『坑夫』夏目漱石|感想

ー『坑夫』の主人公像ー

・「なにを言いたいのかわからない」作品と「矛盾」した主人公

 漱石は、日本で一番有名な作家と言っても過言ではないだろう。教科書に『こころ』が載っていることからも窺える。ただ、彼の著作の中でも『坑夫』はあまり知られていない作品ではないだろうか。
 私が『坑夫』を知ったのは、村上春樹の『海辺のカフカ』を読んだときだ。『海辺のカフカ』の田村カフカは家を出てから辿り着いた図書館で、夏目漱石全集を読み耽る。図書館職員の大島さんとの会話において、カフカは『坑夫』について次のように述べている。

 「主人公はお金持ちの家の子どもなんだけど、恋愛事件を起こしてそれがうまくいかず、なにもかもいやになって家出をします。あてもなく歩いているときにあやしげな男から坑夫にならないかと誘われて、そのままふらふらとついていきます。そして足尾銅山で働くことになる。深い地底にもぐって、そこで想像もつかないような体験をする。世間知らずの坊ちゃんが社会のいちばん底みたいなところを這いずりまわるわけです…(中略)…それは生きるか死ぬかの体験です。そしてそこからなんとか出てきて、またもとの地上の生活に戻っていく。でも主人公がそういった体験からなにか教訓を得たとか、そこで生きかたが変わったとか、人生について深く考えたとか、社会のありかたに疑問をもったとか、そういうことはとくには書かれていない。彼が人間として成長したという手ごたえみたいなのもあまりありません。本を読み終わってなんだか不思議な気持ちがしました。この小説はいったいなにを言いたいんだろうって。でもなんていうのかな、そういう『なにを言いたいのかわからない』という部分が不思議に心に残るんだ。うまく説明できないけど」

村上春樹『海辺のカフカ(上)』p220,221

 なるほど。カフカが言うには、『坑夫』は「なにを言いたいのかわからない」小説である。私は『坑夫』について、そういったふんわりとした認識を持ったままだった。
 『海辺のカフカ』を読んでから1年ほど経ち、その記憶を思い出したのは、1ヵ月ほど前に読んだ石原千秋の『読者はどこにいるのか 読者論入門』だった。近現代の「読者」について分析した本書で石原は、漱石が『坑夫』の主人公を近代の「女」として描いたと指摘している。

 漱石ははからずも「矛盾」という言葉で結局坑夫にならなかったこの青年を書き、同時代的には外面からは統一された自我を持てない存在と見なされていた「女」の内面を書いていたのではなかったか。

石原千秋『読者はどこにいるのか 読者論入門』p254

 こういった経緯から、そろそろ『坑夫』を読もうと思い立ち、手に取った。勿論、『海辺のカフカ』で大まかなあらすじは知っていたし、『読者はどこにいるのか 読者論入門』で「矛盾」がテーマの1つになっていると知っていた。そういった知識を踏まえて、『坑夫』が「なにを言いたい」小説なのか考えながら、自分なりに読んでみることにした。

・『千と千尋の神隠し』

 『坑夫』は『海辺のカフカ』の引用通り、家出した主人公が坑夫にならないかと誘われて足尾銅山に行き、坑夫の壮絶な実態を目撃するという小説である。主人公は女性関係で問題を起こし、家出する。怪しげな男に坑夫に誘われ、自殺してもいいという思いで、そのままついて行く。鉱山に着くと、坑夫がどういう仕事をしているのか、どういう生活をしているのか、知ることとなる。主人公は悩みつつも、最終的に少しの間鉱山で働き東京に戻る。以上が大まかなあらすじである。
 読み進めているうちに、主人公が馴染みのない場所で働くというプロットをどこかで見たことがあると思った。考えてみると、ジブリ映画の『千と千尋の神隠し』が思い浮かんだ。『千と千尋の神隠し』も、主人公である千尋が油屋に迷い込み、そこで少しの間働き現実世界に戻る、という物語である。
 勿論、『坑夫』の方が先に発表されたものだが、『千と千尋の神隠し』と比較してみると、カフカが言っていた「なにを言いたいのかわからない」という台詞も理解できるかもしれない。
 『千と千尋の神隠し』の千尋は、油屋での交流を通じて人間として成長していく。働き始めたばかりの頃は頼ってばかりだったが、仕事の経験を積むにつれて、カオナシの責任を自分で負ったり、ハクを助けるために銭婆の家まで行ったり、主体的に行動するようになる。油屋に迷い込んだ時はハクや釜爺に言われるまま湯婆婆に働く許可をもらいに行ったが、銭婆の家から戻ってきたときは自らが油屋を出る決意をし、元の世界に戻っていく。総じて、受動的だった主人公が能動的になっていく成長を描いた物語と言えるだろう。
 対して『坑夫』はどうだろうか。カフカが「彼が人間として成長したという手ごたえみたいなのもあまりありません」と言っているように、あまり成長したような印象は受けない。あくまで受動的な姿勢を貫いているように思われる。それではやはり『坑夫』は「なにが言いたいのかわからない」小説なのだろうか。

