第九話 ラブレター

 空手の大会がちょうど一週間後に迫っていた。
 その日曜日、サクラちゃんが病室にいた。真紫色の変なシャツを着ていたけど、その可愛らしさは少しも減ってない。
 そのサクラちゃんがさっきから波田さんに向かって、二学期の新しい出来事を次から次へと話している。普段おしゃべりな波田さんが、うんうんとうなずきながらサクラちゃんを、時々口を挟みながら聞いている。口が言葉に追いつかない、とでもいった様子で次から次へと話題を変えているサクラちゃんの様子が実に可愛らしい。
 僕は、いつ波田さんから話を振られてもいいように二人の話題の移り変わりに注意しながら、おばあちゃんの横で本を読んでいた。でも、波田さんは気付かない。
 タクチカンはサクラちゃんが来るとすぐにカーテンを閉めてしまった。相変わらず大人気ない・・・。
 おばあちゃんは寝てる。増田さんはかなり前からぼんやりと外を眺めて身動きもしない。きっと寝ているのだと思う。目は開いてるけど。
「あ、そういえば参観日があるの。お母さん来れる?」
「当たり前でしょ。いつ?」
「十月十三日。」
「あと一ヶ月近くもあるじゃない。ギプスもその時までにはきっと取れてるわね。」
 そういえば、僕も参観日の知らせを学校からもらっていた。どうせお母さんは来れないから捨てたけど。
 ・・・僕にもいつか、僕自身の子供の参観日に行く日が来るんだろうか?あ、でも普通は母親が行くものだ・・・。とすると、サクラちゃんが・・・。
「おいっ、信二っ!行くぞ!」
 いつの間にかタクチカンのカーテンが開かれており、ベッドの上のタクチカンは何だか怒ったような顔で(いつものことだけど)ベッドの上からわめいた。郁江さんが「信二君、宜しくお願いします」と言っていつものように頭を下げた。
 あれ?と僕は思った。郁江さんの様子がなんとなく普段と違ってるような・・・。なんだろう?と考える間もなく、「早くせんかっ!」とタクチカンに怒鳴られた。
 周りの人達はもうタクチカンの怒鳴り声には慣れてしまって見向きもしない。もしかしたら、とちょっとした期待をもってサクラちゃんをそっと見たけど、その真っ黒な瞳は波田さんだけしか見ていない。
 なんて素直で、真っ直ぐで、そして美しい目だろう!
 タクチカンにため息を気付かれないようにして僕は彼の元に行き、いつものように彼の体を抱き上げて車椅子に乗せ、屋上へと向かった。
 屋上に行くまでのあいだ、タクチカンは珍しく無口だった。屋上に着いてからも文句がない、喋らない。
 歌うわけでもなく、下界を食い入るように見るわけでもない。時々、頭上の真っ青な空を見上げては、頭を落として息を吐いている。何かの健康法だろうか?
「あ、あの・・・」
 たまらなくなって声を掛けた僕をタクチカンはギロッと見ると、何も言わずに、また無言でその健康法を繰り返している。
 僕は不意に思いついた。もしかしてこれは〝ため息〟なのではなかろうか?
「あ、あの、・・・何か、あったんですか?」
「・・・はあ」
 ああ、やっぱりそうだった。ため息だった。喉元まで出掛かっていてどうしても思い出せないものをやっと思い出したとき、のように僕はすっきりした。
「おい・・・」
 タクチカンの声が低い。
「あ、は、はい?」
 またしばらくのため息。そしてタクチカンはシワシワの顔を右手でひとなでしてから、ようやく決心したように言った。
