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現実が心を満たすのに不可欠なのは!?私とは一体何か

「脳の持ち主が私である」という記事を読んで、あることを思い出しました。

あることとは普通に生活して、あ~だこ~だと喋ったり、動いたりしているのですが、実際はホルマリンにつけられた脳だけという状態のものです。

驚愕の状態に実際にそういうことができることが昔、実験されていたと思うのですが、どうなったのでしょうか。

法律的にいえば脳死は死に値するのかしないのかの論争があったと思いますが、これも捉え方によって変わってきます。

ここで私とは一体何なのであるか?という問いがでてきます。細胞は日々死んでは生まれ変わっているので、次の日は全くの別人なのに私というものを持続させている。

よく考えたらおかしいのに、私というのを持続させないとおかしいことになってきます。

そういうようなことを養老孟司さんがおっしゃっていました。

そう考えると昔の自分は本当は別の人なので今の自分と重ねてもし、苦しんでいる人がいるなら幻想でしかないことになります。

「我思うゆえに我あり」とデカルトはいったそうです。なるほどと思いながら、昔の実験で、意識する7秒も前に脳が判断しているという事実があるそうです。

つまり、手を動かそうと意識する前に能は指示を出しているということです。そんなことを中村文則さんの小説『教団X』や橘玲さんが何かの本に書いておられました。

私がその時思っていたのは細胞レベルにカギがあるのかと。人間はなくなっても細胞は連綿と続く。それが輪廻転生としてずっと続いてきたというのが仏教の考え方なのかと。

だから「現実でこそ心は満ちる」ということにつきるのが、私は一致すると思いました。

私とはという問いよりも今の自分に納得し、受け入れ、現実問題として心を満たすようにする。生きていく上で重要なのではないかと。
#人生の幸せ #私とは
#幸福感

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