・なぜ「なにが言いたいのかわからない」のか

 私は、2つの点に注目した。
 まず1点目は、「矛盾」である。『坑夫』の主人公は、考えていたことがすぐに変わったり、考えていることと行動が一致していなかったりする。主人公は、自分の「矛盾」について次のように分析している。

人間のうちで纏まったものは身体だけである。身体が纏ってるもんだから、心も同様に片附いたものだと思って、昨日と今日とまるで反対の事をしながらも、やはり故の通りの自分だと平気で済ましているものが大分ある。

夏目漱石『坑夫』p28

 主人公が考える人間とは、「身体」である。『読者はどこにいるのか 読者論入門』で石原が指摘しているように、『坑夫』の主人公は無性格論を唱えているように思う。つまり、人間には「心」が存在せず、「身体」のみが存在するのだと。だからこそ、主人公はすぐに心変わりする。怪しげな男がいた店で店員に饅頭を渡されたときも、最初は食べないと決めておきながら、すぐにその意志を曲げるし、死ぬつもりで鉱山に来たはずなのに、いざ本当に死にそうになるとやっぱり死にたくないと思う。要するに、その時々の「身体」の辛さに「心」が流れていくのだ。「心」では反対のことを思いながらも「身体」に正直なので、「矛盾」しているように感じてしまう。こういった「矛盾」によって、主人公の「心」に一貫した軸が存在せず、最初から最後まで成長していないように感じてしまうのだ。

 2点目は、物語の終わり方である。『坑夫』の終盤で主人公は、鉱山で働くことを決める。そして、5ヵ月働いて東京に戻る。ここで注目したいのは、5ヵ月働いた出来事が一切描かれていないことだ。物語の最後は、次のように締めくくられる。

 翌日から自分は台所の片隅に陣取って、かたの如く帳附を始めた。すると今まであのくらい人を軽蔑していた坑夫の態度ががらりと変って、却って向うから御世辞を取る様になった。自分も早速堕落の稽古を始めた。南京米も食った。南京虫にも食われた。町からは毎日毎日ポン引が椋鳥を引張って来る。子供も毎日連れられてくる。自分は四円の月給のうちで、菓子を買っては子供にやった。しかしその後東京へ帰ろうと思ってからは断然已めにした。自分はこの帳附を五箇月間無事に勤めた。そうして東京へ帰った。――自分が坑夫に就ての経験はこれだけである。そうしてみんな事実である。その証拠には小説になっていないんでも分る。

夏目漱石『坑夫』p267,268

 働いている場面が描かれずに物語は終わりを迎える。これは『千と千尋の神隠し』でたとえると、千尋が湯婆婆へ働かせてくださいと頼む場面から、千尋が両親と再会する場面までワープし、物語が終わる、ということになる。むしろ、働いている場面こそが大切なのではないだろうか。事実、『千と千尋の神隠し』では、千尋は働くことになってから油屋の人たちとの交流を経て成長する。『坑夫』で主人公が鉱山で働いている場面を描かないということは、主人公の成長を描かないことと同義だろう。物語の核を成している重要な場面が描かれていないために、「なにが言いたいのかわからない」小説と言われてしまうのかもしれない。