「俺、波田に恋文を出す!」
 ・・・波田さんに、
 ラブレター?
 「だからぁ!」よほど要領を得ない顔を僕がしていたのだろう。タクチカンは怒鳴りつけるように言った。「付け文しようってんだよ!」
 ツケブミ?
 もっと分からん。遺書のことか?
 言い切ったタクチカンが、ギョロリと太陽を見ている。いくら日差しが弱くなったとはいえ、太陽は太陽だ。彼はそれを、まぶしくもなさそうにまっすぐ見ている。
「戦争に行ったら俺は死ぬかもしれん。いや、おそらく、・・・死ぬ。」
 ・・・この前の話と違う。
「だから、その、・・・死ぬ前に、だな、その、お、女の体を知っときたい。」
 多分、タクチカンの顔は真っ赤になっていたと思う。漆黒だからわからない。
「か、体を知る?」
「そ、そうだよ!そ、その、なんだ・・・。つまりは波田と一緒にだな、お互いの体を・・・知るってことだ!」
 は?
「あ、あのさ、波田さんに『お互いの体を知ろう』って頼むってこと?」
「こ、こ、このばかっ!そ、そんなこと!かっ、書けるわけないだろがっ!」
 タクチカンは怒鳴ったけどいつもの勢いがない。
「だからそうはっきりとは、うん、・・・書かないほうが、いい・・・、はずだ・・・。」
 ・・・つまり、タクチカンは波田さんの、あの巨体の、裸を見たいってこと?・・・見てどうするんだ?
「あ、あの・・・。それなら波田さんに直接頼めば・・・」
 波田さんなら大声で笑いながら裸を見せてくれると思う。
「ばかっ!それができたら最初から・・・ゴ、ゴホッ・・・そ、それじゃあ、じ、情緒がっ!情緒がぁねぇだろうがっ!」
 さっきの郁江さんの、怒ったような、困ったような顔が頭に浮かんだ。
「で、でも、郁江さんに、その・・・」
「母さんはかんけぇねぇだろ!」
「いいのかなぁ・・・。」
「いいさ。もうガキじゃねぇんだから!」
 それならもう言うことはない。どうせ、「がんばってね」とでも言うとまた怒鳴られるだけだろう。
 僕は黙っていた。タクチカンもまた、黙って太陽を見ている。
 雲ひとつない、気持ちよく晴れた日だった。
 学校がないのがいい。
 暑くなくなったのもいい。
 久しぶりに、伸びでもしたいようなのんびりとした気持ちになっていた。あんまり陽が暖かいので僕は目を閉じた。そして目を閉じた瞬間、僕はハッと気付いた。
 タクチカンの言う『波田』って、もしかして、・・・サクラ、ちゃん?
「あ、あの、波田さんって、あの、もしかしてサクラちゃんの、こと?」
「当たり前だ。他に誰がいる・・・。」
 頭がクラクラした。気持ちが悪くなった。必死で目を閉じても世界はグルグル回っている。
「うん、よしっ!こうするっ!」
 タクチカンが叫んだ。
「な、なに?」
「きさまも書けっ!で、二人の文のだな、最大公約をとる!明日までに書いてこい!」
 要は、自分だけ書くと恥ずかしいから、僕にも書かせようってことだ。
 僕は、動揺していた。
 ・・・認めなくなかった。
 僕の初恋のライバルは、どこかの国の王子様とか長身長足でカッコイイお金持ちとか、そういうものであるべきだった。
 それが、・・・この目の前の黒色の物体が、コレが僕の初恋のライバルで、コレに僕は嫉妬している。
 事実は事実だ。認めなければ・・・
 なんだか心臓も痛い。

