法はないんやけど」

 ヨンエさんは、目線を下げる。思案し探っている。沈黙の中で、次に放たれる言葉を待つ。

  「同質なものを歓迎するムードがコロナでより加速しているところに、粒のような小石でも、投げ続けたいやんか」

 淡々と、でも力強く言った。

 小石を投げ続ける、か。小さな抵抗の連続が、空気を入れ替えていく。からだが前のめりになる。

  「一発、一発の積み重ねで十年経ったら景色が変わる。それを性的少数者の世界で続けているのが、二ノ宮薫さんですよね」

 「そうそう。彼って、眩しいよな」

 「ネットに出ている二ノ宮さんのインタビュー記事をいくつか読んだんですけど、精子提供を受けて授かった第一子を世間に公表するかどうかで迷い、公表を決断した背景が印象的でした。『この子が大きくなったときに、オープンにするかしないかを心配するような世の中でいいのか』って。発信をすることで多くの人が知り、変わっていくことで、わが子にとっても生きやすい社会になる。隠して生活を続けるのは現実的ではない。そう考えるに至ったって」

 二ノ宮薫について話しているのに、自分に投げかけられている問いとして頭の中を駆け巡る。

 出自について隠すことを選んでいる私は、この先も、秘めなければならない社会で息を潜めて生きていくのだろうか。

 今の私は、両親が自らのルーツを話してくれたように胸を張って、わが子に説明できない。どういうかたちで息子たちに、話すのだろうか。

 プッタネスカが運ばれてきた。オリーブとトマトと、ピリッと効いたケイパーの香りが食欲をそそる。ヨンエさんは白ワインを、私はモヒートを追加で注文した。

 ふと、二ノ宮について調べている時に知った南美貴の逮捕について、ヨンエさんはどう見て、感じたのか。

 知りたい気持ちがむくむくと芽生えた。



つづく
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