・成長の物語

 それでは、果たして『坑夫』の主人公は本当に成長していないのだろうか。私は必ずしもそうではないと考えている。鉱山見物の終わりに案内役に置いていかれた主人公は、坑夫である「安さん」と出会う。「安さん」は主人公と同じく、高等教育を受けている。学問に携わってきたのにもかかわらず、鉱山で働いている。ここで働きたいという主人公に、「安さん」は東京に戻った方がいいと言う。自分を愚弄するものばかりの坑夫と違い、心の底からアドバイスをくれた「安さん」との交流を経て、主人公は次のように思う。

 安さんは堕落したと云った。高等教育を受けたものが坑夫になったんだから、成程堕落に違ない。けれどもその堕落がただ身分の堕落ばかりでなくって、品性の堕落も意味しているようだから痛ましい。…(中略)…昨日着き立ての自分を見て愚弄しないもののないうちで、安さんだけは暗い穴の底ながら、十分自分の人格を認めてくれた。安さんは坑夫の仕事はしているが、心までの坑夫じゃない。それでも堕落したと云った。しかもこの堕落から生涯出る事が出来ないと云った。堕落の底に死んで活きてるんだと云った。それほど堕落したと自覚していながら、生きて働いている。生きてかんかん敲いている。生きて――自分を救おうとしている。安さんが生きてる以上は自分も死んではならない。死ぬのは弱い。……

夏目漱石『坑夫』p243

 自分と同じような境遇の坑夫を見て、主人公は考えを改めたのだった。「安さん」は自ら望まずに坑夫になった。対して主人公は自ら望んで坑夫になろうとしていた。その愚かさに気づいたのだ。そして、当初鉱山の案内が終わったら、東京に戻ろうと思っていたが、鉱山に残ることにする。今までの受動的な姿勢と打って変わり、自らの意志で残ることを決意したのである。この決意は、物語中盤で飯場頭に東京に戻った方がいいと言われ、いや残りますと言った状況とは異なる。飯場頭との会話では絶対に堕落してみせると意地になっていたのに対し、「安さん」との会話では自分、「安さん」、社会についての考えを巡らせた上で決断する。「人間のうちで纏まったものは身体だけである」と言っていた主人公に「心」が生まれた瞬間だった。その象徴として次の場面が挙げられる。

 表へ出ると、いつの間にか曇った空が晴れて、細い月が出ている。

夏目漱石『坑夫』p252

 物語序盤からずっと曇っていた天気が晴れたのである。これは主人公の「心」の発生を象徴していると言えるだろう。
 このように考えていくと、鉱山で働いた5ヵ月間が描かれていない理由も自ずとわかってくる。それは、主人公が鉱山で働く以前、つまり鉱山案内の段階で「安さん」との交流を経て成長していたからなのだ。『坑夫』という小説は、読者に主人公の成長を予感させ、鉱山で働く5ヶ月間をあえて描かないことで物語に余白を作り、「不思議に心に残る」ような構成になっているのである。「なにが言いたいのかわからない」とは、物語の余白であり、それに伴う余韻のことを指していると言えるのではないだろうか。

・終わりに

 ここまで、自分なりに『坑夫』をどう読んだか分析してみた。『坑夫』は漱石の作品の中で最低の出来だという話を聞くことがある。確かに、物語の筋が単調でわかりづらいかもしれないが、教訓のようなものも含まれているように思う。たとえば、今過ごしている環境のありがたさに感謝しよう、というものである。鉱山の生活の中で主人公が忌避するのは、南京虫がついた布団や壁土のような味の南京米である。いくら死んでもいいという思いで、鉱山に来ても、その思いとは裏腹に環境の悪さが目に付いてしまう。最終的に、主人公は自分の家の六畳間に戻りたいと思う。やはり、どんなに堕落したいと思っても、結局は元住んでいた場所に戻りたいと思うようになるのではないだろうか。だからこそ、私は今住んでいる環境のありがたさに気づかなければならないと強く感じた。
 この記事を通して、「なにを言いたいのかわからない」理由について考えてみたが、一点だけ気になった点がある。それは、主人公は最終的に鉱山で5ヵ月働くが、それは坑夫としてではなく帳附として働いたということである。坑夫として働く前の健康診断で気管支炎と診断されてしまい、坑夫として働くことができなかった。それならば、主人公の成長は本当の意味で「成長」したと言えるのだろうか。「安さん」は坑夫として働いている。主人公は帳附として働いている。この非対称性は何を意味するのだろうか。それについてじっくり分析してみるのも面白いかもしれない。

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