 翌日の夕方、屋上で僕らはお互いの「付け文」を見せ合った。徹夜して頭がぼぉっとしているところを植村さんの蹴りがきっちりみぞおちに入って死ぬ思いをした、二時間ほど後のことだ。
「まず、お前のからだ。」
 
 僕の「付け文」↓

 はじめまして。園崎信二といいます。
 同じびょうしつの園崎静代のまごです。
 お母さんは園崎香代子といいます。
 僕は一人っ子です。兄姉妹弟妹はいません。
 しゅ味は空手です。でも、自転車には乗れません。
 好きなものが三つあります。
 二番目に好きなのはやきそばです。理科も好きです。自転車には乗れませんが、乗っている人を見るのお三番目に好きです。
 でも
 一番好きなのは


 サクラさんです。
                                      園崎信二


「お前、一年からやり直せ!いや、生まれ直せ!」
 そう言ったタクチカンの、数十枚の「付け文」。長いので省略しておく。↓

 拝啓

 残暑今ナヲ厳シク、蒼空ニ浮カブ白 点ニ間断ナク汗流シツツモ、筆ヲトルニ不思議ト身ニ冷水アビタル如ク感ジ居リ候、己ガ身トノ感ジセザルモマタ不思議ナコトト思ワレ候。
 戦況壱百、弐百転ノノチ、対欧米列強ノ聖戦、最早佳境モ近ヅキ、帝国ノ絶対ノ勝利ヲ確信スル念、昨今マスマス強マルコト岩ノ如シ・・・

(中略)

 モツタイナクモコノ身、陛下ニ奉ゲアゲ奉リ、一日ヲ千秋ノ如ク感ジヲリ・・・

(中略)

 ・・・ト、コノヤウニ大本営ヨリノ呼出、心願致シヲリ候。

(中略)

       
 大日本帝国海軍志願予備兵
                                     多口完

 
「どうだ!」
 タクチカンは誇らしげにそう言うと、まるで、僕が触ってると穢れる、とでも言いたげに僕の手から手紙の束をひったくり、丁寧にそれを折り直すと、アバラの透けた胸元に大切そうに仕舞い込んだ。
「・・・う、うん。あの、・・・カタカナ多いね。」
「当たり前だ!男がひらがななんて使えるかっ!」
 タクチカンが上機嫌で怒鳴った。

 それが三日前の日曜日。
 どうやらタクチカンはあの手紙を本当にサクラちゃんに渡してしまったらしい。
 タクチカンの口からそれを聞いたとき、僕はまた心臓が痛くなった。気分もそれ以来ずっと悪かった・・・昨日までは。

 今日も病室にサクラちゃんが居る。相変わらず可愛く笑ったり、お話したりしている。
 ああ、なんて可愛いんだろう・・・
 タクチカンも居る。こちらは哀れなほど落ち込んでいる。
 僕の心臓をあれほど責めさいなんでいた苦しみは昨日、ある看護士さんの話を聞いた瞬間にさっぱりと抜け落ち、今はまるで晴れ渡った秋の青空のように気持ちよい。
 その看護士さん、昨日、廊下を歩いていて紙くずで溢れかえったゴミ箱を発見したそうだ。で、(まったく)と彼は思い、(しょうがない)と決心して、そのゴミを片付けようとゴミ箱に近づいた。そしてその紙くずの一番上、開いたまま捨てられていた一枚を読んでみた。そしたら俄然興味を惹かれた。
 一枚からもう一枚、さらにもう一枚、と読んでいるうちに、結局、彼はその場でタクチカンの書いたラブレター、全数十ページ全てを読み上げてしまったという。読み終わった彼は、手紙の最後にあった署名の主に親切にも届けてあげた・・・

 ―あれはねぇ、候文といってね。今、あんなの書ける人は滅多にいないんだよ。さすが田口さんだね。捨てるにはもったいないからさぁ、俺がもらおうと思って田口さんに断りに行ったんだけど、田口さん、すごい顔してその手紙持ってっちゃったんだよ―

 残念そうにそう言うと、その看護士はスタスタと歩いて行ってしまった。
 タクチカンは昨日から絶食している。心配した看護士さんやお医者さん達から質問責めにされても、「なんでもない」「なんでもない」と言って逃げ回っている。でも、そうやって秘密を守ろうとすればするほど、必死で逃げ回れば逃げ回るほど、可哀想に、事は大きくなっていく。
 今もまた、タクチカンは不必要に採血されている。針の大嫌いな彼は、ギュッと目を閉じて耐えている。
 泣いてるかもしれない。
 僕は腹筋が痛い。気を緩めるとまた、笑いが爆発しそうで大変である。
 ああ、今日もさわやかな秋空だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?